QUWROF.3



 女の粘着質な視線がうっとうしい。肩にまわる腕も、絡めてくる太腿も。

「嬉しいわ、クロロから連絡をくれるなんて」
「お前の顔が見たくなってな」

 クロロが甘事を吐くと、女は切れ長の瞳を細めて微笑んだ。彼も笑みを返し、長いブロンドに指を絡める。少々過剰過ぎる色気も押しつけがましい香水も好みではないが、絹糸のような繊細な手触りの髪だけはわりと気に入っている。

「嘘でも嬉しい」

 女は意味深に笑い、髪を弄ぶクロロの手に自分の手を重ねた。
 彼が携帯のアドレスから最初に選んだ相手は、個性の強すぎない利口で従順な女だ。必要以上に踏み込んでこない。追い縋ったりもしない。クロロと関係が続くのはこの手の立場をわきまえた女が多い。そうでない場合、一切の連絡を絶つか殺す場合が多いので、必然的にそうなっているというのが正しいのだが。

 クロロは女の唇を指で軽く押さえた。ぽってりと柔らかい感触があり、親指の腹にルージュの色が移る。目の覚めるような真紅だが、不思議と下品にならないのは、育ちの良さが顔にもにじみ出ているからだろう。
 指で唇を押し上げれば歯並びの良い白い歯が覗く。指先で歯列をなぞると女は一度ぶるっと身を震わせた。まだキスすらしていないのに、その瞳はこれから与えられるだろう行為を想像して潤んでいる。

 クロロは女の細い腰を抱き、壁に押し付けて望み通りの快感を与えた。自分のものではない唾液が絡み合ってどちらのものとも判断がつかなくなる。
 大きな窓から覗く空は灰色一色で、どんよりと重い雲が何層にも重なっている。女はキスの合間に腕を伸ばし、手探りでカーテンを閉めた。抱き合うと女の身体の起伏と弾力がはっきりと伝わり、薄いシャツの内側へと手を滑り込ませて肌触りの良いランジェリーやさらに奥の温かな素肌を探る。女は上気した顔で甘い吐息を漏らした。

(おっと……本題だ)

 このまま押し倒したい衝動を抑え、クロロは彼女の耳元に顔を寄せる。唇と同じくらい柔らかな耳たぶを軽く食み、ささやいた。アイシテル、と。その声は自分でも笑い出したくなるほど無機質だ。
 小刻みに震えていたまぶたがうっすらと開き、女が目顔で訊ねてくる。

「……どうしたの?突然」
「どうもしないさ、お前は……」

 お前はどうだと聞いたら、強制になるのだろうか?

 クロロはその考えをすぐに否定する。あの文意だと、相手に趣旨を伝えた上での強制という意味だろう。彼は気を取り直して言葉を続けた。

「お前はどうなんだ?」

 名前を呼び、顎のラインを指でなぞる。女は頬を染め、肌を滑るひんやりとした指の感触を全身で感じた。

「……そんなこと、聞かなくてもわかっているでしょう?」

 じっと見上げる瞳には、言葉以上に饒舌な、溢れんばかりの恋慕をたたえている。
 女の太腿がクロロの足の間に割り込み、これ以上じらさないでと訴えるように擦りつけられる。普段であれば後はもう、ただ一瞬の快感を求めて動物のように貪り合うだけだ。しかし今夜は事情が違う。クロロは内心いら立ちながらもう一度言った。

「ダメだ、答えろ。お前の声で聞きたいんだ」

 身体をさらに密着させて、女の小さな頭を包み込むように抱く。彼女は抱擁に身を任せ、クロロの背に腕をまわすと多幸感に包まれた声で言った。

「もちろん、愛しているわクロロ」

 全神経を集中して次の事態を見守る。些細な変化でも見逃すまいと注視するが、室内に満ちた空気は停滞したまま動かない。聴こえるのは互いの息遣いだけで、それ以外には音もない。

(なんだ?なにも起こらないぞ)

 あれではやはり強制になると言うことか?

 クロロが黙考していると、彼の心中など知らない女がねだるように唇に吸い付いてくる。
 こじんまりとしたリビングの壁にもたれ、飽きることなく唇を重ねた。密着した肌から熱を発散させながら、思うままにまさぐり合う。男としての正常な反応が現れると、女は陶酔しきった表情で指を這わし、布の下の形を確かめるようにゆっくりと動かした。お返しと言わんばかりにクロロも薄いストッキングの上から柔肌を撫で、スカートに手を滑り込ませる。

(……シャルは何かつかんだだろうか)

 間歇的に聴こえる女のあえぎ声が思考の邪魔をする。カウント方法は結局わからずじまいだが、彼はまず昂ぶった自身を鎮める行為に専念することにした。


 女のマンションを出ると、ちょうどタイミング悪く雨が降り出した。線のように細い雨が夕闇に包まれた街を濡らしていく。
 すぐに止みそうでもあるが、傘なしではあっという間にずぶ濡れになりそうな雨量だ。
 クロロはシャッターの降りた店の軒下に駆け込み、ロングコートの内ポケットから携帯電話を取り出す。そこで足元に一冊の本が落ちた。

(ああ、ポケットに入れていたんだったか)

 拾い上げたのは薄いグレイの表紙がついたメモ帳ほどの大きさの本。アジトに置きっぱなしにするわけにもいかず、取りあえず持ち歩いている。
 あれから念の文字が現れることはなく、中のページも忌々しい注意書きを除けばただの白いページだ。

 目の前の通りを車が行き交う。アスファルトの上で雨粒が踊り、わだちに水が溜まりはじめる。雨脚は徐々に強まっている。
 急な雨だったからか傘のない人間が目立つ。クロロが雨宿りをしている最中にも数人が駆け込んで来た。

 特に意図もなく、クロロは手にした本の表紙を捲ってみた。つい数時間前に目にした注意書きがそのまま記されている。読めば読むほど人を小バカにした文面だ。そこでふと、以前にはなかった文字を発見する。

加算ポイントは次ページをご覧ください。

 一瞬眉をしかめながらも、言われた通りページを捲る。

現在のポイント 1 pt
達成までにあと 999 pt が必要です。
コメント:初ポイントおめでとうございます!その調子でがんばってください。

 思わず本を投げつけた。
 ピシャ、と勢いよく跳ねた水が隣で雨宿りをしていた女の靴に散る。女は驚いた顔でクロロを見つめ、その横のくたびれた感じの中年サラリーマンもしょぼくれた目を向ける。気がつくと雨宿り仲間が増えており、特に理由はないが癇に障った。

 クロロは黙って本を拾い上げ、雨染みのできた本を懐に収めると、怪訝な視線を寄越した二人の男女に手刀を食らわせた。一般人程度のオーラと言えど、彼の手技は致命傷を与えるのにじゅうぶんで、二人の男女は順に膝を折り、顔面からアスファルトに崩れ落ちた。

 特に理由はなかった。
 しいて言うならタイミングが悪い。
 そこにいるのが悪い。
 視界に入るのが悪い。

 なんとも理不尽な理由だが、クロロはいつになく虫の居所が悪かった。
 コートの裾を翻して颯爽と歩きながら、すっかり冷静さを欠いた自分に苦笑する。些細なことで感情が揺れるのはずいぶん久しぶりだった。背後では悲鳴が上がっている。

 タクシーを呼び止め後部座席に乗り込むと、水分を含んで重みを増したコートを脱いだ。目的の番号をコールするとすぐに陽気な声が出迎える。

『もしもしー』
「何かわかったか、シャル」
『えー無茶言わないでよ、あれから一日も経ってないんだよ』

 お、団長か?と後ろでノブナガの声がする。他にも数人の声が聞こえた。
 好きに解散しろと言ったはずだが、まだ何人かアジトに残っているようだ。

『ま、ちょっと面白いことならわかったけどね』

 もったいぶった口調でシャルナークが言う。楽しそうに含み笑いをしているあたり、それなりに自信のある情報らしい。

「期待していいんだな」
『ま、ね。電話じゃなんだから、団長一度戻って来てよ』

 了解して通話を切る。運転手に行き先変更の意を伝え、クロロはウインドウを伝う横殴りの雨筋を眺めた。




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