ViVi04
その日ネアポリスは朝から弱い雨が降っていた。
パンナコッタ・フーゴは濡れた肩口を手でさっと払い、古い看板のかかったリストランテの扉を開ける。出迎えた店主に軽い挨拶をして奥の個室に向かうと、アバッキオとブチャラティが雑談をしていた。
「今月の集金分です」
フーゴはそう言うと、小脇に抱えたレザーのビジネスバッグを差し出す。ブチャラティはフーゴに労いの言葉をかけると、個室の奥にある鍵付きのキャビネットから分厚い帳簿を取り出した。それをテーブルに広げ、記帳を始める。
アバッキオは腰を上げ、ワゴンに乗ったケーキを一つ皿に移している。もうすでに自分の担当分は終えたのだろう。フーゴはちょうど現れた店員にカプチーノを注文した。
「それと、頼まれていたサニタ地区の不動産屋にも行って来ましたよ」
ペンを走らせていた手を止め、ブチャラティが顔を上げる。
「ご苦労だったな。それでどうだった?」
「どうもこうもありませんよ。大家のアバッティーノはもうスデに、家財一式処分しちまってたんです。の父親はカネにルーズな男だったようで、前々から追い出したいと思っていたんでしょうね」
「乱暴だな。本当に全て処分してしまったのか」
「ええ、この目で確かめました。部屋には何一つ残っちゃあいませんでした」
フーゴは憤然とした様子で肘をテーブルに乗せる。
・の自宅は古い集合住宅の一角にあった。
父親の遺体は事故死として処理され、娘のは社会的には消息不明となっているが、はなから捜索などされていない。そこには当然組織の力が及んでいる。
残った自宅が現在どうなっているのか、ブチャラティはフーゴに調べるよう依頼をしていた。
「手間を取らせたな」
「あの娘、スタンド能力はまだですか」
「ああ」
「もう一週間経ちますね。いったいいつまで面倒を見るんです?」
アバッキオが目だけをブチャラティに向ける。彼はその視線を受け止めつつ、フーゴの方へ向き直る。
「少なくとも、危険はないとオレが判断するまでだ」
「危険?あの娘の能力に危険があるって言うんですか」
「どんなスタンドだろうが使い方によってはリスクを伴う。特に、本体がまだ未熟で自分の能力をキチンと扱えなかったり、スタンド能力だけが暴走しちまったりする場合は特にヤバい」
「ですが、それがいったいいつなのか……一か月後か、半年後か」
「それはおまえが心配することじゃあない」
「わかったかフーゴ、ブチャラティにはブチャラティの考えがある。わかったらもうそれ以上言うんじゃあねえーぜ」
語気を強めてアバッキオが睨む。フーゴは口をつぐんだ。
窓ガラスに雨筋が伝う。外はじっとしていても髪が湿るような湿度の高さだが、店内はエアコンがよく効いていた。
「ナランチャのヤロウ、おせえーな」
壁時計を見上げたアバッキオが不機嫌そうに言う。しかしそれは彼の普段の表情であり、取り立てて不機嫌なわけではない。皿に乗ったケーキをフォークでつついている。
「そうか……あいつも今日から」
フーゴがつぶやくように言った。
今日は月の初めのメルコレディ(水曜日)だ。レストランや商店のみじめ料の集金日である。
現在100万人近くが暮らす人口過密都市のネアポリスは、いくつか区分分けされ、それぞれのエリアを担当するチームが存在する。ブチャラティのチームもそのうちの一つだ。
みかじめ料の徴収は各チームが個々に行っている。ネアポリスの中心街を縄張りとするブチャラティチームは抱える店も多く、また店の規模や立地によって金額が異なるため複雑だ。
「あいつ、大丈夫でしょうか。一人で集金なんてできるんでしょうか」
「できるできねえじゃあねえ。やるんだよ」
アバッキオの言葉に納得するが、フーゴはすぐに苦い顔になる。
「ですがあいつ、最近やけにボンヤリしてて、この前なんてうたた寝しやがって!人の話も聞いてるんだかないんだか」
「そりゃ元からだ」
部下二人のやり取りをブチャラティは沈黙したまま聞いている。そこでタイミングよく駆け寄ってくる足音が響いた。
「ブチャラティーーーッ終わったぜーッ!」
声とともに扉が乱暴に押し開けられ、ナランチャが姿を現す。
「静かにしないかナランチャ。他の客の迷惑だ」
「ご、ごめんよブチャラティ」
ナランチャの手には、先ほどのフーゴ同様にクロコダイルの型押しバッグがあった。ブチャラティチームが集金用に使っているものだ。
それは一見危険な行為にも思える。毎回同じ日に同じバッグを使えば、そこにカネがあるのだとばらすようなものだ。しかし彼らはギャングだ。そのバッグに手を出すということは、パッショーネという組織に手を出すことと同義で、そこらのゴロツキでも知っていることだ。
「オレ、ちゃんとやったぜ!店も間違えなかったし……金額だって合ってるッ。ブチャラティ!確かめてくれよーッ!」
高揚した様子で言うと、ナランチャは大切そうに抱えていたバッグを差し出した。
「ご苦労だったな」
広げたままの帳簿に再び目を落とし、ブチャラティが記帳を始める。店名と金額をチェックし、全て終えると電卓で集計する。その間ナランチャは立ったまま、固唾を飲んで待っていた。服や髪が雨でしっとりと濡れている。
ブチャラティは帳簿を閉じると、口元をゆるめた。
「確かに預かった。このカネは明日オレがポルポへ納めておく」
ナランチャが破顔する。フーゴは思わず身を乗り出した。
「キッチリ合っていたんですか?本当に?信じられないな」
「間違いない。1リラまでキチッとな」
「なんだよフーゴッ、オレを疑ってんのかァー!」
「だってオマエ、最近ぜんッぜん身が入ってなかったじゃあないかッ」
「それは……ちょっと寝不足だったからだよー。もう大丈夫だぜ!」
ナランチャはそう言うと、ケーキが二つ残ったワゴンへと上機嫌で向かう。その姿を目で追いながら、フーゴが首をひねる。
「そう言やあおまえ、今日はやけに元気だな。顔色も良いし、なんだかチョッピリ肌の艶まで良く見えるぜ」
「ちょっと寝たのが良かったのかな。なんかスッゲー調子が良いんだよなァー、スカッとした気分だぜ」
呼び寄せた店員にナランチャはスパゲッティとタコのサラダ、ムール貝のソテーも注文する。
「ガキはよく食うな」
「成長期だからな」
年長組の二人が笑った。
・は読みかけのページに栞を挟み、窓外へ目を向けた。数センチ開いた窓からは雨の匂いがしみ込んでいる。見下ろした路地に人通りは少ないが、耳を澄ませばかすかに喧噪が届く。一つ向こうににぎやかな商店街があるせいだ。
ソファに深く身を沈め、天井を仰ぐ。ブローノ・ブチャラティの自宅には退屈しない程度の本や雑誌があった。熱中していればひと時不安は薄れるが、読み終われば気分も沈む。
ブチャラティはを対等の人間として扱い、彼女の尊厳を脅かすようなことは決してしない。外出は許可されない代わりに衣食住は不足なく与えられた。以前捕らえられていた劣悪な環境を思えば居心地が良いくらいだ。
立てた膝を両腕で抱え込み、まだ生えそろわない爪を唇に当てる。傍らに置いた文庫本が音をたてて落ちた。ページが開き、挟んだ栞が飛び出ている。ああ拾わなきゃ、と彼女は思ったが腰を上げるのがひどく億劫だ。
昨夜は眠りが浅く、早朝からナランチャと話をした。彼は今日の仕事をうまくやり切ったのだろうか。きっとやり切ったに違いない。あんなに努力していたのだから。はそんなことを考えながら、重くなったまぶたをそっと下した。
物音がして、が目を開ける。辺りは暗く、夜はすっかり更けていた。どうやら寝入ってしまっていたようだ。窓から入る街灯りのおかげで完全な闇ではないが、腕を動かしてみても輪郭でしかわからない。その時ぱっと照明が灯った。
「明かりも付けずに何をしている」
「なんだよ寝ちゃってたのかよー、お土産買って来たぜーッ」
戸口に立つブチャラティの後ろからナランチャが顔を出す。
ナランチャは数種類のアンティパストとピッツァが入った袋をテーブルに乗せ、冷蔵庫に向かった。
掛け時計を見ると午後9時を過ぎている。彼らにしては早い帰宅だ。
はまだ半覚醒のまま身を起こし、ローテーブルに置いていた文庫本を本棚に戻す。二人のいる方へと歩いたが、彼女はすぐに立ち止まった。振り返って本棚を見る。何かひっかかるものがあった。
「あれ、オレのコーラがねえーーッ!、おまえ飲んじゃったのかよォー!」
「え?」
は驚いて向き直る。ナランチャの声の大きさはいつものことだが、なぜか今はどきりとした。
「……コーラ?飲んでないけど」
「じゃあよー、なんでここにッ!飲み終わったペットボトルが捨ててあるんだよ!」
が釈然としないままのぞき込むと、ゴミ箱の中には確かに赤いラベルのついた空のペットボトルがあった。
「でも私、ほんとに知らないけど……。今朝、ナランチャ起きてたでしょう?その時に自分で飲んじゃったんじゃあないの」
「へ?ど、どうだっけ?えー……オレ、飲んじまったのかなあー」
とたんに自信を無くすナランチャ。ブチャラティがアンティパストを皿に移し始めたので、とナランチャも慌てて手伝った。
食事を終え、いつものようには食器洗いを、ブチャラティはマキネッタでエスプレッソを淹れる。ナランチャはテーブルを拭いている。
は顔をシンクに向けたまま、やや緊張しながら言った。
「ブチャラティ……ちょっと聞きたいんだけど」
「どうした」
「私、いつまでここにいなきゃあいけないの」
スタンド能力が発現するまでは、とは説明されている。だがそれがいつなのか、彼女自身まったく予測ができない。テーブルを拭き終えたナランチャが二人の様子をうかがっているが、口は挟んでこない。
ブチャラティはマキネッタのサーバーに水を注ぎながら言う。
「いつと断言はできない。君次第だ」
予想通りの答えだった。は怯まずに返す。
「じゃあ、せめて出かけたい。絶対に逃げたりはしないから」
「わかっている。君は勝手に逃げたりはしない。どこか、行きたい場所でもあるのかい?何か欲しいものがあれば、オレかナランチャに」
「一度家に帰りたいの」
はかぶせるように言った。
「荷物を取りに帰りたいの。一度、少しの時間でもいいから家に帰らせて欲しい」
不自然な沈黙が続いた。弱火にかけたマキネッタからは抽出完了の合図音がポコポコとなっている。
ブチャラティはコンロの火を止めると、目線を落とした。
「いいだろう」
「……え、本当に?」
「ただし、君一人ではダメだ」
「じゃあオレが一緒に行ってやるぜッ!いいだろブチャラティーッ」
ナランチャが助け舟を出す。の顔がぱっと明るくなった。しかしブチャラティは厳しい表情のままだ。
「いいや、ダメだ。行くのはオレだ。オレが付き添う。それでいいか?」
自宅へ戻れる嬉しさから、彼女は二つ返事で了承した。
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