眼科とヨガと料理教室と催眠術3



 激しい腹痛は明け方近くにようやく落ち着き、脱力感も緩和された。おかげで俺の腰まわりにしがみついていたをようやく引き剥がすことに成功した。眠ったまま無意識だからたちが悪い。
 下腹部に不発弾を抱えているような嫌な感覚はまだあるが、動けないことはない。随分と汗をかいたようで早くシャワーを浴びたかった。ベッドから足を下ろすとがしっと手首をつかまれる。
 顔を向けると、髪はぼさぼさでまぶたが重く腫れた不細工なが俺を見ていた。目が合うと、はぼんやりとしたまま周囲を見渡す。状況を確かめているようだ。

「顔くらい洗ってきたらどうだ」
「く、く、くろろ?」
「近づくな触るな」
「───え?ここ私の部屋だよね、え、え?」
「勘違いするな。お前がかけた催眠術のせいだ」

 催眠術はどんな簡単なやつだろうと、かけた本人にしか解けないらしい。
 だが所詮は素人の付け焼刃、たいした拘束力もなくすぐに消えると他の術師に助言された。それで放置していたが、昨夜オークションを襲った後に自然と足がこのボロアパートに向いた。
 ため息すら出ずに額に手を当てる。撫で付けていたオールバックが乱れていて気分は最悪だ。

「シャワーを借りる」
「え?うちの?あ、一緒に入る?」

 軽い殺気を放つとが硬直した。こいつは本当にバカだな、なぜ懲りないんだ。
 つかまれた腕を振り払って立ち上がる。呆れを通り越してもはやどうでもよくなった。

「いいだろう、早く来い」
「え!?」
「どうした、一緒に入るんだろ?」

 の顔がまるでサンタクロースの服のように染まる。次にもじもじとしながら毛布に顔を半分隠した。こいつは俺を苛立たせる天才だ。
 ベッドの傍まで戻って毛布を引っぺがすとがやだ!と叫んだ。

「なんなんだお前は!いい加減にしろ!」
「だっ、だって、条件反射で言っただけだもん!えろくろろ」
「そんな条件反射があるか」
「……わ、わかった、じゃあ一緒に入る」
「おい、その決意を秘めたような顔はやめろ。不愉快だ」





 室内に漂うシャワー音に耳を傾けた。クロロが私の部屋のシャワーを浴びている。これってどう考えても奇跡だ。
 だけど24日の魔法は解けてしまった。
 もうクロロを拘束するものはない。そもそも催眠術なんかに頼った自分が悪い。クロロはこれからこの部屋を出て、きっと女の人に会いに行く。それとも、クロロにとってはクリスマスも普通の平日でしかないのかな。

 窓を開けると冷気が入って室温が下がった。
 向かいに建つアパートの並んだバルコニーが白く縁取られている。上半身を乗り出して空を見上げれば今も粉雪がはらはらと舞っていた。

「さむいーでも綺麗!」

 すうっと息を吸い込んでから一気に吐き出した。
 白い息が揺らめいて消える。いつもびっしりと並んだ違法駐車の列も白く覆い隠されていて、真っ白な街は本当に綺麗で胸の奥の方が軽く締め付けられた。
 脱衣所のドアが開く音がして、振り返るとクロロがタオルを首から下げたまま現れた。

「雪か」

 言いながら近づいてきて、半分開いた窓を全開にした。
 見るとクロロの肌からほんのり湯気がたっている。空を見上げる横顔が降り積もった雪よりも綺麗だと思った。

 殴られるのを覚悟で横から抱きついた。
 いつも鬱陶しいとか貧相だとか散々言われても私はクロロに抱きつくのが好きだ。ここは安全なのだと心の底から思う。母親に見守られながら眠る揺りかごの中のような感じだろうか。

「好き、大好き」
「迷惑だ」

 うん、と首を縦に振る。わかっているから、もう少しだけ。

「クロロはグラマーで知的で強くてカッコよくて念も使えて美人な子が好きだもんね」
「それは何の情報だ」
「色々、過去の彼女を見てだったり、シャルちゃんとかに聞いたり」

 腕に力を込めてぎゅっと抱きついた。どうしてか今日は振り払われない。
 今日はクリスマスだから、クロロなりのサービスなのかもしれない。

 眼下には三つの足跡を残しながら歩く幸せそうな家族連れがいる。どこかへお出かけなのかな。表情までは見えないけど足取りは楽しそうだ。車の走行音でさえも聖歌のように聴こえてくるから不思議だ。
 クロロがささやくように言った。

「確かに、どれもイイ女だった」
「うん」
「だがその程度だ、記憶にも残っていない」
「うん?」

 いや、なんでもない、そう言ってクロロは私の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
 顔を上げようとするとモグラ叩き並に押さえつけられる。なのでクロロの胸に顔を埋めたままじっとしている他なかった。

「そう言えばお前本当にバカだな」
「え?な、何」
「今日はキリストの聖誕祭だ。クリスマスの神なんてものは存在しないぞ」
「ん?え、ん?」




text top