※流血描写あり

世界は色であふれている03



 ディナーは大変なご馳走だった。
 メインは仔牛のカツレツで、この街の名物料理だった。裏越しトマトのソースがまた絶品で、副菜も全てが美味しかった。
 二十一時を過ぎ、は母親とお休みのハグを交わしてリビングを去る。
 オルガはショットグラスとドライフルーツが入った小皿をダイニングのローテーブルに置き、飾り棚からボトルを取り出した。

「あの子、可愛いでしょう?」

 思い出し笑いでもするようにふふ、と笑う。オルガの切れ長の瞳はを前にするといつも眠っているように細まる。

「あんまり似てねえな」
「あら、それはどういう意味かしら」
「他意はねえ。おまえもイイ女だぜオルガ」
「グラッツェ。でも、確かに似てはいないわ。特に目はね」

 ヴェネツィアンガラスのショットグラスはパッと目を引く鮮やかな朱色で、ステム(脚)は上品なゴールドだった。そこにディジェスティーボ(食後酒)が注がれる。オルガはそれをプロシュートの前に置いた。

 プロシュートはグラスに目を落とし、それから流れるような動作で視線をオルガに転じた。

「これは何の酒だ」
「レモンのリキュールよ」

 会話は淀みなく続いた。喋っているのはほとんどオルガで、話題は彼女の職場の個性的な上司のことや、最近別れたボーイフレンドのことなどで取り留めもない。饒舌な彼女はプロシュートの瞳に暗い光が宿ったことには気づかなかった。

 プロシュートは考えていた。オルガの行動の意味を。しかし考えるにも判断材料が少なすぎて結論は出ない。埒が明かないとばかりに目の前のグラスを手にすると、オルガがほとんどわからない程度に身を硬くした。

「理由はなんだ」
「え?」
「オレを殺る理由はなんだって聞いてんだ。私怨か?ビジネスか?」

 プロシュートは感情の読み取れない単調な声で言った。オルガは目を見開き、瞳を忙しなく動かす。

「どうして……?」
「毒を盛るならもっと上手くやれ。このグラス、こんな色がついたヤツはダメだ。中が見えねェのは何か入れてるって勘ぐらせる。それに動揺が隠せてねえ。グラスを置くときの手つきはまあまあだったぜ。震えてもいねえし自然だった。だがその後がなっちゃあいねえ。チラチラ何度も見やがって、バレバレなんだよ」

 長い沈黙が続いた。グラスを傾ける男の横顔からは尋常ならぬ圧力があり、オルガは微動だにできないでいた。そして理解する。これが本物の、日常的に人を殺す人間の放つ威圧感なのだと。

「理由は、これよ」

 喘ぐように息をして、オルガはワンレングスの片側を耳にかけた。丸いリングのピアスが光る。そこに刻まれた文字をプロシュートが凝視したほんの一瞬、彼女は動いた。
 テーブルにあったリキュールボトルを力任せに投げつける。プロシュートがそれを肘で受け流すわずかな間、転がり落ちるようにソファから離れ、観葉植物の植え込みに隠していた銃を取り膝立ちで構える。が、引き金を引くと同時に蹴り飛ばされ、銃は空中で発砲し、被弾音が響いた。
 オルガはすぐさま距離を取り、ダイニングテーブルの脇に転がり落ちた銃めがけて突進する。グリップを握った刹那、彼女の手首を別の手が捻り上げた。

 オルガはタイルの床にうつ伏せで押し付けられ、背中を膝で圧迫されつつ手首をぎりぎりと捻られている。うめき声を上げ、彼女の手から小ぶりな拳銃がこぼれ落ちた。それをプロシュートが拾い上げる。

 圧迫が解かれると同時にオルガは仰向けになり、肘で上半身を支えつつ後ずさりする。差し迫った危機の中、彼女はを想っていた。
「今夜は何があってもベッドから出ないで」と眠る前のハグでささやいている。お利口に言いつけを守るなら部屋を出ることはないはずだが、それでも祈った。どうか来ないで、と。

 プロシュートは銃口を向けたまま距離を詰める。片膝をつき、オルガの髪をすくい上げた。耳たぶのピアスを今一度改める。そこには”M、B、S”の文字があった。

「……あいつらの仲間か。だが、腑に落ちねえ。オレを殺る気ならオメーにはいくらでもそのチャンスがあったハズだ。なんだってこんな回りくどいマネをする」

 額に銃口を押し付けながら問う。

「だから、言ったでしょう」

 オルガはつぶやいた。「あなたは、あの子にお礼を言うべきだって」

 言葉の意味を考える。そしてプロシュートは気づいた。朦朧とした意識の中で、忙しなく立ち働く少女の姿。目覚めたとき記憶にあったのはの姿だけだった。彼の世話を焼いていたのは少女で、オルガの姿はそこにはなかった。

 少女は母親に殺意の色を見た。そして、そうはさせまいとプロシュートの傍から離れず、オルガは手が出せなかった。いや、例えその状況でも殺る気になればいくらでもできる。だが、少なくとも抑止力にはなった。娘の前で醜い殺意を露わにできる母親などそうはいない。

「最初は、わからなかったの。ただの怪我したギャングだって思ったわ。だけど、仲間からダリオが暗殺されたって聞いて、確信したわ」

 プロシュートは黙っていた。その名に聞き覚えはないが、十中八九、彼が手を下した内の一人だろう。
 オルガの口元がふいに柔らかくゆるむ。

「勝手を言うようだけど、あなたにお願いがあるの」
「ハッ、また「お願い」か」
「あの子を連れて逃げて欲しいの」
「そりゃあどういう意味だ」
「もう気づいているんでしょう?あの子が私の娘じゃあないってことを」

 まるで告解でもするような口調だった。プロシュートには感情の色は見えないが、目の前の女から攻撃性が消えたのは感じ取った。そんなもの初めからなかったとでも言うように。
 彼は立ち上がり、オルガの銃をテーブルに置く。「確証があったワケじゃあねえ」と静かにこたえた。

 初めは些細な引っ掛かりだった。テレビ画面から流れる一眼レフカメラのCMを観たときだった。
 のちに気づく。おそらくどの家庭にも―特に幼い子供のいる家庭なら―ごく当たり前にあるだろうものがこの家にはなかった。ポートレート、写真だ。
 イタリア人は家族愛が強い。写真立て一つない家庭はごくわずかだろう。

「あの子はダリオが連れて来たの。役に立つだろうって。このままここにいたらあの子の一生はめちゃくちゃよ。だから……お願い」
「オメー何か勘違いしてねえか?オレをそこいらの気の良い兄チャンだとでも思ってんのか」
「別に育ててとは言ってないわ。どこか、孤児院にでも」

 突如、視界が暗転した。
 荒々しい靴音、耳をつんざくような銃声の嵐、方々で爆ぜる被弾音、それが暗視に慣れるまでの数秒間で怒涛のごとく押し寄せた。
 やがて照明が灯り、むせかえるような硝煙だけを残して静寂が訪れる。室内は音が響く前よりもより静けさを増し、濃厚な沈黙が続いた。

「殺ったか」

 男の一人が言った。それを口火に次々と口を開く。

「あれだけ撃ったんだ。生きてるワケがねえ」
「油断するな。ヤツはスタンド使いだ」
「オルガも殺っちまったのか」
「聞いただろ?あいつは裏切った、男の存在だって隠してた。裏切りモンだ」

 プロシュートとオルガはダイニングテーブルの脇で折り重なるように倒れていた。男たちは慎重過ぎるほどの歩みで二人へと近づく。
 じわじわと広がる血だまりは範囲を広げ、オレンジ色のタイルを深紅に染め上げる。男の一人が靴先でオルガの腹を持ち上げ、ごろりと転がした。

「死んでるぜ」

 男は次にプロシュートを覗きこむが、音もなく伸びた腕に足首をつかまれる。声を上げる暇もなく男の全身から若さが吸い取られ、あっと言う間に朽ち果てた。
 そのあまりに静かな死を前に、男たちの反撃が遅れた。

 プロシュートは即座に半身を起こし、死んだ男から奪った銃を発砲する。手前の二人は命中、一人はかすった。
 背後に控えていた二人が急いで応戦する。プロシュートはテーブルのオルガの銃を引っ手繰ると横に飛び、二方向からの射撃を避けつつ滑り込んだ冷蔵庫の影から迎え撃つ。横っ面をかすった弾が背後の壁に着弾し、頬から一筋血が垂れた。

 銃撃を続けながら敵の位置を確認する。死体は三つ、ふくらはぎから血を流し、のたうち回っているのが一人。残りはソファの影と、間仕切りカーテンに潜んで一人。位置は弾道から予測できた。
 時折けん制の一発が飛び交う以外に動きはなく、膠着状態となった。敵も捨て弾は極力避けたいはずだ。プロシュートの銃はすでに弾切れで、オルガの銃に持ち替える。もちろん予備のマガジンなどはない。
 プロシュートはタイミングを待っていた。敵の狙撃が徐々に狙いを外し、正確性を欠くその瞬間を。悲痛な声を上げ、のたうち回っていた男はすでに動かない。あの男は誰よりも身体が”温まって”いた。予想通り、敵の射撃がぶれはじめる。頃合いだ、と判断した彼は威嚇射撃をしながらカーテンに向かって突進した。

 間仕切りカーテンにひそんでいた男が度肝を抜かれた様子で尻もちをつく。反応が致命的に遅い。男は咄嗟に銃口を向けるが、プロシュートが間髪入れずに回し蹴りを食らわし、骨が砕ける音がした。
 たった今倒した敵には目もくれずに走り抜け、キャビネットの影に身を隠す。バン、バン、バン、と彼の後を追ってソファ方向から弾丸が飛ぶ。最後の一発はプロシュートの真横のキャビネットに着弾し、ガラス片を派手に飛び散らせたが、反応は明らかに鈍く、狙いもぶれていた。

 最後の一人は面白いくらいによく撃った。己の身を徐々に蝕む正体不明の攻撃にうろたえ、焦り、恐怖から撃ちまくっているのだ。プロシュートが一発撃つごとに何発も返してくる。やがて銃声は止み、プロシュートが姿を現しても反撃はなかった。替えのマガジンもついに尽きたようだ。

 ソファに隠れていた男が慌てて四つん這いで逃げる。背骨は曲がり、歯も数本抜け、白髪交じりの頭髪も半分以上が抜け落ちている。この男は放っておいてもいずれ朽ち果てるが、プロシュートは今、眼前の敵におだやかな死を与えてやれる心境では到底なかった。
 男の首根っこをつかみ、ローテーブルの角に叩きつける。男はくぐもった声を上げたが、二度、三度と殴打するとぐったりと動かなくなった。

 カーテンの傍で気絶したままだった男もついに絶命して、プロシュートはスタンドを解除する。闖入者は全て死に絶えた。

 彼はキッチンに引き戻し、横たわったままのオルガを抱き上げる。
 彼女の背中には無数の弾痕があり、今プロシュートがこうして生きて動いているのは彼女のおかげだった。視界が暗転した瞬間覆いかぶさるように押し倒され、後は結果の通りだった。

「クソッ………なんでだよッ」

 血のりがべったりとついたオルガの身体はまだ温かく、弾力を保っている。彼のスタンドは死者には影響を及ぼさない。オルガの姿は生前と変わらず若々しさを残したままだが、しかし瞳からは生気が消え、脈動もない。

 彼はオルガを掻き抱くと長い時間そうしていた。プロシュートにとって「死」は身近なものであり、それ自体に心動かされることはもう久しくなかった。しかし今、彼の内面には小さなさざ波が立っていた。

 プロシュートはオルガの背に手を添えてそっと床に下すと、静かに立ち上がり、取り出したタバコを一本抜き取った。
 手のひらで握りこむように咥え、火をつける。煙を深く吸い込んで、それから長い溜息のように吐き出した。





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