※軽い性描写あり

プラセボじゃない03



 温かいスープとパン、それに一杯のワイン。たったそれだけの簡素なディナーには心から感謝した。
 向かい合うプロシュートもそれは同様のようで、深夜にも関わらず食事を手配してくれたスタッフに感謝の意を伝え、やや多すぎるチップを手渡していた。

 二人は今、山間にある小さな町のユースホテルにいる。あわや遭難、というところだったが偶然通りがかった車に救助され、最寄りの町まで同乗させてもらった。
 メイン・ストリートにいくつか建物が並んだだけの小さな町だが、近くに観光名所があるらしく宿泊施設は何件かあった。最初に目についたホテルに飛び込んで今に至る。
 ちなみに二人が立往生していた道は現在ほぼ使われていない旧道で、車が通りがかったのは本当にラッキーだったのだと知り、今更ながら肝を冷やした。

 ロビーから客室へと続く廊下の脇にある、一段低くなったカフェスペースで食事を取り、人心地つきながらホットワインを味わっている。
 オイルヒーターのじんわりとした暖かさ、座り心地の良い布張りチェア、素朴で温かいスープ、そういったディテールの全てに満ち足りた幸せを感じた。

「はぁー幸せ」

 ほんのりシナモンの効いたホットワインを飲みながら、はしみじみと言った。
 冷え切った手足には血が通い、低体温になりかけていた身体はぽかぽかと温まっている。
 プロシュートが薄く笑い、取っ手のついたワイングラスをテーブルに置いた。

「……なに?おかしい?」
「いや、マジに幸せそうツラだと思ってよ」
「幸せよ、寒くはないしお腹はいっぱい……って程ではないけどまあまあ満たされたし」
「この手のホテルは本来夕食はねえんだ。好意で出してくれたもんに文句は垂れんなよ」
「わかってる。まったく不満はないわ」

 言いながら、はプロシュートの横顔をちらっと見た。
 彼はチェアにもたれ掛かり、長い足を形良く組んで、手はテーブルに置いた鍵を弄んでいる。タバコを吸わない彼はどこか手持無沙汰に見えた。

 この国は基本的に喫煙者に優しく歩きタバコには寛容だが、公共の場はたいてい禁煙で灰皿すらない。彼はそういったルールを遵守するところがあるし、礼儀はわきまえている。
 どこにいても人目を惹くほどの美形だが、眼光は鋭く、隙のない所作やその身にまとわりつく冷酷さは裏社会で生きる人間の特徴だ。しかし彼の場合、それすらも魅力につながっているように思えた。

 指でくるくるとまわしていた鍵をぎゅっと握ると、プロシュートはに視線を向けた。

「何見てんだよ、オレの顔になんかついてるか」

 薄く開いた口元に白い歯列が覗いている。は唐突に、車中での蕩けるようなキスを思い出して胸がうずくのを感じた。
 彼女はややためらったのちにその疑問を口にする。

「ねえ、さっきはどうしてキスしたの」
「あ?理由なんてねえよ。したかったからだろ」
「……プロシュート、吊り橋理論って聞いたことある?」

 の言わんとするところを理解して、彼は不機嫌そうに顔を歪めた。

「くだらねえこと言いやがって、興ざめだ」
「ここはちょっと冷静になった方がいいと思うのよ、お互い」
「オレはいたって冷静だぜ。だいたいよォ、オメーだって嫌がってなかったじゃあねーか。けっこうエロい顔してたぜ?」
「だって、すごく良かったから」

 一瞬、沈黙があって、「そうかよ」とプロシュートが言った。予想外に直球の返しをされてちょっと反応に困った、といった調子だった。
 彼はこめかみを指で掻いてから、目線をの手元のグラスに移す。

「もう一杯もらうか?」
「ううん、もういい」
「なら、行くぞ」

 プロシュートが立ち上がる。その手には部屋番号のタグがついた鍵が握られている。

 深夜に飛び込んできた男女の客を見て、それがカップルだと思うのはごく普通のことで、フロントのスタッフが一部屋分の鍵を差し出したのは当然と言えば当然だ。
 ただ、プロシュートがそれを黙って受け取ったのは意外だった。はてっきり二部屋取るものだと考えていたのだ。彼女は口を挟もうとしたが、彼の背中には異論を許さない雰囲気があって、は結局黙っていた。

 宿泊を伴う任務というのは実はよくある。暗殺チームの任務はイタリア全土に渡り、日帰りできない場所の方が多い。ホテルであれば基本的には一人一部屋取るが、場合によっては同室することも車中泊もある。
 だが今回のような(部屋に空きがあり、カップルを装う必要もない)場合は二部屋取るのが常だ。つまり、プロシュートは意図的に同室にした。その意味がわからないほどは子供ではないし、むしろ胸は高鳴っているが、同時に戸惑いもあった。

 彼女は以前、何かの雑誌で読んだことがあった。人は不安や恐怖を強く感じている時に異性と出会うと、その相手に恋愛感情を抱きやすくなる、というのが吊り橋理論だ。
 遭難するかもしれないという恐怖が、たまたま隣に居合わせたプロシュートに対して恋心に似た感情を抱かせたのかもしれない。
 は今、確実に彼に惹かれ始めているし、もっと彼のことを知りたいとも思う。
 ──でも、
 この気持ちは勘違いなんじゃあないのか。
 このまま彼と寝てしまってもいいのか。
 目先の危機は去り、空腹も満たされた今だからこそ、冷静に考えてしまう。

 二人はクラシカルな絨毯が敷かれた廊下を通り、目的の部屋へと到着した。
 普通のツインルームだが、よくある格安ユースホテルのようなパイプベッドが置かれただけの粗末な部屋ではなく、厚みのあるマットレスのベッドとテーブルセットもあり、内装もモダンで素泊まりするには充分だった。

「なんか飲むか?水か、コーラか、ジュースくらいしかねえが」
「じゃあ、水」

 はダウンコートをハンガーにかけ、ベッドに無造作に投げられたプロシュートのコートも同様にかける。すっかり借りたままになっていたカシミアのマフラーを取り上げ、彼女は鼻先をうずめた。

「ほらよ」

 振り返った瞬間、良く冷えた瓶が頬に押し付けられる。冷たい!と抗議するとプロシュートは片側の口角を上げて意地悪く笑った。その口にはすでにタバコが咥えられ、美味しそうに煙をふかしている。

 彼は首元のスカーフを解き、ジャケットも脱ぐとホテルによくあるタイプのラウンジチェアに座り、テーブルの上の灰皿を引き寄せた。
 時刻は深夜で、そろそろ日付が変わる頃だった。

 がリモコンでテレビをつけるとぱっと風景が映し出された。
 透明度の高い海、斜面に貼りつく様に建つカラフルな街並み、カメラワークは上空を滑るように動いている。場面が変わり、今度は密集したメルカートが映った。少女が一人、人の流れに逆行して走り抜けていく。その顔がアップになると、は無意識に映画のタイトルを口にした。
 それは古いギャング映画だった。名作と呼ばれる部類のもので、主題は抗争ではなく一人の男と少女の交流を描いたものだった。

「こりゃ、リメイクの方だな」
「うん、そうよね。私こっちも好きよ。こんな時間にやってるんだね」

 は言いながらベッドの端に腰かけ、手にした水に口をつける。
 二人はしばらく無言で流れる映像を眺めていたが、二本めのタバコを吸い終えたプロシュートが立ち上がった。

 ベッドのマットレスが沈むのを、は画面に目を向けたまま感じた。
 隣に腰かけたプロシュートは、なんでもないような調子で彼女の肩を抱く。

 とても平常心ではいられなかった。テレビ画面は不穏なシーンに移り、銃撃戦が始まるが、の意識は今、密着した右半身と肩を抱く引き締まった腕にあった。その手が髪へと移り、毛先を無造作に弄ぶ。

「演出がわざとらしいよな、銃ってのはもっと地味に殺す武器だ。あんなふうに派手に血が飛び散ることもねえし、後ろに吹っ飛ぶこともねえ」
「それはさ、やっぱりエンターテイメントだから」
「この配役もイマイチだ。アルフレッドの役はやっぱダニエル・サルヴァドーリの方がいいぜ」
「あ、それわかる!」

 が顔を向けると顎をぐっとつかまれた。

「な、なに」
「ようやく目が合ったな。さっきからよォ、視線を合わせねえようにしてただろうが」
「そんなこと」
「ほら、まただ。目ぇ逸らすな。オレを見ろ

 プロシュートは凄んでいたわけではないが、決して逃がさない鋭さがあった。
 あれこれごちゃごちゃと考えたところで結局は一瞬の眼差しに勝てない。
 プロシュートの冷ややかな、それでいて隠しきれない情欲を宿す瞳はの神経を昂らせ、遅れて効いてきた酔いのように全身にまわっていく。

 彼はの手から水の瓶を奪い取り、軽く腰を浮かせてテーブルに置いた。再び彼女の顎を取ろうとする手をはやんわりと遮って、小さな声で言う。

「……プロシュートは、私が好きなの?」
「興味がある。もっと知りてえとも思う。それじゃあダメか?」

 はやや掠れた声で言った。

「ダメ、じゃない」

 彼女は改めてプロシュートに向き直ると、彼の頬を両手で包み、顎を上げてキスをした。
 柔らかな粘膜が離れた瞬間、今度はプロシュートが彼女の後頭部をつかんで深く口づける。
 彼の舌使いはとても巧みで、の動きや呼吸に合わせてうまく誘導していく。ただ舌を重ねるだけでも性的な興奮があって、軽く舌を吸われると肌の表面に甘いしびれが走り、感じやすい上顎を尖った舌先でなぞられたときは思わず声が漏れた。
 キスがこれほどの快感を生むことをは知らなかった。身体の奥深いところがぐずぐずに溶かされていくようだった。

 二人は口づけの合間に互いの服を脱がせ合う。
 がプロシュートのシャツのボタンを外し、プロシュートは彼女のニットを取り払った。

 ほんのり上気したの上半身を片腕で抱き寄せ、首筋に顔をうずめる。彼はキスを落とすでも舌を這わすでもなく、肌の表面に鼻先をつけてすんすんと鳴らした。はぎょっとして身をよじるが、がっちりホールドされているので逃げられない。

「ちょっと、やめてよ」
、オメー良い匂いしてるよなァ。車ん中でも思ったけどよ」
「香水なんてつけてないわ」
「いや、そういう人工的なモンじゃあねえ。もっとこう、肌そのものの匂いだ」
「く……臭いの?」
「別に臭かねえよ。まァ、たとえ汗臭かったとしてもオレは一向に構わねェけどな」

 今度は舌をつかって白い喉から顎先までを舐め上げる。はぶわっと産毛が立ち上がるのを感じた。

「知ってるか?。良い匂いだって感じる相手ってのは遺伝子レベルで惹かれ合う相手らしいぜ」
「え……そうなの?その話詳しく聞きたい」
「おう、急に食いついてきたな」
「それってお互いそうなの?お互いが……んっ、良い匂いだって感じるの?」
「オレも詳しくは知らねえ、メローネの野郎の受け売りだ」
「そうなんだ。実を言うとさ、てちょっと待ってってば、まだ喋って、んんっ」

 プロシュートはまだ何か言いかけたの唇をふさぎ、二人はもつれるようにしてベッドに倒れ込んだ。



text top