プラセボじゃない01



 は助手席で眠るプロシュートの肩を軽くゆさぶった。

「起きて、プロシュート。ちょっとよくない知らせがあるの」

 リクライニングを限界まで倒し、長い両足をダッシュボードの上に乗せて眠っていたプロシュートが顔を覆う雑誌をずらす。まだ眠気の冷めやらぬ顔で、すこぶる機嫌が悪そうだった。

「……なんだよ、もう着いたのかよ」
「ううん、まだよ」
「次の交代まで起こすなっつっただろうがよォ」
「エンジンが止まったの」

 しばらく沈黙があった。

「止まった……?止めた、じゃあなくてか」
「止まったの。故障よ」

 プロシュートが両足を下ろし、シートを戻しつつ上体を起こす。彼は無言で辺りを見回した。
 外は静まり返っていた。明かりもなく、活動の気配もない。対向車もなければ後続車もおらず、ただ真っ暗な闇だけが広がっていた。

「エンジン、かからねェのか」
「うんともすんとも」

 はクラッチを踏み込み、キーを差し込んで回してみせるが微動だにしない。
 それを何度か繰り返すとプロシュートが「もういい」と片腕を上げた。

「順序立てて説明しろ。まず、止まったときの状況は?」言いながら携帯電話を取り出すが、彼はそこに圏外の文字を見つける。顔をしかめて「ここはどの辺りだ」と続けた。

「運転してたら突然へんな音がして、減速し始めたから路肩に寄せたの。そしたらかかんなくなっちゃって。ガソリンはまだ充分あるのに。ここがどの辺りかはわからないけど、一時間くらいは走ったわ」

 が腰をひねり、後部座席に投げていた地図に手を伸ばす。
 室内灯のおかげで明るいが、エアコンの消えた車内は徐々に室温が下がり始めていた。

「一時間か。いや、待てよ、帰りは45号線を通る予定だったよな?ここはどう見ても高速じゃあねーよなァ」

 プロシュートが改めて窓外に目をやった。そこは周囲を杉林で覆われた狭い山道で、反射板の弱い光だけが車道に沿って伸びている。
 は言いづらそうに口を開いた。

「そうなの……道を間違えたみたい」
「高速までは一本道だっただろうがッどこでどう間違えんだ」
「ごめん!でもさ、私最初に言ったよね?方向音痴だって、それでもいいって言ったのプロシュートだよね?」
「運転は新人の役目だろーが。しかしよォ、間違えるか?この道をよォー」

 彼は眉間にしわを寄せ、咥えタバコに火をつける。コンソールボックスの上に地図を広げ、出発地点からハイウェイまでの道のりを長い指でたどった。

「ん?ここに脇道があるぜ?ここに入ったのか」
「どうだろ……暗かったから、正直よくわからないのよ」
「他に枝道はねえ、間違えるとしたらここだ。オメーさっき、一時間近く走ったって言ったよな?何キロくらい出してた」
「えっと、60キロくらいかな」
「つーことはよォ、だいたいだが、今この辺りか」

 目測でアタリをつけ、プロシュートが指で弾く。細い脇道は本道からもその先のハイウェイからも遠ざかり、山の尾根に向かってカーブしながら突き進んでいる。周囲は見渡す限りの杉林だが、小規模なコムーネ(自治体)が点在していることが地図上でわかった。
 このまま道なりに進めば人口千人程度の町があるようだが、距離の正確な予測は難しい。時速60キロで走ったとは言ったが、常に一定だった訳ではなく、誤差を考えると数キロから数十キロ程度の幅が出る。やみくもに歩ける距離ではなかった。
 地図を挟んで顔を突き合わせていた二人だが、すでに吐く息は白い。

「運良く車が通りがかるのを待つか、一か八かで歩いてみるか」

 プロシュートは吸いさしを灰皿でもみ消す。夜明けまで車中で過ごすという手もあるが、すでに外気と変わらない車内では凍死の危険性もある。助けを呼ぼうにも携帯電話は圏外だ。

「私が行って来るわ。プロシュートはここで待ってて」

 が改まった調子で言った。

「あ?オメー何言ってんだ」
「だって、疲れてるでしょ?もし民家があったら助けを呼んで来るわ。なかったら、適当なところで引き返して来るから」
「疲れてんのはオマエも一緒だろうが」
「そうだけど、道を間違えたのは私だし」
「そうだな。信じられねえミスだ。だがよォ、それを言うならこの車を選んだのはオレだ。オレにも責任はあるぜ」
「それは、運が悪かっただけよ」

 が力なく言って地図に目を落とす。
 二人はつい数時間前、長期戦の任務を無事終えたばかりだった。ようやく帰路についたところで、順当に行けばネアポリスまでは四時間ほどの行程だった。
 彼らは任務の際によく盗難車を使う。足がつかないため、という最大の利点の他に、不用になれば乗り捨てられる手軽さもあるが、今回のような整備不良車に当たるリスクもまたあった。

「オレが行く」

 プロシュートが言った。後部座席に腕を伸ばしてコートとマフラーを引っ手繰る。すかさずが引き留めた。

「待って、私も」
「女のオメーがいるよりゃオレ一人の方が早ェだろうが」
「そんなことないわ、私体力には自信があるの」
「誰か一人残った方がいいんだよ、車が通りがかったら助けを求められるしな」
「車なんて来ないわよ、この一時間一台もすれ違わなかったんだから!」
「だったらなんでおかしいと思わねえんだッ、だいたいあの地図見りゃあ高速まで一時間もかからねえってわかんだろうがッ!」

 は打ちひしがれたような顔で黙り込んだ。窓ガラスが二人が吐く息のせいで曇っている。プロシュートは片目を細め、小さく息をつくと声の調子を変えて言った。

「とにかく、行くのはオレだッ。オメーはここであったかくして待ってろ」

 後部座席から彼女のダウンコートを取ると、に向かって放り投げ、プロシュートは室内灯を消した。バッテリーが上がってしまうからだ。

「もしも車が通りがかったらルームライトをつけろ。で、クラクションを鳴らしまくれ。気づかせるんだ。いいな?」
「わかった」

 がそう返すと、彼は暗闇の中で微笑んだ。不意打ちの笑みだった。
 プロシュートはコートを羽織り、マフラーを手に助手席のドアを開ける。すでに外気温と変わらないほど冷え切っていた車内だが、微かな葉ずれと共に入り込んだ微風が体感温度を更に下げた。

「ちょっと待ってッ」
「……今度はなんだよ」

 プロシュートは呆れ顔で振り返ろうとするが、引き留められた理由を理解する。星一つない空からはらはらと雪が舞い落ちていた。




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