眼科とヨガと料理教室と催眠術2



 上階から突然叫び声や物音が聴こえて生徒達が顔を見合わせる。クリス先生は様子を見てくると言って厨房を出た。
 目の前にはローストされる前のわりとグロテスクな七面鳥。
 たった今腹にハーブを詰め込んでさあオーブンに入れるぞ!という所でこれだ。

「何があったのかしら」
「強盗?怖いわあ」
「上の階って確か催眠術師養成学校じゃなかった?」
「あ、ちゃん、勝手に出たら危ないわよ!」

 スクール友達の声が追いかけてくるけど、構わず先生の後を追って厨房を走り出た。
 万が一強盗なら警察に通報しないといけないし、私だって念は使えないけど一般の人よりは動ける。非常階段を駆け上って五階にたどり着いた。
 警戒しながら非常ドアを開けると廊下に人影があった。一瞬身構えるも、こっちの気配に気づいた彼は笑いながら「あー料理の方か」と指を鳴らす。
 今の私はエプロンをして両手に薄いビニール手袋をしているのでそう言ったのかもしれない。見覚えのありすぎる可愛い顔。

「……そこで何してるのシャルちゃん」
さあ、団長になんかしたでしょ?大激怒だよ」
「えっ?クロロもいるの!?」

 開けっ放しのドアには催眠術師養成スクール、と書かれた緑色の看板がかかっている。そこから恐ろしい殺気(見えないけど)を出したクロロが姿を現した。
 室内では催眠術師のたまごたちが隅っこに集まってガタガタと震えている。負傷者はいないようで一先ずホッとしているとクロロがにじり寄ってきた。
 殺される!本能で感じ取って逃げ出そうとしたところで全身が硬直した。こんな殺気を向けられて動ける一般人なんていない。風邪の時なんかに感じる寒気とか悪寒の100倍くらい嫌な感じだと言えば分り易いだろうか。

「どうした、俺の顔を見て逃げるなんて珍しいな」
「だ、だって、色々危機を感じてますから」
「いつも鬱陶しいくらい抱きついてくるくせにな」
「そ、そう、だっけ?」
「ところで俺はお前とイヴにデートをするらしいな」

 ひい!と脳内で叫ぶ。
 シャルちゃんは楽しそうにけらけらと笑っていて助ける気はゼロ。
 ここにはマチもパクもいないわけで……

「ご、ごめんなさい!だってあんな簡単なのにひっかかるとは思わなかったんだもん!」

 だってあれはお遊びだったのだ。
 教室で作った料理をおすそ分けしていたら、この催眠術師養成スクールの生徒と仲良くなって、本当に簡単なやり方を教えてもらった。たぶんクロロは被暗示性が元から高かったんだと思う。だから私みたいなど素人のかけた催眠術にかかってしまったのだ。

「で、でもっ、そうでもしないとクロロとデートなんてできないし……」

 涙がぽろぽろと零れた。
 もちろん拭ってもらえるわけでも優しい言葉をかけてくれるわけでもない。
 止めようとすればするほど涙はあふれて、ひっくひっくとしゃくりあげた。

「即刻解除しろ。今なら半殺しで許してやる」
「や、やだ、クロロの半殺しって、骨とか折られたりするんでしょ」
「何度も言わせるな、すぐに解けと言っているんだ」
「な、なによ、一回くらいデートしてくれたって」

 今までに何度も何度もデートに誘っている。もちろん鼻であしらわれるだけでうまくいったためしはない。あの時、クロロの眼が虚ろになったあの時に術を止めることはできた。だけどしなかった。

「一回だけでも、デート……したかったん、だもんっ」

 涙と鼻水で酷いことになった顔をエプロンで隠した。
 一回だけでもいいから思い出をつくりたかった。何がどうなってもこの片思いが叶う日がこない事くらい私だってわかってる。だけど、ズルしてまでクロロとの思い出を作ろうとした自分がバカだった。今はすごく恥ずかしい。

「あーもー泣き止んでよ、目真っ赤にしちゃってさあ」

 団長のどこがそんなにいいの?とシャルちゃんが笑う。手のひらが私の頭にぽんっと乗って優しく撫でた。よけい涙が止まらない。

「好きでもない女に同じことをされたらお前はもっと非道になるだろう、シャル」
「でも俺はにされるんだったらいいかな、コレ何作ってたの?」

 ビニール手袋を嵌めた私の腕をシャルちゃんが指差す。色んなハーブの切れ端がくっついていた。

「……ローストチキン」
「お得意の毒薬か」
「団長はちょっと黙ってよ、ほら、も大人なんだから泣かないの」
「は、鼻水、ひっく、つくから、シャルちゃ」
「もういい、催眠術を解けるヤツならいくらでもいる」

 吐き捨てるように言うとクロロは踵を返した。靴音を鳴らして黒いスーツの背中が遠ざかる。涙でぼんやりとする視界の中で、この料理教室にはもう通えないな、と思った。どっちみちクロロのために通ったんだしもう意味がない。

「大丈夫?
「私、ひっく、もっとグラマーだったら、ひっく、良かった」

 グラマーで知的で強くてカッコよくて念も使えて美人だったら、きっとクロロだって。
 しゃがみ込んで嘆くとシャルちゃんは少し困ったように笑った。

「それでもたぶん団長は飽きちゃうよ」

 その通りだと思った。どうして私、クロロを好きになっちゃったんだろう。好きで好きで大好きで苦しい。こんなに苦しいのにどうやったって好きな気持ちはなくなってくれない。





 テレビをつけるとニュースをやっていて、ツインタワービルが襲撃されたと報道していた。あそこは裏で闇オークションをしていると噂されていた会社だ。きっと旅団の仕業だ。

「何かお宝でもあったのかなあ」

 いくら幼なじみと言えど襲撃先の話なんて教えてくれないし私も訊かない。
 タラとジャガイモとムール貝の煮込みを木ベラでかき混ぜながらテレビを観た。
 狭い部屋だけど対面キッチンがあるのでこのアパートを選んだ。
 ホームに残るつもりはなかったし、クモのアジトに住むのも図々しい気がした。クロロ以外は喜んで迎え入れてくれると思うけど、そこに甘えたらダメだ。だからきちんと仕事も見つけて自活している。

 キッチンカウンターの上にはずらりと並んだクリスマスディナー。
 失敗して黒こげになったローストポークだとか水っぽくなったマリネとか衣がやたら多いから揚げとか。
 グラマーでも知的でも強くもカッコよくもなくて念も使えないからせめて料理くらい!なんて甘かった。何か月も料理教室に通ったけど、いつまでたっても上達しない。ついでにこの前の一件で行き辛くなったし。

「うっ、苦」

 タラの煮込みを味見するとどう化学反応を起こしたのか苦い。
 コンロの火を消してキッチンの床に座り込んだ。そのままごろんと横になって普段はあまり見ることのないキッチンの天井を眺める。
 今朝は早くから仕入れと仕込みでがんばったから、今頃眠気がやってきた。床がひんやりと冷たくて、気持ち良くて目を閉じた。

 今日はクリスマス・イヴだ。
 きっと色んな場所でいろんな愛や優しさがあふれてる。なのに私はキッチンでふて寝って。ああでも自分らしいかな。

 クリスマスの神様、いるんなら私をずっとクロロの傍にいさせてください。目の上のたんこぶ的な鬱陶しい感じでもいいから。
 もう無理矢理抱きついたりしません。手を繋ぎたいとかキスしたいとかも思いません。あ、やっぱりちょっとだけ思ってるかも。
 ただの顔見知り程度でもなんだっていいんです。クロロに彼女が出来たっていいんです。
 だからお願い神様。

「誰が神様だ」

 あれ───神様が呆れた顔で笑ったような気がした。





 団長からSOSが入ったのはアジトで祝杯をあげているときだった。
 ノエル・オーギュストの襲撃が終わるや否や姿を消していた団長が、「今すぐの家まで来い」と虫の息で言った。

 駆けつけてみると団長は床に倒れていて、額から脂汗を流し、顔面蒼白で唸っていた。どんなときでも冷静で、常に余裕の態度を崩さないあの団長が、だ。

 白いテーブルの上にはずらりと並んだクリスマスディナー、事態を把握した俺とノブナガで、笑いをかみ殺しつつ団長をベッドまで運んだ。
 一方、家主であるの姿がなく、広くもない部屋を探したら、狭いキッチンで倒れていた。正確には眠っていた。

「なんでこんなとこに寝てんのよ、この子は」

 整腸剤の買い出し(盗み)から戻ったマチが言う。薬を俺に投げてよこした。

「さあね、ベッドまで運ぶ?」
「……待てよシャル、そりゃ不味いだろ。このまま放置でいいんじゃねーか」
「ならあたしが運ぶよ、そこどきな」

 ノブナガを押しのけてマチが前に出る。マチはを軽々と抱き上げた。

「団長起きたら激怒するぜェ、俺は知らねえからな」
「何言ってんの、みんな同罪だよ」
「すごい料理ね。これ全部が作たか」

 遅れて到着したフェイタンがテーブルの料理を見て驚いている。

「あ、食べない方がいいかも」

 一応クギを刺すとフェイタンは神妙な顔でうなずいた。ノブナガも同意する。
 料理は冷め切っているが、それ以前にあり得ない色取りをしていて食べ物としておかしい。真っ黒なローストポークだとか紫色に変色したサーモンだとか衣だらけのから揚げとか。たとえべた惚れの女が作ったものだとしても躊躇してしまう代物だ。
 だけど問題は見た目じゃない。彼女の作る料理はどう化学反応を起こすのか高確率で腹痛を起こす。悪食に慣れた俺たちですら。毎回じゃないからこそロシアンルーレットみたいな緊張感がある。

「団長ってなんだかんだ言ってものこと放っとけないんだよね」

 独り言のつもりでつぶやいた言葉に返事があった。

「これは……催眠術の……せいだ」

 ベッドの方から異論が唱えられる。狭いワンルームなので声が筒抜けだ。

「知ってる?団長」

 ベッドまで歩み寄って座り込む。苦み切った顔で寝込む団長の隣には、たった今運ばれたがすやすやと寝息をたてていた。

の手料理ってみんな一度は腹を下してるから、悪いとは思いつつあんまり食べないんだよね」

 団長だけだよ、こりずに何度も食べてんの。とは口に出さなかった。なんとなく、それは団長自身が気づいてこそ意味があることだと思った。

「帰んぞ~シャル」

 背中からノブナガの声がした。立ち上がると団長が一際強く睨みつけてくる。

「じゃね団長、薬と水ここ置いとくから」
「シャル……待て……ふざけるな」

 にっこり笑って手を振ると、ノブナガとマチとフェイタンと一緒にさっさと退散した。




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