安心毛布とトランキライザー02
「団長、あれじゃない?」
連日の雨でしっとりと濡れた市街地を走り抜けていると、運転席に座るシャルナークが言った。
あからさまな既視感に襲われながら、シャルの視線の先を追う。葉を落とした街路樹の向こうによく見知った女が一人、築年数の古そうな雑居ビルに消えた。
一階はレストランのようだがはその横の小さなエントランスに入った。
自然とビルの看板を見上げれば、2Fオリオン企画、3Fモリシタ手芸教室、4Fジーザス黒魔術スクール、5F、6Fデイジーダンスホール
「団長……!最近に黒魔術かけられた覚えはない!?」
シャルナークがハンドル操作もそっちのけで叫ぶ。が入った雑居ビルはとっくに流れる景色に飲まれた後だ。
「……今考えている所だ、あのクソ女」
「団長がこの前酷いことするからだよ、団長に復讐する気なんだよきっと」
「復讐?」
「スーツ、受け取ってあげなかったでしょ?アレはちょっとかわいそうだったよ」
かわいそう?あいつがか?
あいつは相変わらず、ほぼ連日アジトにやって来ているじゃないか。どれだけ無下に扱っても翌日にはにこやかにやって来る。雑草よりも図太い神経の持ち主だ。
だいたい黒魔術スクールって何だ。堂々と看板を出して許されるものなのか。
「どうする?Uターンする?」
「いや、そんな時間はない。明日にでも締め上げてやる」
「なんで団長はにだけそんなに冷たいかなー、他の女には表面上だけでも優しくするのに」
「表面上とは心外だな」
「一回くらいデートしてあげなよ、次のプライベートな頼みはタダにしてあげるからさ」
シャルナークがアクセルを踏み込み、スピードメーターがぐんと上がる。窓を数センチ下げると冷たい風が吹き込んだ。
「守銭奴のお前がずいぶん太っ腹だな」
「守銭奴って酷い。キッチリしてるって言ってよ」
「なぜそこまであいつに入れ込む。同情か?お前が相手をしてやればいいだろ」
「団長じゃなきゃ意味ないんだって。それになんで俺が団長の代わりなんてしなきゃいけないのさ」
「あいつは俺に執着しているだけなんだ」
ちょうど信号にかかり、シャルナークがブレーキを踏み込む。車体がやや前のめりになって停止した。
「執着って言うか、好きだからでしょ」
「どうだろうな」
「どうって、そんなの決まってるじゃん」
シャルナークがハンドルに腕を乗せ、眉をひそませて俺を見た。
「あいつはバカで単純な女だ。瓦礫の中で怯えきっていたあいつをたまたま見つけた俺を、安寧の象徴と見ているに過ぎない」
失ってしまえばその安寧が崩れ去るのだと信じ切っている。だから執拗に執着する。自分自身の心の平穏を得るために、俺という存在を。
シャルナークは首を捻り、何かを考えるような顔つきで虚空を見つめた。
「よくわからないけど、それってにとって団長はライナスの毛布ってこと?」
「移行対象とも呼ばれる」
「んー、俺はそうは思わないけどなあ。ってもっと単純明快だと思うんだ」
発進と同時にシャルナークが限界までハンドルをまわし、重心が左に移る。交差点の手前でUターンした車はドリフトしながら反対車線に滑り込んだ。
「おい、何のつもりだ」
「難しいこと言ってないで、その気がないならいい加減ハッキリさせてあげなよ。団長ってなんだかんだを突き放さないんだよね。思いっきり傷つけて、立ち上がれなくなるまで残酷にフればいいじゃん」
「いい加減にしろ、シャルナーク」
「今はクモの仕事じゃないからね、団長命令はなしだよ」
たった今走り抜けてきた道を逆戻りする。一般道で150キロ出すヤツがあるか、と言ってやりたかったが代わりにため息が出た。
先ほどの雑居ビルを見つけると車は歩道に乗り上げてレストランの看板をなぎ倒し、砂埃を上げながら停車する。衝撃で店の窓辺に飾られていた植木鉢が窓ガラスを突き破った。
うわ、やっちゃった、とシャルナークが笑う。悪びれた様子はまったくない。
「団長、そんなこわい顔しないでよ」
「違う。様子がおかしい」
「へ?」
*
遅めのランチを楽しむ人や、アフタヌーンティでお喋りに花を咲かせるご婦人たち。そんな穏やかな空気を劈くようにばん、と乾いた音が響いた。
内臓が揺さぶられているのかまともに立つことが出来ず、思わずしゃがみ込む。
うっすらと漂う硝煙と火薬の匂い。
「騒ぐんじゃねえ!死にてえのか!」
押し入ってきた覆面の男が突然発砲したかと思ったら、もう一発、今度は天井に向けて高らかに発砲した。テーブルの下から見えるのは、忙しなく行き交う複数の黒い足。
二人、三人、四人、五人、数えているとちゃん、と消え入りそうな声が耳に届いた。
(……ちゃん、大丈夫?)
地べたに這いつくばったまま、バイト仲間のマサムネくんが唇を動かした。私たちは無言で視線を交わす。
さっきまで騒然となっていた店内は今は不気味なほど静かで、お客さんたちはみんな息を詰めている。その沈黙が一瞬揺らぎ、誰もが息を呑んだ。
厨房から、オーナーシェフのアレッシオさんが後頭部に銃を突きつけられた状態で現れたからだ。手荒なことはしないでくれ、と懇願する彼を男が銃の腹で殴りつける。
「この店はオレたちが占拠した、逃げる素振りを見せたヤツは殺す!」
空席だったテーブルに乗り上げ、リーダー格の男が声を張る。外を警戒する者や客を見張る者、男たちは無尽蔵なようで統制の取れた動きをしている。うっかり顔を上げてしまったせいで、リーダー格の男と目が合った。
「おいてめえ、そこの女」
「えっ!?私ですか」
「サツに電話しろ、110番だぜ?わかるな?」
「で……でも」
「さっさとしねえか!オレの言う通りそのまんまを一言一句違えることなくテープレコーダーみてえに伝えろ」
「ちゃん……逆らってはいけない」
突然指名されてうろたえる私にアレッシオさんが弱々しい声で言った。
マサムネくんもこくこくとうなずいている。男たちは私の指一本に至るまで監視していて、仕方なく110番をコールした。
彼らの要求はこうだった。
1.投獄された仲間の解放
2.逃走用の経路の確保
3.現金1億ジェニー
伝えるよう命令されたのでここの住所もきちんと伝えた。すぐにでもパトカーがやって来るはずだ。つまり、男たちは己の保身よりも仲間の救出に重きを置いている。自爆覚悟の強行だ。
「女、最後の伝達だ、ちゃーんと伝えろよ?」
リーダー格の男が顔を歪ませる。笑ったつもりかもしれないけどそうは見えない。
「要求を聞き入れなければ五分おきに人質を殺す。まずはお前だ」
おうむ返しに伝え、お前だの部分で口が止まる。え、お前って誰?と思った時には冷たい銃口が私に焦点を定めていた。
頭が真っ白になって、色々な景色が脳裏を過ぎった。
「一分」
空から落ちてくる産業廃棄物、耐えられない悪臭、寒くて痛くて苦しくて、差し伸べられた手、クロロの手。
「二分」
震える手から受話器が滑り落ちた。
私、死んじゃうの?こんな事ならもっとがんばって念能力を習得すれば良かった。あ、違う、がんばったけどダメだったんだ。基本の四大行の、それも纏ができなかった。
皆に、クロロに、死ぬ前に会いたい。最期にもう一回だけでいいからクロロに抱きつきたい。あの温もりに触れたい。
「五分、終わりだ」
耳を劈くような爆音が響いた。私は床に崩れ落ち、絶望の悲鳴がフロア内を満たした。
「おい、なんだ今のは!?」
「く、車が突っ込んで来やがった」
「サツか!?いや、早すぎる、事故か!?」
そんな声が耳に届いた。そっと目を開けるとさっき私に銃を突きつけた男がその銃口を今は窓の方へと向けている。窓辺には砕けたガラスと大破した植木鉢。
「……私、生きてる?」
ちゃんと心臓は脈打ってる。痛いところもない。よくわからないけど撃たれたわけじゃなさそうだった。
慌ただしく動き回る男たちの目を盗んで四つん這いで逃げる。あともうちょっとでテーブルの陰に入れるというところで何かが飛んできた。べしゃ、と血が飛び散る。その物体が男たちの一人(の一部)だと気づいて後ずさりした。
「うわ、ししし死んでる!」
「なんだその緊張感のない声は」
「え?」
斜め上から差し出された手のひらは、相手を確かめるまでもなく誰のものなのかわかった。大きさも指の長さも刻まれた曲線も全部知ってる。
「自力で起き上がれるならさっさとしろ」
「……クロロっ!助けに来てくれたんだ!クロロ好きっ大好き……!」
飛び起きてクロロに抱きつくとすぐに引っぺがされた。武装していた男たちの姿はいつの間にか消え、見ると全員が床に伏していた。息はないか、あっても虫の息だった。
「あ、シャルちゃん」
茫然自失の客たちの向こうに見慣れた姿を見つけた。返り血を腕でぬぐいながら「なんだったの、こいつら」とつま先で死体を蹴る。
その人たちは多分テロリストで、と説明しようとしたら遠くでサイレン音がした。
「た、たいへん!パトカーが!」
「お前、ここで働いているのか。仕事はどうした」
「え?えっと、ここは土日だけのバイトで、ってそんなのいいから!」
「え、バイトもしてるの?働き者だね。はした金のためにさ」
「クロロ、シャルちゃん、お願いだから早く逃げて!」
二人のこの悠長っぷりは、たとえ機動隊が来ても迎え撃てば良いと考えているからだ。そんな事態は避けなきゃいけない。テロリストならまだしも、善良な警官を殺させるわけにはいかない。
突然現れた二人の男と親し気に喋る私に対し、オーナーやマサムネくんが怯えた目を向けていた。
「お前も来い、」
「え、でも私、二階に着替えが」
「二階?なるほど、更衣室が二階にあるのか」
「うん。バッグや着替えがそっちに」
「それでお前はエントランスに入って行ったのか、四階じゃなかったんだな」
「四階?四階ってあの黒魔術」
「えーそのままでいいじゃん、その制服姿可愛いよ」
シャツに赤いチェックのフレアスカートに同じ柄のリボンタイ。これはこのトラットリア、ルチェリーナの制服だ。
「早く、」
シャルちゃんに急かされてドアに向かう。戸口で立ち止まって、一度会釈した。
「あの、ごめんなさい、本当に」
「……ちゃん、君はいったい」
マサムネくんが小さな声で何かを言っていたけれど、振り返らずに車まで走った。サイレンはもうすぐそこまで迫っている。
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