ViVi09



 パンフレットに目を通したは、一度顔を上げてからまた視線を落とす。指はページをめくっているが目はそれを追っておらず、戸惑ったように言う。

「ここに、通うの?私が?」
「そうだ。そこは古くからある中高一貫校でな、全寮制で住む場所にも困らない」

 ブチャラティの説明に少女はわずかにうなずいて見せる。まるで他人事のような様子に彼は苦笑する。

「手続きに多少時間がかかるようで、引っ越しは一週間後だ。寮には備え付けの家具があるらしいから、引っ越しと言っても君の身一つだな」

 聞いているのかいないのか、は目を伏せたままだ。
 ブチャラティはダイニングテーブルの向かい側に座り、まだ湯気のたつカッフェを口にしていたが、カップをテーブルに戻して言う。

「嫌なのか?」

 少女は弾かれたように顔を上げ、急いでかぶりを振る。

「ううん、違うの」
「なんだよ、嬉しくねえのかよォー」

 はっきりしない態度にナランチャがしびれを切らせて言う。少女はわずかな間ののち、小さな声で言った。

「嬉しい、けど……。ここに通いながら、今度は誰に監視されるのかなって」

 最後の方は尻切れに消えた。
 ブチャラティは少女の不安げな表情の意味を理解して、口早に言う。

「そうか、説明が足りなかったな。誰も君を監視したりはしない。今後、君が組織に追われることもない」
「え?そうなの?」
「君の能力に危険はないとオレが判断した。上へも報告済みだ。これまで苦労した分、学校生活をシッカリ楽しむんだな」

 はまだ安心しきれないような様子で、口ごもりながら言う。

「……でも私、学費なんて払えないし」
「カネなら心配いらねーぜッ、の母さんが出してくれるんだってよ」
「え?」

 ナランチャの言葉にが目を丸くする。隣のブチャラティに視線を移すと、彼は一つうなずき、リストランテで仲間にした説明をもう一度口にする。少女は緊張した面持ちで聞いていた。

「母さんが……シエナに」

 小さくつぶやきながら、の意識は深い記憶の底に沈む。
 心まで凍てつくような寒い冬の朝、母親は家を出た。小さな手荷物だけを持って。どれだけ考えても笑顔の母親は思い出せない。甲斐性なしの夫のせいで彼女はいつも不機嫌で、いつも少し疲れていた。家を出た母親からの便りは一度きりで、ヴェネツィアの運河が淡い水彩画で描かれたポストカードが届いた。消印がどこだったかはもう思い出せない。

「母さんは、元気だった?」

 は目線を落としたまま聞いた。すでに彼女専用となったやや大きめのカップを凝視している。

「私も、探したことはあるの。でもぜんぜんわからなくって……父さんに聞いても困った顔をするだけだし」
「君のお母さんは元気そうだったよ。君のことを気にかけていた」

 ただ、とブチャラティは続ける。

「すでに新しい家庭を持っている。君を引き取ることも、会いに来ることもムズかしいと言っていた」
「でもよォー、きっとまだを愛してるんだぜッ!でなきゃあ学費なんて出さねえよ、そうだろブチャラティー?」
「そうだな。オレもそう思う」

 二人は親しみのある笑みを交わし、同じ笑みをにも向ける。
 もしも、この話を別の誰かから聞かされていたならもっと違う印象を持ったかもしれない。ショックを受けたかもしれない。
 少女は目頭がじわじわと熱くなっていくのを感じた。顔を背けて歯を食いしばる。気を抜くと涙があふれてしまいそうだった。

 目の前にいるのはこの街を裏で仕切るギャングだ。が知っている彼らの姿はその上澄み部分に過ぎず、裏では当然後ろ暗いことにも手を染めているはずだ。それでも、にとってこの場所はもう、唯一安心して眠れる場所になりつつあった。
 突如湧き上がってきた強い感情には戸惑っていた。何かを伝えなければいけないような焦燥感を感じているのに、何をどう伝えればいいのかわからない。
 突然黙り込んだを見て、ナランチャが首をひねる。

「どうしたんだよ、腹でもいてえのかァ?」
「ううん」

 少女の様子をじっと見ていたナランチャだが、急に何かを思いついたようにテーブルを叩いた。

「そっか!わかったぜッ!おまえ、ここを出て行くのが寂しいんだろォー?」

 びし、と指を差されたは珍しいものでも見たような顔をした。予想外の反応に、ナランチャは浮かしかけた腰を戻す。

「なんだ、違うのかよォ」
「あ、ごめん。えっと、うん、そうかも」
「はあ?どっちなんだよ」

 きっとそうだ、とは思った。そうか、自分は今、寂しいのだと。
 彼女はカップをテーブルに置くと、おもむろに立ち上がる。両手を前で揃え、頭を深く下げた。

「色々と、ありがとう。まさか、また学校に通えるなんて思ってなくて……その、すごくうれしい」

 最後の言葉は気恥ずかしそうに顔を上げて言った。ナランチャが二カッと笑う。

「最初っからよォー、そういう顔すりゃあいいんだぜッ」

 満面の笑みの少年の横で、ブチャラティも頬杖をつき、目を細めて笑っている。話に一区切りがつき、彼は残りのカッフェを飲み干すと、カップを手に席を立つ。が慌てて言った。

「私洗うよ」
「ああ、頼む。先にバスルームを使うぞナランチャ」
「どうぞー」

 カップをに手渡すと、ブチャラティは軽く伸びをして両手を首の後ろで組む。そこで呼び止める声がした。

「待って、ブチャラティ」

 彼は歩き出した足を止め、背後を振り返るが、がなかなか口を開かないので、二人は数秒間見つめあう。ブチャラティが首をひねった。

「どうした?」
「……私、何かできないかな」

 はブチャラティの返事を待たず続ける。

「あと一週間しかないけど、私に何か手伝えることはない?ブチャラティ、いつも忙しそうにしてるから」
「もう充分やってもらっているぜ。君が来てから部屋がピカピカだ」
「でも、お掃除とかお洗濯なら午前中で終わっちゃうの。他に何か、私……パソコンは使えないけど、教えてもらえるなら覚えるから」
「いや、そいつはダメだ。君にオレたち組織の仕事をやらせるワケにはいかない」

 ブチャラティはぴしゃりと言う。それは彼なりの線引きだったが、残念そうに肩を落とす様子を見て、彼はしばし考える。

「……もし、時間を持て余すと言うのなら、これから通う学校へ見学にでも行ってみたらどうだ。行くならオレから連絡しておくぜ」

 少女は口をもごつかせたが、言葉にはならず、浅く顎を引く。
 ブチャラティは微笑み、の肩をぽんと一度叩くとバスルームへと向かった。その様子を物言いたげな顔でナランチャが見ていた。

 はしばらくうつむいていたが、カップを両手に持つと、ナランチャの方へ向き直る。

「もう飲んだ?それも洗おうか」
「あー、うん。頼むぜ」

 少女が三つのカップを手際よく洗い、水切りカゴに入れる。その間ナランチャはの背後でうろうろしていた。不思議に思ったが顔を向けると、少年がにっと笑う。

「なあなあ、アレ、やってくんねえ?」
「ああ、うん。いいよ」

 納得した様子でも笑い返し、濡れた手をタオルで拭いてから右腕を上げる。

「バービー」呼びかけると同時、少女の背後に出現するスタンド。八頭身のスタイルを持つ女性型のスタンドだ。
 真っ直ぐに伸びた髪(のように見えるもの)やすらりとした長い足、それらに目をやったが複雑な表情で言う。

「あなたちょっと、スカートが短すぎると思うんだけど」

 彼女のスタンドは微動だにしない。
 ナランチャが言った。

「それ、名前なの?」
「え、なに?」
「だからよォー、そのバービーっての」
「ううん、とりあえず呼んでるだけ。ちょっと触るね」

 気を取り直し、少女はナランチャの腕にそっと触れる。直後、やわらかい光が少年の全身を包み、浸透するように消えた。

「おーッ!スッゲー身体が軽いぜェーッ!」

 ナランチャは腕をぐるぐると回したり、屈伸したり、ぴょんと跳ねてみたりして全身の動きを確かめる。もう何度も経験しているのだが、そのたび彼は新鮮な反応を示す。
 ナランチャは冷蔵庫からペットボトルを一本取り出すと、それをに向かって投げた。正確には、の背後に佇むスタンドに向かって。

「グラッツェ」

 バービーが言う。彼女は喋ることはできるが基本的に無口で、かと思えば突然饒舌になったりと気分屋だった。
 バービーは五本の指で器用にキャップを外すと、それを豪快にあおる。まるで一仕事終えたあとのご褒美とでも言わんばかりに。

「しっかしよー、へんなスタンドだよなァ。オレ、コーラを飲むスタンドなんて初めて見るぜ」
「うん、飲食するスタンドは珍しいってブチャラティも言ってた」
「ま、いいや。サンキューな!これで今夜は夜ふかしできるぜーッ」
「ほどほどにね。ブチャラティに怒られるよ」
「わーかってるって!」

 ナランチャは軽やかな足取りでソファまで行くと、そこに寝転んで分厚い雑誌を読み始める。時々笑い声を上げながら読み進めていく様子に興味を引かれ、も傍にいく。

「それ、面白いの?」
「ン?まーな。も読むか?」

 ナランチャが別の一冊をに投げる。それはジャッポーネの漫画雑誌で、きちんとイタリア語に翻訳されている。見るとソファの脇に紙袋があり、似たような雑誌がぎっしりと詰まっていた。
 試しに、と読み始めたもすぐに夢中になり、ソファに肩を並べて座り、二人はそれぞれ、声を上げて笑ったり瞳を潤ませたり、しんみりしたりまた笑ったりと忙しい。

「ギャハハハ!なんだコレおもしれェーッ!」
「え?どれどれ?見せて」

 がナランチャに身を寄せて紙面をのぞき込む。そのとき肩がぶつかった。
 は雑誌からナランチャの腕へと目を移す。真顔で直視され、少年は居心地が悪そうにする。

「なんだよ」
「ナランチャって細いけど、筋肉ついてるなって思って」
「あ?別にフツウだろォ」
「そうかなあ。ちょっと触っていい?」

 返事を待たず、むき出しの二の腕に軽く触る。
 彼はまだ成長途中の瑞々しさを持つ少年だが、腕の皮膚は意外にも硬い。それが性差なのだが、男兄弟のいない彼女には物珍しかった。

「おまえはほっせーよなァ、女の子ってみんなこうなのかよ」

 今度はナランチャがの二の腕をぎゅっと握る。そこでリビングのドアが開いた。
 洗いざらしの髪をバスタオルで拭きながら現れたブチャラティは、ソファの二人を目にして歩く足を止める。しばしの沈黙の末にぽつりと言った。

「邪魔したか……?」

 彼の言葉の意味を理解して、慌てて距離を取ると、まったく意に介さず「あ、そうだ!」と声を上げるナランチャ。

「筋肉ならオレよりブチャラティの方がついてるぜ、触らせてもらえよ」
「な……っ!なに……言ってっ」

 が慌てた様子で立ち上がる。ほとんど睨みつけるような顔を向けられて、ナランチャは唇を尖らせた。

「なんだよー、オレのはべたべた触っといてよォー」
「べ、べたべたなんて……ちょっと触っただけでしょ!」
「よくわからんが……仲良くしろよ」

 ブチャラティは冷蔵庫を開け、腰を曲げてペリエを一本取り出すと、それを喉を鳴らして飲んだ。スェットパンツにTシャツというラフな服装で、いつも頭頂部できっちり編み込まれている髪も今は解かれ、毛先がまだしっとりと濡れている。ペットボトルを半分ほど飲むと、彼は腕で口元をぬぐった。その姿から目を逸らせずにいただが、我に返って手元の雑誌をナランチャに返す。

「ありがとう、スゴク面白かった」
「だろォ?読みたきゃまた貸してやるぜ」
「うん。でも今日はもう寝るね」

 ブォナノッテ、と交わし合い、は戸口へと向かう。キッチンからこちらへと移動してきたブチャラティとすれ違うまであと少し。一歩近づくごとに鼓動が早まるのを少女は感じた。

「ブォナノッテ(おやすみ)」
「ソンニ・ドーロ(素敵な夢を)」

 そんな言葉を交わし、がリビングを出る。ドアがきっちりと閉められると、ブチャラティは本棚へと歩いた。眠る前のお共に丁度良い文庫本を目で探す。今夜は急ぎの仕事もなく、久しぶりにゆっくりとしたひと時を過ごせそうだった。
 すでに何度も読んだ古典文学か、世界的ベストセラーとなったミステリー小説か、以前映画化もされた短編集か、と悩んでいると、ナランチャが声をかけてくる。

「あのさァ、ブチャラティ」
「どうした」
のことなんだけど」

 彼は選ぶ手を止めて顔を向ける。ナランチャはソファの上であぐらをかき、前後に身体を揺らしている。落ち着きのない子供のようだ。読みかけだった雑誌はすでに閉じられている。

がどうしたんだ」
「ブチャラティにさ、何か手伝えるコトはねえかって言ってただろ、さっき」

 ブチャラティはナランチャを見据えながら、シャワーを浴びる前に交わした会話を思い出していた。

「ああ、言っていたな。それがどうした」
「……オレ、の気持ちがわかるんだ、オレもそう思っていたからさ」
「何が言いたいんだ」

 要領を得ない会話にブチャラティの声が低くなる。ナランチャは動きを止めると真剣な眼差しで見返した。懇願するようにも見える目つきだった。

「あいつきっと、ブチャラティの役に立ちたかったんだぜ。ヒマだからとかそういうんじゃあなくって、何でもいいからあんたのために何かしたかったんだとオレは思うぜ」

 ブチャラティは沈黙した。その沈黙は長く、やがて思案顔で「そうか」とだけつぶやいた。




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