世界は色であふれている02



 目覚めた翌日には末端の痺れも消え、まだ少しの微熱は残るもののほぼ本調子と言って良かった。

「兄のだけど」とオルガが差し出したのは男物の衣服で、シンプルなシャツとテーパードのボトムスだった。ボトムスは若干丈が短く長身のプロシュートにはアンクル丈になったが、裾幅をしぼったすっきりしたデザインでスタイルの良い彼には良く似合っていた。
 缶詰工場で働いていた兄が亡くなったのは二年前で、業務中の不慮の事故だったのだとオルガは言葉少なに説明した。

 彼女たちの住まいは確かに母子二人にしては広く、二階には寝室が二部屋と、一階には広めのLDKがあった。LDKはオレンジのタイルが敷き詰められたキッチンスペースと絨毯敷きのダイニングがカーテンで仕切られている。
 リビングの窓からは狭い通りと向かいの建物が見えた。その背後でそびえ建つデコレーションケーキのような建造物はこの街のシンボルでもあるドゥオモ(大聖堂)だ。

「もう行くの?」

 朝食を終えたあと、オルガは食器を片づけながら問いかけてきた。

「ああ、調子は戻った。傷もじきにふさがる。感謝しているぜ」

 プロシュートは取り出した財布から札を全て抜き取り、四百万リラほどをオルガに渡した。彼女が目を剥いてそれを断る。

「そんなのもらえないわ。それに、お金が欲しくてやったことじゃあないし」
「あって困るモンでもねーだろ」
「そうだけど、本当にいらないわ」
「じゃあ目的は何だ、「汝の隣人を愛せよ」とかクソみてェな理由か?」

 プロシュートの口調に鋭さが混ざったことをオルガは察した。
 彼女はしばらくの間、強い眼差しを真正面から受け止めていたが、ふっと視線を逸らして肩をすくめる。降参した、とでも言いたげな仕草だった。
 彼女は身を翻し、オーク材のキャビネットの引き出しから何かを取り出すと再び彼の前に立つ。

「これ、知ってる?」

 眼前に突きつけられたものを見て、プロシュートはわずかに眉を動かした。その些細な動揺は、オルガの推測を裏づけるのに充分だった。
 彼女の手には小さなバッヂが握られていた。

「これはね、パッショーネっていうギャング組織のバッヂなの。あなたも知っているみたいね」
「なんでそれをテメーが持ってる。まさか」
「ううん、それは違うわ。これは私の兄さんのものだったの」
「オイ、オメーの兄貴は缶詰工場で働いてたんじゃあなかったのかよ」
「働いてたわ。ギャングになる前まではね」
「不慮の事故……っつーのもウソか」
「抗争に巻き込まれたの。業務中の不慮の事故……間違ってはいないでしょう?」

 ストライプ柄の布張りソファからが顔を出し、二人のやり取りをじっと見ている。プロシュートはダイニングテーブルに手をつき、声をひそませた。

「確かに、間違っちゃあいねえな」
「プロシュート、あなた南部の人でしょう?あっちでギャングと言えばパッショーネだわ」
「まさか、それだけか?死んだ兄貴と同じ組織ってだけで親近感を持っちまったって言うのか」
「別に、理解してもらおうだなんて思っていないわ」

 オルガは半ば目をつぶって口元だけで微笑んだ。

「ねえ、お金は本当にいらないんだけど、もし感謝してるって言うのなら、私のお願いを聞いてくれない?」

 彼女のお願いはごく控えめなもので、出立を明日にして今夜は一緒に食事をしましょう、というものだった。プロシュートは無言で立ち去るほど不義理な男ではなく、耳を欹てていたも賛成したので受け入れた。

 オルガは午前十時から午後七時まで自宅近くのセレクトショップで勤務していた。は学校に通っている様子はなく、その理由を彼も特に訊ねはしなかった。

「プロシュートって南の人なの?」
「ああ」
「南部の人ってみんなそんなに素敵なの?」
「あ?」
「あなた、とってもベッロよ」

 プロシュートが吹き出した。はなぜ笑われたのかわからない、という様子で頬を膨らませる。これまで賛辞の類は浴びるように受けてきた伊達男だが、調子が狂って口元を手で覆った。それからの頭をぽんぽんと叩く。

「オレを口説くのは十年早ェぞ、バンビーナ」

 流し見していたテレビ画面がコマーシャルに移る。やたらと露出度の高いボディソープのCM、ビールメーカーのCM、一眼レフカメラのCMと続く。画面には仲睦まじい家族の姿が映し出され、プロシュートは何か引っ掛かりを覚えた。が、その正体は結局わからず目線を落とした。

 午後になると、が身支度を整え始めた。出かけるらしく、プロシュートは玄関先で手を振るつもりでいたが、は彼のシャツを引っ張って離さない。取り出した紙のリストを見せつけた。

 仔牛肉、サラミ、チーズ、トマト、セロリ、いんげん、ニンジン、そこまで目で追ってプロシュートが顔を上げる。がにっこり笑った。

「今夜はマンマがごちそうを作ってくれるの」

 二人は買い出しのためにマーケットに向かった。は途中あった高級食材店には目もくれず、豪華絢爛なガッレリアも通り過ぎ、着いたのは庶民的なチェーン店だった。
 目的の品を全て購入し、プロシュートはついでにキャッシュディスペンサーで出金もした。
 彼にはなにかと拘りがあり、服にしても日用品にしても質重視でよく吟味するタイプだが、本来物欲は強くはなく、口座にはすぐには使いきれない残高があった。
 暗殺という任務で得られる報酬は会社員の月収に比べればはるかに高額だ。ただし、内容に見合った額かというとまた別で、彼ら自身も冷遇されていると感じていた。

 二人は来た道を戻った。道々に高級ブランドショップが軒を連ね、着飾った観光客たちが楽し気に行き交う。
 プロシュートは大きな紙袋を片腕に抱え、咥えタバコで久方ぶりの深い喫味を味わいながら、に合わせた歩調で歩いていた。
 後ろで一纏めにされた髪は無造作で、全て借り物のシンプルな服装ではあるが、彼は人目を引いていた。

「今の人、プロシュートに関心があるみたい」

 がすれ違った女を振り返って言う。あ、あの人も、と楽しそうに付け足す。プロシュートは細く煙を吐き出してから言った。

「それはどんな色なんだ」
「うーんと、宝石みたいな色」
「宝石っつってもよォ、色々あんだろ」

 そこでの目が止まる。その先にはジェラテリアがあった。食いてェのか?と問えばすかさずうなずく。
 はチョコミントとココナッツを選び、零れ落ちそうなそれを舐めながら歩いた。プロシュートは短くなったタバコを路上に設置された灰皿に放り込む。彼は試しに訊いてみた。

「なァ、周りに攻撃的な色をしたヤツはいるか?」
「いないよ」

 即答したことに驚きつつ、プロシュートは続ける。

「もう一度よーく見ろ。待てッ、動かしてイイのは目ん玉だけだ。振り返るときは何かを落としたフリをしろ」

 プロシュートの指示をは忠実に守った。そして意外なことを口走った。

「やっぱりいないよ。そういうのは、いつも見てるから」
「……いつも?」
「うん」

 何かを言いかけたが、言葉にはならずプロシュートは歩き続ける。
 家を出てから今の今まで、彼が気を緩めることはなかった。それは息を吸うように身に着いた彼のクセだった。

 ここはまだ敵地のただ中と言える。
 先日プロシュートが殺ったのはターゲットと居合わせた部下のみで、敵組織にはまだ大多数が残っている。しかし彼の任務はあくまで暗殺で、組織を一つ瓦解させるならば別動隊が動く。目撃者は残しておらず、彼の詳細情報が敵側に漏れる可能性は限りなく低いが、彼は常に危険側の考えをしていた。





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