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、ちょっといいか」

 ブチャラティが声をかけてきたのは、朝食を終え、が三人分の食器を洗い終えたタイミングだった。
 いつもであれば朝食後、彼は新聞片手にソファに向かい、エスプレッソを飲みながら事件や政治経済欄などに目を通している時間帯だ。

「うん、いいよ」

 が応じると、彼は「来てくれ」と言って歩き出す。少女はその背中を追って廊下に出た。
 ちょうど洗面所から現れたナランチャと鉢合わせるが、男二人は特に言葉もなくすれ違う。通り過ぎざまにと目が合うとナランチャはにっと口角を上げた。少女は眉をひそめ、その笑みの意味を問うが、彼はさっさと背中を見せて歩き去ってしまう。少年は今日も目を引く鮮やかなオレンジ色のバンダナと腰布を巻いていた。

 廊下の先には両側に扉があり、ブチャラティは右手のドアの前で足を止めた。
 彼の住まいにはリビングの他に二部屋あり、そのうちの一室(左手のドアの方)をが使っており、右側の部屋はブチャラティの私室だ。掃除も不要だと告げられているためは足を踏み入れたことがなかった。

「君に頼みたいことがあるんだ」

 そう言うとブチャラティはドアを開け、腕で入るよう促す。はやや緊張しつつ中に入った。

 まず、窓に向かって設置された大きなデスクが目に入った。窓にはブラインドがかかり、下まで下げきってある。デスクにはパソコンがあり、周辺機器やプリンタ、書類の収納ケースなどが整然と並ぶ。ベッドやチェストといった家具類はなく、壁際に二人掛けサイズのソファがあった。部屋と呼ぶよりはオフィスの一室といった様相だ。そして、何よりも驚いたもの。
 向かって右側の壁面に造り付けられたクローゼットの前の、本来であれば空いたスペースに雑誌や新聞、書籍といった大量の紙類が乱雑に積み重なり、いくつもの山をつくり、そのどれもが今にも崩れ落ちそうになっていた。

 目を丸くするを横目にブチャラティが笑う。

「はは、酷い状態だろう?」

 彼はクローゼットまで歩き、両開きの折れ戸を開けるが、片側が本の山にぶつかって開かない。そしてなんと、クローゼットの中にも本があった。

「そのうち処分するつもりが、こんなに溜まっちまってな。手をつける時間が取れなかった……と言うのは言い訳だな」
「……これ、全部読んだの?」
「ざっと目を通しただけのものもある。そっちのヤツは廃業した古本屋のオヤジからまとめて譲り受けたものだ」
「さっき、処分って言ったよね。これ全部捨てちゃうの?」
「ああ。残すものは昨夜選り分けておいた。君に頼みたいことと言うのはこれの処分なんだ」

 ブチャラティはハサミとビニール紐を手にすると、雑誌を数十冊重ね、手際よく束ねて見せる。

「こんなふうに小分けに束ねて欲しい。もちろんできる範囲で構わない」
「えっと……次の資源ゴミって」
「木曜日だ。収集車がキチンと回収に来ればだが」
「それは誰にもわからないね」
「だな。だから急いではいない」

 はブチャラティの隣にしゃがみ込み、散らばっている本を数冊手に取った。ビジネス書やニュース誌、経済情報誌などが目立つがカルチャー雑誌や芸術書などもある。ブチャラティは知識をひけらかすタイプではないが、あらゆる方面で博識だと少女は感じていた。その理由の一端を知った気がした。半面、几帳面できっちりとした彼らしからぬ惨状に、新たな一面を見たような、彼の人間らしさに触れたようなそんな気分になる。

「これ、どれくらいの間溜めてたものなの?」
「どうだろうな。2、3年、いやもっとか」
「忙しかったんだね」
「いや、そうじゃあない。ただ単に面倒で後回しにしたってだけだ」
「前から訊きたかったんだけど、ギャングにお休みってないの?」

 は床に腰を下ろし、一つ一つが彼の腰辺りほどもある本の山を眺める。
 ブチャラティも手にしていたビニール紐を置き、床に直に座ると、片方の膝を立ててその上に腕を軽く乗せた。

「決まった公休はないが、もちろん休みはある。事前に申請すれば業務を調整することだって可能だ」
「でも、ブチャラティもナランチャも、休んでるとこ見たことないけど」
「敢えて休暇を取るほどの用もないしな。ナランチャは、どうだろうな。休みたい日があれば言えと最初に伝えてあるんだが……後で訊いてみるとするか」
「ブチャラティが最後に休みを取ったのはいつ頃なの?」

 顔を向け、が質問を続ける。ブチャラティは目線を上げ、少し考えてから答えた。

「ハッキリとは覚えていないが、二か月以上は前だな」
「その日は何をしたの?」
「まるでインタビューでも受けている気分だな」

 口元に笑みを浮かべ、彼はちょっとからかうような調子で言った。
 少女の眼差しがあまりに真剣で可愛らしかったからという程度の好意的な態度なのだが、ははっとして口をつぐんだ。それから緊張した様子で言う。

「気を悪くした……?」
「いや、そんなことはないさ。その日……か。何をしたんだろうな。映画を観に行ったのはもっと前だしな」
「え、ブチャラティって映画とか見るの?」

 がびっくりした顔をする。その様子をちらりと見て、ブチャラティがたまらず笑った。

「観るさ、映画くらい。君はオレをなんだと思ってるんだ」
「……そうだよね、何でだろう、ブチャラティってちょっと他の人と違うって言うか、すっごく落ち着いてるからかな」
「そうなのか?自分じゃあよくわからんが」
「落ち着いてるよ。前住んでたアパルトメントにもブチャラティくらいの年の人たちっていたけど、夜通し騒いだり酔っぱらって道で寝てたりしてたもん」
「オレだって道で寝たことはある」
「えっ!どうして!?」

 が好奇の目を向ける。少女の反応は素直でわかりやすく、年齢相応の無邪気さがあった。ブチャラティは口元に手をやり、笑いを押し殺しつつ答える。

「たいして面白い話じゃあないぜ。昔、知り合いと行ったローマのナイトクラブで酔っぱらって記憶を失くして、目覚めたら路上にいたってだけだ」
「……ブチャラティでもそんなことあるんだね」
「男なら誰だってそういう経験の一度や二度はあるもんだ。しかしまあ、今思えばありゃ一服盛られたんだろうな」
「……そうなの?よく無事だったね」
「命があったのはラッキーだった。身ぐるみ剥がされてはいたけどな」
「え?全部?」
「ほぼ全部、だな」

 それは今の彼からは想像もつかないシュールな光景で、は隣り合って座る男の顔をしげしげと見ていたが、我慢しきれずに笑い出す。つられたようにブチャラティも笑みを濃くした。
 彼は口元をほころばせ、言葉よりも表情豊かな眼差しで少女を見つめている。

「君はよく笑うようになったな」

「そう……かな」

 それだけ返すとは目線を落とした。彼女の心臓がそれまでにない鼓動を刻み始める。
 ブチャラティの瞳は純度の高いサファイアのようで、その目で見つめられると彼女はいつも不整脈でも起こしてしまいそうになる。だからすぐに逸らしてしまうのだけど、気がつくとまた目で追っている。

 少女はつとに思う。
 もしもポルポに引き合わされた相手が彼ではなかったら、今もスカッチに拘束されたままだったら、自分に未来などなかった。もちろん中学に編入などあり得ない。彼のようなギャングはごく稀で、彼と出会えたことはとんでもない幸運だったのだと。

 ブローノ・ブチャラティという男は普段は厳しい顔つきで隙がなく、かと思えば誰にでも合わせられる協調性を持ち、しかし決して一線は崩さない。それでも一たび懐に入れた相手にはとても柔らかく笑うし、とても情深い。彼のような人間がなぜギャングになったのか。そこにはおそらく止むに止まれぬ事情があったのだろう。表面上からはうかがい知れない彼の内面をもっと知りたいと思うし、彼のために何かしたいとは望んでいた。どんな些細なことでも雑用でも何でも良いから彼の役に立ちたい。彼に喜んで欲しいと。

「これ、任せてね。水曜日までには全部まとめておくから」

 は腰を上げ、本の山の一つに手を添える。そこは国際ニュースを扱ったビジネス雑誌が積まれたエリアだった。

「クローゼットのも捨てちゃっていいんだよね?」

 問いかけながら顔を向けると、ブチャラティが斜め後ろに立っていた。「ああ、頼むよ」と言って彼は少女と同じ方向へ腕を伸ばす。

「もし、他にも何か手伝えることがあったら」

 言葉は続かなかった。雑誌に添えていたの手にブチャラティの手が触れたからだ。彼は少女の指を軽く握り、そっと取り上げると自身の方へと引き寄せる。それから彼女の指先を親指の腹で軽く撫でた。少女は息を詰めてその光景を眺めた。まるで時間が止まったような錯覚を覚えた。

「ようやく生え揃ったな」
「え?」
「ずいぶん痛々しかったが、綺麗に揃ったようだ」
「……あ、爪?うん、そうなの。ようやく」
「良かったな」

 指先に触れたぬくもりが離れていく。少女は咄嗟にその手をつかんだ。ブチャラティの右手を両手でぎゅっと挟み込み、離さない。

「好き」

 考えるよりも早く声が出た。

「あなたが、好き」

 ブチャラティの表情からは笑みが消え、やがて驚きの色が広がる。その変化を少女はぼんやりと見上げていたが、握っていた手をぱっと放して二歩ほど後退した。

 突然、本当に唐突に、身体の隅々まで血液が行き渡るような感覚があって、はたった今自分が告げた言葉の意味をようやく正しく理解した。理解したとたん、今度はつま先から頭のてっぺんまでが発熱したように熱くなる。胸に秘めた想いが、彼女自身が自覚するよりも早く口をついて出てしまった。そしてそれはもう、疑いようのない事実としてそこに在った。
 少女は信じられない思いで、両手で口元を覆う。

 あなたが、好き

 その響きだけで泣きたくなるような切ない痛みが広がった。と同時に、これは口にしてはいけない言葉だったのだとも理解した。



 名前を呼ばれ、視線が絡まったその瞬間、示し合わせたように電子音が鳴った。
 少女は飛び上がりそうなほど驚いたが、ブチャラティが懐から取り出したのは携帯電話で、彼の手の中で今も急かすように鳴り続いている。

 ブチャラティは一瞬の逡巡ののちに受信ボタンを押した。立ち尽くすに一瞥をくれ、彼女の横を通り過ぎて廊下に出る。ドアは開け放たれているため小さく喋り声が届くが、内容までは聞き取れない。少なくとも楽し気な雰囲気ではなかった。
 程なくして、通話を終えたブチャラティがドアから顔を出す。呆然自失で立ち尽くしていたに再び緊張が走った。

「急用ができた。オレとナランチャは出かける。この部屋のことは頼めるか?」
「あ……うん、大丈夫。任せて」
「すまないな」

 携帯電話を握る腕をドア枠にかけたまま、彼は口をきつく引き結ぶ。一拍置いて控えめな視線を少女に向け、感情の抑制された静かな口調で彼は告げた。

「さっきの話の続きは、今夜しよう」




 二人が出かけると、は意欲的に働いた。一心不乱と言っても良いがむしゃらさで雑誌類を束ね、書籍は大きさや厚さで分けて同じように束ね、規格外の美術書なども数種類ずつまとめ、正午を回る頃には本の山は半分ほどに減った。
 空腹は感じず、そのまま続けても良かったが、朝食用のパンが今朝で切れてしまったことを思い出し、一旦手を止める。洗濯洗剤もストックがなかったような気がする。他にもいくつか買い出しが必要なものがあり、少女は千切ったメモ帳に必要な物を書き記すと、買い物袋を手にアパルトメントを出た。

 顔見知りが増えた少女は行く先々で声をかけられながら、スーパーマーケットで必要な品を揃え、最後にお気に入りのパン屋に寄った。

「チャオ、調子はどうだい

 口ひげを蓄えたやや小太りな店主が陽気に笑う。

「元気だよ。カファロさんはどう?」
「絶好調さ。君に会うといつもそうだ」

 少女は微笑んで、ショーケースを覗きこみ、数種類のパンを注文した。パニーノはどうだい?と勧められたので、ランチ用にと一つテイクアウトする。パニーノはその場でハムやチーズ、野菜などを挟んでくれるこの店の人気商品だ。
 ネアポリスのパン屋はカフェを併設している店が多く、今も数人がランチを楽しんでいる。の後ろには二組ほどオーダー待ちの客が並び、すぐ後ろには幼児連れの母親、その後ろにはショートカットの女性が鼻歌を口ずさみつつ待っていた。この街の住人はみんなのんびりとして、オーダーを急かすような客はあまりいない。

 パンが詰まった紙袋を受け取り、料金を支払うが、お釣りが明らかに多く、が首をかしげる。

「パニーノはサービスだよ」

 店主は白い歯を見せて笑い、カウンター越しにの肩を叩く。こういった気遣いはありがたく受け取るべきだとブチャラティに言われているので、は礼を伝えた。

「いつもありがとう、カファロさん」
「いいんだよ。しかしなァ、今日の君は元気がないな」
「え、そうかな」
「そうだよ。どうしたんだい?何か辛いことでもあったかい?」
「別に、何も……」

 は言いかけて、くしゃっと顔を歪めた。不意打ちの優しさに触れ、ぎりぎりで保っていた均衡が崩れそうになる。
 今夜、ブチャラティはいったいどんな話をするつもりなのか。それはもうわかっていた。やんわり拒絶されるのだ。自身、まだ自覚したばかりの恋心は、今夜終わってしまうのだ。

 が返事に詰まっていると、店主は人の良さそうな顔をちょっとだけ傾げた。その顔つきがなぜか急に虚ろになり、その場にばたんと倒れる。

「……え?、カ、カファロさん……?」

 カウンターに身を乗り出し、内側で倒れたまま動かない店主に呼びかけるが、今度は背後からどさっと音がして、少女は慌てて振り返る。先ほどの親子連れも倒れていた。思わず周囲を見回そうとするが、の意識も急激に遠ざかる。眠気、と呼ぶほど生易しくはなく、無理やり断絶されたかのように途切れた。
 は受け身も取れずに倒れ、背中や腰を強かに打ち付けたがもちろん痛みは感じない。落ちた紙袋の口からはパンが転がり落ちていた。




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