ViVi07
午後6時を過ぎ、空腹を感じたは冷蔵庫を開けた。
トマトやピーマン、ブロッコリーなどの有色野菜、卵、チーズ、生ハム、肉や魚介類のパック、他には果物のジュースや水、炭酸飲料などが入っている。
サイド収納に収まったコーラやサイダーはナランチャが買い置きしているもので、勝手に飲むなと言われている。
はしばし考えてから、トマトとムール貝のパックを取り出した。
彼女の一日はほぼ同じサイクルで回っている。
起床は午前7時頃、三人で朝食を取り、彼らが出かけると掃除や洗濯を済ませる。午後からは散歩や買い出しのために出かけ、夕食までの時間は部屋でのんびりと過ごす。今日もそんな平穏な一日だった。
トマトをカットしてオリーブオイルとニンニクで炒め、蒸したムール貝とスパゲッティを和える。少女の手際は良く、あっという間に一品ができた。
茹でたブロッコリーとゆで卵のサラダにオリーブオイルを垂らす。このオイルは頂きもので、シチリアの農家で取れた自家製のものだそうだ。初めて口にした日、はその美味しさに驚いた。
食事を終え、食器を片づける。そのとき背後に気配を感じた。
はサラダボウルを手にしたまま振り返る。見慣れたリビングの光景だけがそこにあった。
息をひそめ、注意深く視線を巡らせる。心音が早くなっていた。開けた窓からは時折車の走行音が聞こえてくる。この時期の日没は遅く、空はまだ青々としていた。
「気のせい……かな」
言いつつも、肩にこもった力はなかなか抜けない。心臓は今も早鐘を打ち、かすかな息苦しさすら感じる。
は言いようのない胸騒ぎを覚えたが、意識して呼吸を整え、食器を洗い終えるとソファへと移動した。革のひんやりとした感触が太ももに伝わる。
静けさに耐えられずテレビをつけるが内容はまったく頭に入らず、すぐに消す。それならと本棚に向かった。読みかけのままになっていた文庫本を選び取り、再びソファに腰を落とす。ぱらぱらと捲ってみるが、なぜか栞が見当たらない。は首をひねるが、その理由を唐突に思い出した。
少女はやにわに立ち上がり、ソファの周辺を見回す。体勢を低くしてのぞき込むと、ソファの下、陰になる位置に栞が落ちていた。
「そうだ……落としたんだった」
あの日は弱い雨が降っていた。
ソファから落ちた本を横目で見ながら、彼女は確かに思った。ああ、拾わなきゃ、と。しかし引きずり込まれるような眠気に意識をさらわれた。
目覚めたとき、本はローテーブルの上にあった。そのときはかすかな違和感だけを覚えたが、今はっきりとした疑問に変わった。
この本を拾ったのは「誰」なのか。
心臓がどくん、と鳴る。その音が頭の奥でうるさいくらいに鳴り響く。
は床に膝をついたまま、ソファの下に落ちたイタリアンレザーの栞を呆然と見ていたが、我に返って腕を伸ばす。拾い上げようとしたが、それをつかんだのは彼女の手ではなかった。
ブチャラティが玄関のレバーに手をかけたとき、室内から叫び声がした。彼は急いでドアを引き、声がした方へと駆ける。リビングのドアを開けるとちょうど飛び出してきたと出合い頭にぶつかった。その勢いのまま背後に倒れ込む。
「大丈夫か、」
「ブチャラティ……ッ!今……今、何かいたのッ」
は後ろを振り返り、取り乱した様子で叫ぶ。ブチャラティの胸にしがみつき、指はスーツの生地に食い込んでいる。
「何か?」
「わからないッ、でも、でも、いたの!人間じゃあなかったのッ」
「落ち着くんだ。それは君の敵ではない」
「……え?」
「あのよォー……いつまでそうしてんの?」
いつからそこにいたのか、横でしゃがみ込んだナランチャがいささか呆れたように言う。はそこでようやく現状を理解した。
尻もちをつくブチャラティと、彼に抱き留められた状態の。倒れる瞬間ブチャラティは少女をかばうように受け止めていた。おかげでに怪我はないが、二人は今、互いの体温が感じ取れるほどに密着している。おまけにブチャラティの筋肉質な腕が、の腰にしっかりとまわされていた。
少女がすぐさま身を離す。ついさっきまで蒼白だった顔は、今は耳まで赤く染まっている。
ブチャラティはいたって平静にの手を引いて起こすと、背後で静かに佇むそれに目をやった。
「なるほど。そいつが君のスタンドか」
「えっ?」
「女の子のスタンドってやっぱオンナノコなんだなァー」
ナランチャがそんな感想を述べる。は目まぐるしく変わる状況についていけないまま振り返った。
そこにいたのはナランチャの言う通り、一見して女性だとわかる姿形をしていた。人間と同じ四肢を持つ人間ではないもの。柔らかな皮膚はなく、硬質的な質感を感じさせる人型のスタンド。
「これが……私の、スタンド?」
「ああ。君の傍を離れないところを見ると、射程距離はそれほど広くはないな」
「射程距離?」
「スタンドには色んなタイプがいてよー、スゲー力が強い代わりに射程距離が狭かったり、遠くまで行けるけど力が弱かったり、精密な動きが得意だったりとか色々いるわけ」
ナランチャが補足をするがは中途半端にうなずくばかりだ。
三人は場所をテーブルに移し、ブチャラティがいれたカッフェを飲みながらのスタンド講座が始まった。
一通りの説明を受けたは、自分のスタンドが「近距離型」の「非戦闘タイプ」だということを理解した。
能力の詳細については彼女自身まだ判然としないが、どうやら他人を「元気」にするらしく、はそれを無自覚に発動していた。
「スタンドはいわば君自身だ。無自覚と言えど、発動するにはキッカケがある。例えば……そうだな。相手を元気にしたいだとか、痛みを取ってやりたいだとか、君自身がそう考えたハズだ」
「そう……かもしれない」
は平皿に乗ったビスコッティを一つつまむ。これは今日ゴメスという名の老婦人から届けられたものだ。ブチャラティの話によると、その婦人も「元気」になっていたのだと言う。は確かに、彼女の痛む膝を見て、早く良くなればいいと願った。
少女の背後には今も物言わぬバービー人形のようなスタンドが控えている。その目に意思は感じられないが、一定の距離以上離れようとはしない。
「……これ、この子、はどうやって消せばいいの?」
「消す、と言うよりも、見えるか見えないかってだけで、スタンドは常に傍にいる。本来ならば考えるよりも早く、自分の手足を動かすように自在に操ることができる」
そうだろう?とブチャラティがナランチャに話を振る。彼は深くうなずいた。
「オレ、初めて「エアロスミス」を見たときああこれはオレなんだって思ったぜ。どうやって動かすのか?改めて聞かれるとムズかしいなァ。おまえだってよォー、自分の手動かすときにどうやって動かすかなんて考えねーだろ」
「うん……そうだね。エアロスミスっていうのがナランチャのスタンドの名前なの?」
「へへ、カッチョいいだろ?」
少年が誇らしげに笑う。「見たい」とが言うと、ナランチャは低く唸った。
「見せてやってもいいけどよォー、ここじゃあちょっと。今度もっと広いとこでな!」
「スタンドはむやみやたらと見せるモンじゃあない」
「わかってるぜブチャラティ。でもなら、オレ構わねーぜ」
ブチャラティは少し意外そうな顔をした。すでに冷めたカップに口をつけ、それをテーブルに戻す。
状況から鑑みるに、が初めてその能力を発動した相手はナランチャだ。
本来スタンドは闘争心や自衛という「闘う意志」に反応して現れる。そのため悪人であるほどスタンドの素質があると言われている。
穏やかなタイプはあまり向かず、そのエネルギーは場合によっては本体に危害を加えたり、暴走する可能性もある。それをブチャラティは危惧していたのだが、どうやらその心配は杞憂のようだ。
彼はふと思いついて、に目を向ける。
「。君の能力、オレにも使ってみてはくれないか」
突然の提案に戸惑う少女に、ブチャラティは尚も言う。
「実を言うと、最近少し疲れているんだ。目の奥が痛いし、肩もチョッピリ凝っている」
それは事実だった。チームの事務処理はほぼ彼一人が担っており、昨夜は報告書をいくつか仕上げるために深夜までパソコンと向き合っていた。
「オレも見たい!やってくれよッ」
「でも……できるかな」
「できるに決まってるぜ!前にオレを元気にしてくれただろッ」
興味津々のナランチャに促され、は立ち上がる。
彼女のスタンドは今もぴったりと寄り添っているが、得体の知れない恐怖はもうなかった。ただ、それが自分自身なのだと言われてもまだぴんとはこない。
「わかった。やってみる」
は意を決してつぶやくと、テーブルの向かい側まで歩く。ブチャラティは体全体をの方へ向け、長い脚を形良く組んだ。頬にかかる髪は艶やかで、彼女を見上げる整った顔立ちは精悍だ。
「緊張しなくていい。君の思うようにやってくれ」
緊張をほぐすよう優しい口調で言うが、その意図に反しての心音は早まる。
手を伸ばせば触れられる距離にブチャラティがいる。その事実はいやがおうにも先ほどの出来事をよみがえらせる。
独特なデザインのスーツは胸元が大きく開き、厚い胸板をのぞかせている。そこから伝わる体温も感触も、はまだはっきりと覚えていた。
組んだ脚に添えられた手、その指は長く綺麗だが、女性のしなやかさとは違う武骨さがある。思わず見入っていると、ブチャラティの口元がふっとゆるみ、彼は小さく笑った。
「そんなにジッと見られたら穴があいちまうな」
「えっ……あ、ち、違うの!」
の慌てた様子にブチャラティがさらに笑う。
「待ってんだからさー、早くやれよー」
ナランチャが抗議する。は何度か頭を振ると、深く息を吸い込んだ。肺の中にゆっくりと空気が送り込まれるのがわかる。集中しなくては、と少女は思った。
気を取り直し、改めてブチャラティに向き直るが、目は合わせられない。代わりに右手を伸ばし、彼の肩にそっと触れた。すると背後のスタンドもそれに倣う。
肩である必要はない。けれどどこかには触れる必要がある。そして触るのは右手でなければならない、というルールが、もうずっと知っていたかのように脳裏に浮かんでいた。予感よりももっと確かなものとして。
ブチャラティの肩に触れたスタンドの手の平からビロードのような光が広がる。それはのオーラ、生命エネルギーの光だった。一瞬でブチャラティの全身を覆い、たちどころに消えてしまう。
「へっ、もう終わり?」
ナランチャが目を白黒させている。彼の言う通り、それは本当に僅かな時間だった。
ブチャラティは立ち上がり、首をひねって全身を改めると、腕や足の動きを慎重に確かめていく。「劇的な変化はないが」と最初に断ってから彼は言った。
「確かに体が軽いぜ。目の奥も痛まない、肩も」そこで肩をぐるりとまわしてみせる。「肩こりもないな。タップリ睡眠をとった朝みたいに爽やかな気分だ」
「シゼンチユリョクヲコウジョウサセマシタ」
突然そんな声がした。ブチャラティとナランチャ、が同時に顔を向ける。声の主はつんと澄ました(ように見える)面持ちで彼らを順に見た。は息をのんだ。
「あなた……喋れるの?」
「スィ」
「自然……治癒力って言ったの?」
「トウシツガタリマセン」
「え?」
は眉根をよせるが、彼女のスタンドは素知らぬ顔で歩き出す。冷蔵庫まで行くと勝手に開け、赤いラベルのついたペットボトルを取り出した。それを勢いよくあおる。
「……おッ、おまえかーーーーッ!」
ナランチャが叫んだ。
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