安心毛布とトランキライザー01



 シャルちゃん、と呼びかけられて足を止めた。こめかみにズキンと痛みが奔る。思わず歪めた顔をどうにか戻し、ゆっくりと振り向いた。

、ごめん……おっきな声出さないで」
「あれ、シャルちゃん二日酔い?」
「そんなとこ」

 彼女の声は清々しいほどによく通る。俺を心配そうに見つめる瞳は驚くほど清らかで裏がない。の純粋さは時として眩しいほどではあるけれど、こんな日はやり過ごしてしまうに限る。

 気にするな、と団長は言った。昨晩のことだ。
 俺のちょっとした不手際から皆に迷惑をかけた。クモの情報処理担当が聞いて呆れる初歩的なミスで、お宝は無事入手できたものの、とてものん気に打ち上げに参加する気にはなれなかった。
 解散と同時に別行動して、歓楽街でビールやワインを浴びるように飲みまくって吐くまで女を抱いた。
 目が覚めれば胃のむかむかと倦怠感と尋常じゃない自己嫌悪。こんな日には一番会いたくないに起き抜けに会い、気分としては最悪だ。だから、さっさと通り過ぎてしまいたいのだけど。

「……あのさ、それ、団長に?」

 とても見なかったことにはできない。
 は有名なメンズブランドのロゴがプリントされたスーツバッグを手に提げていた。スーツをそのまま持ち運べる、取っ手型のハンガーがついたスーツバッグだ。

「うん、クロロにプレゼントするの」
「あ、やっぱり。でもよくサイズがわかったね」
「いつもだてに抱きついてるわけじゃないからね」
「え?それでわかるの?ウエスト周りとか胸囲とか、袖の長さとかも?」

 が心なしか誇らしげに笑う。いや、それ自慢できる特技じゃないから。と思いつつも指摘するのはやめた。どうせ受け取ってすらもらえないのに。なんだってこの子はこんなに懲りないのか。
 長い廊下には強すぎる日差しが差し込んでいる。割れた窓ガラスの向こうには澄み切った空が広がっていて、その健全さに思わず顔を逸らした。

「でも、らしくないね。が金に頼ったプレゼントなんてさ」

 少しだけ意地悪な気持ちになって言ってみる。
 彼女の差し入れは手作りの料理や心を込めたものが多く、見た目や味はさておきいじらしかった。それが急に他の女がやるようなありきたりで短絡的な方法を取るなんて。
 俺の皮肉な問いかけに、ははにかんで見せた。

「あのね、実はボーナスが入ったの」
「……ボーナス?あ、そっか。って普通の会社員だっけ」
「うん、クロロに似合いそうなスーツがあって衝動買いしちゃった」

 頬を緩ませるを見てなるほどな、と思った。
 つまりこれは自分の労働に対する対価なのだ。誰もがする、頑張った自分へのご褒美。バッグを買ったり旅行に行ったりちょっと豪華なディナーを予約したり、そういうものの代わりに好きな男にプレゼントする。プレゼントすること自体が自分へのご褒美なんだろう。
 だとしても、いや、だからこそ、落ち込むの姿を想像して胸が痛む。団長は絶対に受け取らない。高価なものになればなるほど。

「じゃ、後でねシャルちゃん」

 頭痛と胃のむかむかと未だに纏わりつく女の分泌液で気分が悪い中、精一杯の笑顔で団長の部屋へと向かうを見送った。それしかできなかった。





 会社からの帰り道に素敵なショップがある。そこのショーウインドウに飾られているスーツをいつも眺めていた。
 細身で、襟元にパイピングが入ったデザインの丁寧な仕立のスーツ。一目見たときからこれは絶対にクロロに似合うと思った。
 ただ、値段がびっくりするほど高い。とても手が出なかったけど、つい先日ボーナスが入った。ボーナスに少し足せば買える範囲で、思い切って購入した。

 つまり、私はすごく浮かれていた。
 私からのプレゼントをクロロが手放しで喜ぶはずがないし、そもそも受け取ってくれるかどうかも怪しい。そんなことすら忘れるくらい私は浮かれていて、喜ぶ顔が早く見たくって、逸る気持ちにまかせてクロロの部屋のドアを開けた(つまりはノックを忘れた)。
 もうお昼もまわったというのに、クロロはまだ眠っていて、隣にはもう一つ別の背中があった。

「お、お邪魔しましたっ!」

 開けたドアをすぐさま閉める。閉めるぎりぎりでクロロと目が合った。またお前か、みたいなうんざりした目だった。
 こういうのは慣れてる。クロロがアジトに女性を連れ込むことはめったにないけど稀にあって、何度か遭遇した。だけど、慣れてるからといって胸が痛まない訳ではなくて、ドアの前でしばらく悩んだ末に、結局スーツバッグをドアレバーに引っ掛けて部屋を離れた。

「あら、来てたの。マチが買って来たお茶菓子があるから食べない?」
「あ、うん」

 廊下で鉢合わせしたパクに誘われて広間に行った。
 昔は何かの工場だったらしいこのアジトには、大小様々な部屋と大きな談話室となぜか今でもお湯の出るシャワールームがある。
 皆は好きに部屋を選んで、ベッドや家財道具なんかを持ち込んでるみたいだ。
 クロロの私室にはベッドとクローゼットと本棚しかない。逆に言えば本棚が面積の殆どを占めていて他の家具が入る隙間がないのだ。

「でよ、そんときヤツらはどうしたと思うか?」
「たぶん、ウボーが一人だから油断して、逃げずに向かって来たんじゃないかな」
「その通りだ。ま、散った所で逃がしゃあしねえけどよ」
「ビックバンインパクト使ったの?」
「あんなゴミ虫共に使うまでもねェ、捻り潰してやったぜ!」

 温かいお茶とごませんべいを頬張りながらウボォーの武勇伝を聞いていると、フェイタンが割って入った。

「またその話ね、も付き合うことないね」
「なんだと?」
「ウボーの話面白いよ、なんかアクション映画みたいで」

 ウボーの言う捻り潰す、とは文字通り素手で人間の身体を捻り潰すことだ。にわかには信じられないようなことでもやってのけるのが念能力者なのだ。
 そこでシャルちゃんが広間に現れた。毛先が少し濡れていて、それをタオルでがしがしと拭きながらやって来る。
 テーブルに目を向けて言った。

「あれ、それ十六夜庵の手焼きせんべいじゃない?」
「マチが買てきたよ」
「俺ももーらお」
「買うなんざ盗賊の風上にもおけねェな」
「だったらあんたは食べなくていいよ、ウボー」
「シャルちゃん、二日酔いはもういいの?」
「ん。シャワーあびたらちょっとマシになった。それより

 五種類あるおせんべいを目で選びながらシャルちゃんが言う。「さっきのアレ、団長に渡した?」
 え、今訊くの?と内心思いつつうなずいた。

「……うん、渡したよ」
「え?団長受け取ってくれたんだ。へー意外」

 目を丸くするシャルちゃんの横で、マチが厳しい顔つきをする。

、あんた団長に何かあげたの」
「うん、あげたと言うか」
「何あげたか」フェイタンも言う。
「な、何って……大したものじゃあ」
「謙遜しちゃって、あのスーツ30万ジェニーはするでしょ」
「ちょっと、シャルちゃんっ」

 マチが呆れ顔で腕を組む。パクもため息をついた。
 お前も懲りねえな、とウボーがからかうように笑う。フェイタンは細い目を更に細めた。

「ち、違うの。別にね、そう言うんじゃ」
「何が違うんだ、

 背中に鋭い声が突き刺さる。ぎくっとして振り返ると、戸口に黒いコート姿のクロロが立っていた。その背後には長髪の女性が控えめに佇んでいる。さっきは背中しか見えなかったあの彼女だ。クロロ好みのグラマーで知的な顔立ちの、雑誌から抜け出たような美人だ。

「勝手に押し付けて行くな。こんなものは受け取れない」

 クロロは威圧感たっぷりに近づいて来ると、スーツバッグを私に押し返してきた。
 貰う義理もない、と冷ややかな声で言う。私が黙っているとそれをテーブルの上に投げた。

「やっぱりちゃんと渡してなかったんだ。団長が素直に受け取るなんておかしいとは思ったけど」

 クロロの射るような視線とシャルちゃんの不憫そうな声。居たたまれなくてうつむいていると、シャルちゃんが言った。

「ねえ団長、害はないんだし貰ってあげてよ。物は良いんだしさ」
「そうだぜ団長、食って腹ァ下す事もねえんだからよ」
「あんたたちもうちょっと言い方ってもんがあるだろ」
「マチ、大丈夫、私全然大丈夫だから」
「こっちを向け、

 一際低い声を向けられて、恐る恐る目を上げた。普段あんまり表情が変わらないクロロが眉をつり上げている。怒ってる。すごく。

「さっさと返品して来い、今すぐだ」
「絶対クロロに似合うと思うの、絶対かっこいいと思うのに」
「俺の言うことがきけないのか、
「……受け取るくらい、してくれてもいいのに」
「くどいぞ」

 険しい顔つきがさらに険しさを増す。思えば私はクロロのこんな顔しか知らない。
 つい、意地になって言い返した。

「返品なんてしない、だったら捨てる」
「そうか、なら勝手にしろ」

 言い捨てるとクロロは歩き去った。去り際に、女性の肩を抱く後ろ姿が目に入った。
 こんなのは慣れっこだ、いちいち泣いてなんていられない。

「さきの女、初めて見る女だたよ。団長の正体知てるか」
「知らないんじゃないかしら。念も使えないみたいだったし」
「どうせすぐ殺るんでしょ」
「けどよォ、イイ女だったぜェ?いかにも団長好みって感じのよー」
「ちょっとウボー」
「おっ、わり」

 テーブルに投げ置かれたスーツバッグに目をやって、やっぱり少し悲しくなって目を伏せた。

「……シャルちゃん、このスーツあげるよ」
「ええ?団長のおさがりなんていらないよ、しかも団長サイズじゃ俺には小さいし」
「そっか、そうだよね」
、団長のことはもう諦めな、あんたがどれだけ想っても団長は応えてくれないよ」
「おい、直球すぎんだろマチ」

 慣れているはずなのにいつになくへこんだのはクロロの頑なな態度のせいだ。クロロはいつも冷たいし怒ってるけど、こんなに取り付く島もないほど拒絶されたことはなかった。
 高価なものは嫌だったとか?でもクロロにとっては別に高価でもないよね。あの彼女がいたから?それって今にはじまったことじゃない。
 クロロの周りにはいつもきらきらした女性がいて、私は彼女たちに敵視すらされない存在だ。

「……ごめんマチ、みんなも」

 残ったお茶を一気に飲み干してしょうゆ味のおせんべいをばりん、と口で割る。
 甘いはずのざらめのおせんべいはどこか味気なく感じた。




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