ViVi03



 にぎやかな商店街から一歩入った路地に建つ古いアパルトメントの一室に、ブチャラティの自宅があった。
 まだ見慣れない部屋で目覚めたは、着替えを済ませて部屋を出ると、いつものように洗面台で顔を洗う。
 青あざは日に日に薄くなっている。口を開けるたびにしみた傷ももう痛くはなかった。

 はリビングのドアを開け、それほど広くない空間に目をやる。
 古いが清潔なキッチンと、シンプルなデザインのダイニングテーブル。その向こうには年代物の革張りのソファとローテーブルが置かれている。その他には、テレビと背の高い本棚が一つ。無駄なもののない整然とした部屋だった。
 大きな窓にかかるカーテンが時折風にそよぎ、は眩しさに目を細める。

「おはようナランチャ」

 声をかけるとソファの上で丸まっていた毛布がもぞりと動く。

「んー……もう朝かァ~?もうちょっとよォー、寝かしといてくれよーー」

 起きる気配のないナランチャはそのままに、は冷蔵庫を開ける。ペットボトルを一つ選び取り、テーブルに座った。
 テーブルの上には取っ手のついたバスケットがあり、細長いスティック状のものや、丸っこいもの、ハトの形を模したものなど、様々な形のパンがおさまっている。
 しばらくするとナランチャが背伸びをしながらやって来た。同じタイミングでブチャラティも現れ、朝食の時間となった。

 がこの部屋へやってきて一週間が過ぎた。
 彼女ははじめ、ナランチャが自分を監視するためにここに寝泊まりしているものと考えていたが、それは半分違っていた。
 ナランチャは組織に入団してまだ日が浅く、住む場所もなく、以前からブチャラティの家で寝泊まりしているらしかった。

 朝食を終え、が食器を洗っていると、ブチャラティがやって来て食器棚からマキネッタを取り出す。水を入れ、すり切れ一杯のコーヒー粉を入れる。食後のエスプレッソは彼の習慣だ。

「何か変わったことはないか、

 コンロに火をつけながらブチャラティが言う。いいえ、とが答えると、それで会話は終了する。ブローノ・ブチャラティという男はあまり無駄口を叩かない。

 彼はデミタスカップ片手にソファへ移動すると、飲みながら新聞に目を通した。傍にぐちゃっと丸まった毛布があるが、気にするそぶりはない。
 ナランチャはというと、テーブルについたまま、クリップでまとめられた紙の束を熱心に見ている。たまに思い出したようにペンでごちゃごちゃと書き込む。よく目にする光景だった。

 二人が出かけるのは大抵昼前で、そのまま夜まで戻らないことが多い。何か急ぎの用があれば、と渡されたメモには彼の携帯番号が記されていた。
 着替えや日用品などは初日に与えられている。衣類はともかく、下着をほぼ見ず知らずの男から渡され、は激しく動揺したが、受け入れるしかなかった。購入したのがブチャラティなのか、その仲間なのかは知らない。

 テーブルの上にはカップが二つ置いてある。一つはナランチャのもので、一つはのものだ。先ほどブチャラティが淹れたエスプレッソだ。
 の前に置かれたカップは二人と異なり大き目で、ホットミルクがたっぷりと継ぎ足されている。濃い目のエスプレッソが苦手だと彼女が伝えると、翌日から彼はミルクを買い置きするようになった。
 ブチャラティは無口な男だが、そういった些細な気遣いがの警戒心を少しだけほぐしていた。

 その後出かけた二人が戻ったのは日付が変わる頃だった。玄関のドアが開く音をはベッドの中で聞いた。いつもなら再び眠りに落ちるところだが、今日はなかなか寝付けない。ようやく寝ても浅い眠りを繰り返すだけで熟睡はできず、は諦めてベッドから出た。まだ夜明け前だった。

 水でも飲もうと部屋を出ると、廊下の先がほのかに明るい。リビングの擦りガラスからもれた明かりだった。
 少し緊張しながらドアを引くと、ダイニングテーブルに伏せて動かないナランチャの背中があった。そっと近づくと静かな寝息が耳に届く。ブチャラティの姿はない。
 この住居にはリビングの他に二部屋あり、はそのうち一部屋をあてがわれている。ブチャラティはもう一室の方で休んでいるのだろう。

 はグラスに水道水を注いで飲むと、改めてナランチャを見た。
 例の紙の束が伏せた顔の下敷きになっている。それが何の書類かは検討もつかないが、彼が大切にしているものには違いなかった。それが今、無残に折れ曲がり、おまけによだれでたわんでいる。

「ナランチャ……起きて」

 はささやき声で肩を押す。ナランチャは一度身じろぎしたが、目を覚ます様子はない。この少年はけっこう寝起きが悪い。はそれをここ一週間で理解していた。

 紙束の端をつかみ、破れないようじわじわと引き抜く。あともう少し、というところでがしっと腕をつかまれた。

「……勝手によォー、触るんじゃあーねえーー」

 まだ半分眠っているような顔だ。
 ずいぶんな言われようには多少むっとしつつ手を引っ込める。

「それ、しわが寄ってる。あとヨダレもね」

 言い終わる前にナランチャが飛び起きた。一瞬で目が覚めたようだ。

「ね、寝ちまったのかオレッ……あ!しっしわになってるーッちっきしょーーッ!」
「疲れているんじゃあないの」
「……あ?」

 はよけいなお世話だと思いつつも、我慢できずに言う。

「目の下、クマができてる……顔色も悪いし。ナランチャ、あなた疲れてるよ」
「そんなの、おまえに関係ねえーだろ」
「それ、覚えなきゃいけないの?」

 クリップでまとめられた紙の束を指す。そこにはリストランテやカフェ、煙草屋や薬局に至るまで、沢山の店名が連なっていた。そして余白には、もう書き込む隙もないほどのメモ書きがある。

「勝手に見てんなよなァーッ」
「うん。ごめん」
「……別によォ、チラッと見えたんなら仕方ねーけど」

 きまり悪そうに言って、ナランチャが頭を掻く。

「こいつは、オレが担当する店のリストなの。オレ、覚えわりーけどよォー、覚えなきゃあなんねーの」
「でも、スゴイ量だよ。これ全部暗記しなきゃあいけないの?」
「はあ?覚えねーでどうやって集金行くんだよ」
「すぐに全部覚えなくても、しばらくその紙を持ち歩けばいいんじゃない?行き方とか目印とか、せっかく詳しく書いてあるんだし」

 ナランチャが半眼でを見返す。口も半開きだ。

「そっ、そうかッ!確かにそうだぜッ!持って行きゃあいいんだ!なんで気づかなかったのかなーッ」

 テーブルに両手をつき、興奮気味に叫んでいたナランチャだが、ふと我に返って肩を落とす。

「いや、やっぱダメだ……それじゃあダメなんだよ。覚えなきゃあよォー」

 ぶつぶつとつぶやきながら椅子に座り直す。ナランチャは疲れて焦点のあっていないような目で、手元をじっと睨んだ。

「ブチャラティは……オレにキチッと覚えろって言ったんだ。だから覚える。絶対に覚えなきゃあならねえ」

 彼の決意が伝わってきて、はもうそれ以上口を挟まなかった。ただ、何かできることはないだろうかと考えた。
 一週間前、がリストランテリベッチオへ連れて行かれた日、この少年だけが彼女の身を案じてくれたのだ。ナランチャはふわ、と欠伸をして眠い目を擦る。

「じゃあ、カッフェでも入れるよ」
「お?おー……頼むぜー」

 は食器棚からデミタスカップを取り出した。



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