プラセボじゃない02
降り始めは灰のようだった雪が時間と共に球状になり、音と言う音を吸い込んでしんしんと降り続く。室内灯は消したままだが、雪明かりのせいで暗くはなかった。
は結露した窓ガラスを手の甲でこするが、白く吐き出す息があっと言う間に曇らせる。草生したアスファルトはすでに白一色に染まっていた。
数メートル先の視界すらなく、こうなっては出歩くのは危険だと判断し、プロシュートは車内に留まった。
彼の提案で二人は後部座席に移動した。それぞれ上着を着込んでいるがさほど防寒にはならない。プロシュートはカシミアのマフラーをの首元に巻いてやった。彼女は遠慮したがプロシュートは譲らなかった。
それは落ち着いた配色のロイヤルチェックのマフラーで、肌触りが柔らかく保温力も高い。そしてほんのり良い香りがした。
車内は互いの息遣いすら耳につくほど静かで、は落ち着かない思いだった。
気心の知れた間柄ならいざ知らず、彼女はほんの二か月前にこのチームに転籍になったばかりの新人だ。適度なコミュニケーションは取れているし、任務ではきっちり成果を上げているが、プライベートな会話はほぼしたことがない。隣の男の好物すら知らないのだ。
「よくさ、テレビとかであるじゃない?雪山で遭難したときに、「寝るなッ寝たら死ぬぞッ」って叫ぶやつ。あれってどうしてかな」
リアシートに背を預け、難しい顔でうつむいていたプロシュートが顔を上げる。
「さあな。体温が低下するからじゃあねえのか」
「寝ると体温って下がるの?」
「下がるだろ。内臓の機能が低下するんだからよォ」
「そっか」
喋りながら奥歯ががちがちと当たる。氷点下の冷気が末端を冷やし、手足の指が氷のように冷たい。は話を続けた。
「こんなときギアッチョがいたら良かったね。彼の能力なら、10キロなんてすぐだものね」
「確かにな」
「ホワイト・アルバムって自分自身は寒くないのかな」
「どうだろうな、今度会ったら聞いてみろよ」
「そうだね。ねえ、イルーゾォのマン・イン・ザ・ミラーはどうかな?鏡の中に入れてもらえたら寒くないんじゃあない?寒さは許可しない!とかすれば」
「持続力がねえからな、できたとしても朝まではムリだぜ」
「そっか……そうね」
「不安か?」
がはっと目を上げる。プロシュートはにやりと笑い、からかい口調で言った。
「今日はえらく喋るじゃあねえか。いや、悪かねーぜ、そういうオメーもよ」
「……プロシュートは、怖くないの?死ぬかもしれないのに。任務ならまだしも、こんな」
凍死だなんて、とは声に出さずにつぶやく。
膝を曲げ、冷え切ったつま先をリアシートに乗せて、厚手のタイツの上から手でしきりに摩っている。呼吸をするたび白い息がまとわりつく。
「人間はそう簡単にゃあくたばらねえよ。ほら、こっち来い」
が反応するよりも早く、彼女の身体はプロシュートの腕に収まっていた。あまりに平然と抱き寄せるので、彼女は声も出なかった。
「へんな意味はねえ、くっついた方があったまるだろ」
「そうだね」
はなるべく落ち着いた声で言う。
「しかしよ、これじゃあダメだな。オメー、上着脱げ」
「え?」
「コートの上からじゃあ意味ねえだろ。さっさと脱げ」
言われるままにダウンコートを脱ぐと、プロシュートもコートの前を開いた。を抱き寄せるとコートで包むようにして、彼女の腕を自身の背に誘導する。ほとんど抱き合っているようなもので、肩にはたった今脱いだダウンコートがかけられた。
アウター越しでは感じられなかった人肌がはっきりと伝わり、少しだけ気恥ずかしいものの、それ以上の安心感があった。
「……あったかい」
「だろ?」
「こういうの、久しぶり」
失言だったと気づいたが、言い訳するのも面倒では黙っていた。
「なんだよ、オメー男いねえのか」
は曖昧な相槌を打つ。すっかりまどろんでいたが、彼の次の発言のせいで一瞬で覚醒した。
「同僚とは寝ない主義なんだろ?」
ぱっと身体を離し、は向かい合う男を見上げた。至近距離で交わったプロシュートの瞳は美しく、輝く宝石のようだった。
「なにそれ……?」
「何って、覚えてねェーのか?前に言ってただろ、テメー自身でよォ」
は急いで記憶を手繰るが覚えがない。しかめっ面で考えていると腰をぐっと引かれ、彼女の身体は再びプロシュートの腕に収まった。
「寒ィだろうが、離れんな」
はプロシュートの香りを吸い込んだ。マフラーからもほんのり香っていたのは香水のようだ。うっすらタバコの残り香もある。そういった表面上の匂いの後で、肌そのもののかすかな匂いも感じられる。なんていい匂いのする男だろう、と彼女は場違いなことを考えていた。
「前によ、ホルマジオに口説かれてただろ?わりとマジによ。あんときオメー、そう言ってたぜ」
「あー!」
「思い出したか」
プロシュートは言って、「どうなんだよ」と付け足した。
「うん、思い出したわ。確かに言った。でも彼、からかってただけよ」
飲みの席だった。経緯までは覚えていないが、その日は珍しくアジトで飲んでいた。
新人かつ唯一の女性メンバーである彼女だが、誰も特別扱いなどはせず、は隅っこでワインを飲んでいた。深酒したホルマジオが上機嫌に絡んできたが、彼女が件のセリフを口にすると大げさに残念がった。それだけだ。
ギャングの世界で「女」という性別はマイナスにしかならない。女というだけですり寄ってくるくせに、自分より優れているとわかったとたんに手のひらを返し、今度は排除しようとする。そういった陰湿さがこのチームにはなかった。
仕事内容は陰惨だが、彼らにはからっと乾いた陽気さがあって、それだけでもう、はこのチームを好きになり始めていた。
「仲間とそういう関係になることは望んでないの。良くも悪くも支障が出るでしょ?プロシュートは違うの?」
「いいや、オレも同じ考えだ。面倒くせェのはゴメンだ」
「でしょう?ほんとそう思うわ」
時刻は午後10時をまわっている。相変わらず音もなく、大粒の雪がただ静かに降り続いている。静寂が過ぎるので、この空間だけが世界から隔絶されているようだった。
「眠ィんなら少し寝ろよ。体力は温存しといた方がいいぜ」
プロシュートが言った。
「寝たら死ぬんじゃあなかったの?」
「条件によるだろ。外で軽装で寝っ転がってりゃあ死ぬだろうが、こうしてくっついてりゃ大丈夫だ。心配すんな」
「プロシュートは?」
「オレは起きてる。車が通りがかるかもしれねえからな」
「じゃあ、一時間したら起こして。交代する」
これは優しい嘘かもしれない、とは思った。
雪が降り止むか、助けでも現れない限り、好転する兆しはないように思えた。今はまだ大丈夫でも、気温は刻々と下がり続け、明け方にはマイナス10度を下回るだろう。
耳たぶや鼻が赤みがかり、氷のように冷たかった手足の指は今、ひりひりとした痛みを伴っている。やがて痛みは消え、感覚すらなくなるはずだ。
が知る限り、プロシュートは完璧な男だった。そのスタンド能力もさることながら、状況判断や洞察力にも長け、知識量も多く、後輩に対する面倒見も良い。「男」としての彼をは知らないが、おそらく女性に対する扱いもスマートなのだろう。おおよそ欠点は見当たらない。そんな男を今、自分のミスのせいで命の危険にさらしている。それなのに彼はを責めず、むしろ気遣ってくれている。
「道、間違えてごめんね」
彼は目をしばたいて腕の中の女を見下ろした。
「まーだ起きてんのかよ」
「寒すぎて眠れない。眠いんだけどね」
「子守唄は歌ってやれねえぞ」
はくすっと笑った。
プロシュートもふっと息をもらし、口元をほころばせる。やがて真顔に戻り、声をささやくほどに低くした。
「タバコ、吸っていいか」
がうなずくと、彼は取り出したパッケージからタバコを一本抜き取り、吸い口を軽く噛んだ。ガスライターに火を灯すと、そこだけがぱっと浮かび上がる。
首をひねってその様子を仰ぎ見ていただが、ちょっと身体を離して言った。
「私もちょうだい」
プロシュートが伏し目がちに見つめる。指で挟んだタバコを口元から離し、ふうーと煙を吐き出した。
「身体に悪いぜ?」
「それ、プロシュートが言うの?」
「そんなに吸いてえのかよ」
「あなたが美味しそうに吸うから」
プロシュートはしばらく黙っていたが、「いいぜ」と短く言うとタバコを口端に咥え、指でつまむように持ち替えてから吸い口をの口元へと寄せた。え、それなの?と彼女は思ったが、素直に口を開いて咥えようとする。が、あと少し、というところで手が退かれ、代わりにプロシュートの顔が近づいてきた。
ごくあっさりとしたキスだった。
彼の手から立ち昇る煙は天井で行き場を失くしている。
二人は無言で見詰め合っていたが、互いが互いの口元に視線を落とし、引き寄せられるように唇を重ねた。相手の反応を探るように舌を出し合って、それがしっくりくると次第に動きが激しさを増す。絡み合った部分は溶けるほどに熱いのに、唾液が渇くと急速に冷える。時々寒さで歯が当たった。
何をしてるんだろう、と思わないでもなかった。これは自分のポリシーに反する行為だと頭ではわかるのに、止める気にはなれない。
はもう理解していた。
自分はタバコが吸いたかったんじゃない。タバコを咥えていた唇の方に触れてみたかったのだと。
プロシュートとのキスはの背中に寒気ではない鳥肌を立たせた。
仲間としての彼を、は尊敬に足る人物だと感じていた。そしてこの数時間のやり取りを経た今、彼の魅力はますます増し、ちょっと抗いがたいほどになっている。
薄闇の中、彼の手で灰だけが伸びていく。がそれを目の端でとらえたとき、後方で何かがぴかっと光った。
二人は同時にそちらを向いた。結露したリアガラスが雪で白く縁どられている。が曇りを拭きとっている間、プロシュートは急いで吸いさしを灰皿に捻じ込んだ。
遠目に光り、また消える。それが徐々に近づいてくる。木立で切れ切れになった車のヘッドライトだった。
プロシュートは車内灯をつけ、運転席に身を乗り出すとクラクションを連打した。
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