安心毛布とトランキライザー03



 冷静になって考えればそれは当然のことだった。
 は俺たちと違って生々しい血臭や脳髄液が飛び散った死体なんかに免疫がない。ただの死体ならホームでたまに見る機会はあったけれど、それだってじろじろ凝視したりはしない。おまけに銃を向けられたとなると、それは想像を絶する恐怖だろう。
 彼女は青ざめた顔でリアシートに横たわっている。

「気持ち悪かったら吐いていいからね、

 俺がミラー越しに言うと、はもぞっと身じろぎした。

「う……ん、大丈夫、ちょっと寒いだけ」
「団長温めてあげなよ」
「ふざけるな」

 助手席にふんぞり返って座る団長は、窓外に顔を向けたまま意地でも振り返るつもりはないようだ。
 ミラーに映るはだんご虫みたいに縮こまっている。

「じゃあせめてコートかけてあげたら」
「エアコンをつければいいだろ」

 団長はしかめっ面のまま、数センチ下がっていたウインドウを戻す。
 仕方なくエアコンをつけると車内は暖かさが広がり、はすやすやと眠りはじめた。極度の緊張状態から脱した安心感もあったのだろう。

「改めて思うけど、ってただの一般人なんだよね。こういうのに慣れてないって言うか、本来は俺たちと一緒にいるべきじゃないんだろうね」
「そうだろうな」
「いっそを団長の奥さんにしてさ、こっちの世界に完全に入れればいいんだよ」
「俺の意思は無視か」
「だって団長突き放さないじゃん、アジトへの出入りだって黙認してるし」
「何が言いたいんだ、シャル」
「俺はね、団長がの安心毛布なら、は団長のトランキライザーだと思うわけ」

 団長自身にも団長に群がる女たちにもないものをは持っている。
 バカみたいに真っ直ぐで深雪みたいに純粋な彼女を、団長は(多分、俺も)眩しくて直視できないのだ。
 それ以前にもちろんタイプじゃないってのはあると思う。はグラマーでも知的でもなくて、キュートではあるけど絶世の美女ってわけでもない。
 俺の問いかけには答えずに、団長は寒々とした冬の街並みを眺めたまま腕を組んだ。沈黙した横顔を見て、そう言えばと思い出す。

「あのスーツ、実は今俺の部屋にあるんだ」
「……スーツ?が買ってきたヤツか?」
「そ、公園のゴミ箱なんかに捨てるから思わず拾っちゃったよ」

 ハンドルを右に切りながら、あの日のの様子を思い出す。
 団長から突き返され、死にそうな顔でアジトを出たので自殺でもしかねないと追いかけると、は公園へふらりと立ち寄った。
 売店でシシカバブを買って恐ろしいぐらいの無表情でそれを食べはじめたので声をかけるタイミングを逃す。食べ終わっても20分近く園内をうろついた挙句、抱えていたスーツバッグを金網のゴミ箱に捨てたのだ。

「返して欲しかったらいつでも俺の部屋に来てよ、遠慮しないでいいからさ」
「返すもなにも、元より俺のものじゃない」
「団長は値段を気にしてるんでしょ、だから何度も返品しろって言ったんだよね」

 時々フロントミラーを確認しながらアクセルを踏む。
 だんご虫みたいなは、今も赤いチェックの制服を着たままだ。
 さっきは本当に驚いた。武装した男が彼女の頭部に銃を突きつけていたからだ。
 俺が状況判断するよりも早く、団長が走っていた。まさに疾風のようで、あの時の団長の顔を見たらじゃなくても惚れると思う。

 の青白かった頬には赤みが差し、眠ったまま薄っすらと笑う顔は正直気持ち悪い。
 たぶん幸せな夢でも見ているんだろう。それでこれはたぶん、じゃなくて、きっと団長はエアコンが熱いからと言い訳してコートを脱ぐだろう。ついでだ、と眉一つ動かさずにそれをにかける。一分後か、五分後か、この読みはマチの勘よりも当たるはずだ。





 世の中は平和だ。
 確かに凶悪犯罪や政治家の汚職なんかは存在するけど、直に関わりのある人間は少ない。殆どの人はそれらを遠巻きに眺め、ボーナスや固定給をカットされながらも逞しく慎ましく生きている。かくいう私もそんな一庶民だ。

「そう、テロだって、びっくりよね」
「ルチェリーナのパスタ美味しかったのにー、残念」

 そんなやり取りが耳に入ってドキッとした。隣のテーブルを盗み見ると、昼休み中のOLさんっぽい二人が会話していた。

「だけどね、機動隊が突入する前にテロリストは皆死んでたんだって」
「え?誰がやったの?」
「それが謎みたいよ、人質側は全員無事だったらしいんだけど、誰もその事については覚えてないって言うんだって」
「ええー?そんなワケないわよね、それって集団催眠とかそんなのじゃないの」

 居た堪れなくなって席を立った。食後のコーヒーがまだ残っていて、それを慌てて飲み干す。向かい側に座る同僚がどうしたの?と首を傾げた。

「急ぎで頼まれてた書類作成があったの思い出しちゃって、先に会社戻ってるね」

 同僚と別れてカフェテリアを出ると、燦々と降り注ぐ日差しから逃げるように日陰を歩いた。先輩のいびりに耐えてころころと意見が変わる部長にムカつきながら私は今日も元気に生きている。新しいバイトもはじめたし(今度はテロリストが来ない事を祈る)毎日それなりに忙しい。
 そこで、真正面から歩いてくる男性と目が合った。
 ビジネスマンや制服姿のOLが行き交うオフィス街で、彼はラフな服装をしていた。思わず声を上げた。

「マ、マサムネくん……!」

 ルチェリーナの制服以外の彼を見るのは初めてだったけど、お洒落な形のメガネですぐ気づいた。
 彼は柔和に微笑んだ。

「久しぶりだね、ちゃん。少しいい?」
「う、うん……でも、今お昼休憩中だから」
「5分でいいよ」

 以前、話の流れでこの辺りに職場があると喋ったことがあった。だけど会社名は言ってない。彼はこのエリアで私を探していたのかもしれない。
 ビル風の吹き抜ける広場のベンチに並んで座った。サンドイッチ売りの車が傍に停まっている。マサムネくんが口を開いた。

「あの時の、黒い服の人と金髪の人は君のどういう知り合いなのかな」
「幼なじみ、だけど、それ以上は言えない」
「誤解しないでよ、ぼくは別に警察に情報を売ろうってんじゃないよ」
「……オーナーは、無事?」
「アレッシオさん?うん、元気だよ、君に感謝してたよ」

 落としていた視線を上げた。マサムネくんは穏やかな顔で私を見返していた。

「あのテロリストは国際手配されてた凶悪なヤツらだったんだって。間違いなくぼくたちは全員死んでたよ」君の幼なじみが現れなければね、と彼は付け加える。

「来月にルチェリーナは移転して新装開店するんだ。いつか、ずっと先でも良いから食べに来てってオーナーが」
「うん……」

 話を終えるとマサムネくんは腰を上げ、別れの挨拶もなしに立ち去った。
 クロロにプレゼントしたスーツが高額で、ボーナスで足りなかった分の充填にと思って始めたバイトだった。だけど、オーナーやバイト仲間の気さくさが嬉しかった。

 腕時計を見るとあと五分で13時になるところで、私も慌てて立ち上がる。
 一秒でも遅れたらねちねち怒る先輩がいるから早く戻らなきゃ!と走り出してすぐにまた足が止まった。
 この辺りでは一際高くそびえ立つブルーのオフィスビル、そこのエントランスから出てきた二人。私に気がついたシャルちゃんが手を振る。隣のクロロも私を一瞥して、すぐに逸らした。

!偶然だね、職場この辺なんだっけ?」
「うん、そうなんだけど、どうして」
「そこのビル、有名な画廊が入っててさ、ちょっと下見ってワケ」
「行くぞシャル」

 クロロは体系に合った黒いスーツを着ていて、襟元のパイピングが幼くならず上品な印象を与える。着丈もオーダーメイドのようにぴったりで、私は目を疑った。
 シャルちゃんが含みのある笑みを浮かべた。

「さすが、だてに抱きついてるわけじゃないね」
「え、でも、あのスーツ、私公園の」
「何してる、さっさと行くぞシャル」
「ほーい」
「ちょっと待っ、あっ!私も戻らなきゃ!昼休憩終わっちゃう……!」

 公園のゴミ箱に捨てたはずのスーツをどうしてクロロが着てるのか。さっぱりわからないけどそれよりも今は仕事だ。立ち去る二人の背中を一瞬だけ見送って、職場まで走った。




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