私の愛したただ一人の男03



 そこは白く清潔な部屋だった。ブラインドの上がった大きな窓があって、窓辺に男性の姿があった。
 彼は窓台に浅く掛け、上半身をやや捻って外を見下ろしている。ただそれだけのことなのに、映画のワンシーンのようだと思った。
 窓の外には薄曇りの空と葉を茂らせた木立ちが見えた。

 私が身じろぎすると、男性は弾かれたように顔を向けた。ぞっとするほど美しい人で、目つきが異様に鋭かった。

「──ようやく起きたか。オメーがなかなか起きねえから待ちくたびれちまったぜ」

 ここじゃあタバコも吸えやしねえ、と男性がぼやく。言葉の響き以上に神妙な声だった。
 私は起き上がろうとして、違和感を覚える。呼吸器だろうか、鼻に管がついている。ベッドサイドのモニターには血圧や心拍数やその他のよくわからない数値がリアルタイムで表示されていた。

「動くな、今ドクターを呼んでやる」

 彼は窓台から足を下ろすと、枕元までやって来てナースコールを押した。「どうしました」と訊ねる声に、「意識が戻った」とだけ告げる。

「ここは……病室?」
「ああ。ケガは大したこたァねえ、ただちょっと頭を打って眠っていただけだ」
「頭を……」
「オメーは事故にあった。今はまだ意識が朦朧としてよくわからねえだろうが、何も心配はねえ」

 彼は見た目の鋭さに反して優し気な声で言った。
 ベッドサイドの椅子を引き寄せて座ると、やや前傾姿勢になって私を見つめる。

「……なァ、、オメーなんでオレに黙って部屋を出た。黙って帰っちまうつもりだったのかよ」
「え……?」
「勝手に見切りつけてんじゃあねえよ。オレたちにゃあ話し合う時間が必要だ。そうは思わねえか」

 何か込み入った会話が始まったと気づいて、私は静かに混乱した。

「ごめんなさい、ちょっと待って」

 片手を上げて話を遮ると、彼は目をしばたかせ、恥じ入るように顔を背けた。

「……そうだな、起き抜けにする会話じゃあねえな。悪かった。ちょっと焦り過ぎちまった」
「いえ、そうじゃあなくて、あなたは誰なの」

 医師、ではないのは明白だ。彼は淡い色のシャツに着崩したスーツ姿で、医療関係者には見えない。それに、彼の態度にはもっと近しい人間に接する親密さがあった。
 彼は呆気にとられたように言った。

「何言ってんだ、寝すぎてボケちまったか」
……それは私の名前なの?」
「おいおい、オレをからかってんのかァ」

 口調は落ち着いているけれど、その端正な顔に動揺が走った。そのとき廊下からナースが現れた。

さん、意識が戻ったのね。もうすぐドクターも来るわ」

 ベテランっぽい中年のナースが笑顔を見せる。何か考えるべきことがあるはずなのに、考えようとすると抵抗感があって頭の奥が痛む。晴れない霧が立ち込めているようで、言いようのない不安に襲われた。

 現れた壮年の男性医師にいくつか質問をされた。
 君の名前は?
 年齢は?
 職業は?
 出身地は?
 私はそのどれにも答えられなかった。

 医師は最後に「彼のことはわかるかい」とブロンドの男性を手で示した。私のことを「」と呼んで、親し気な目を向けてきたあの男性を。

「君のお兄さんだよ」
「えっ?」

 私は改めて彼を見た。ただその場にいるだけで威圧感があるのは、彼がまとう空気のせいだろうか。ぱっと目を引く美貌なのに、好青年といった印象はない。むしろ真逆の、危険な匂いがする男だった。
 それでも怖いとは感じなかった。窓辺に佇んでいたとき、目覚めた私に気づいて向けた顔、意味深な言葉を口にしたときの瞳の色、そのどれにも好意的な印象を受けたのは、彼が私の肉親だったからなのかと納得した。

 その後ドクターに呼ばれて兄は部屋を出た。
 頭蓋内出血があり、外傷性脳損傷のため、記憶障がいが起こっている、というのが今の私の状態だった。
 どの程度の記憶が失われているのかと言うと、ほぼまっさらだった。目覚める以前の記憶がごっそり消えている。
 それでも、朝目覚めたら洗顔するだとか、カッフェの淹れ方だとか、洗濯機の回し方だとかは覚えているから不思議だ。

「一週間で思い出す場合もあれば、一生取り戻せない場合もある。こればっかりは誰にもわからない」

 と言うのが主治医の見解だった。他に外傷はなく、入院しているよりも日常生活に戻った方が回復が早い、とのことで、定期的な神経科の受診を勧められただけで私は退院した。

 一つ、気になることがあった。
 私はてっきり、肉親は兄だけなのだと思っていた。もしも両親が健在なら、娘が事故にあって記憶を失ったとあれば、何を置いてもかけつけるはずだ。
 それなので、退院の前日、何かのついでのように「実家にゃあ連絡しといたぜ。面倒くせえから病院の場所は教えてねーが」とあっさり言われて仰天した。

「え、私両親がいるの?」
「ああ」
「どうして教えてくれなかったの?普通そこは一番に伝えるものでしょ」
「今言っただろォ。オメーのマードレ、スゲェ剣幕で怒鳴ってたぜ」

 その後の説明で、兄が先妻の子供で、後妻である私のママとは血が繋がっていないことが判明した。
 家族の中で私だけが兄と連絡を取っていたらしく、事故の数日前から私は彼の住むネアポリスを訪れていた。恋人とケンカした、というのが訪れた理由らしいけれど、今はその恋人の顔すら思い出せない。
 携帯電話は事故の衝撃で壊れたので連絡を取りたくても取れないし、取ったところで見ず知らずの相手に何を喋ればいいか見当もつかない。
 徐々に明らかになる事実にまるで現実味がないことが恐ろしかった。まるで見知らぬ他人の人生に触れているような気分だった。



 兄の住まいに戻った私は、まず最初に感じた疑問を口にした。

「ここは、あなた一人で暮らしてるの?」

 男性の一人住まいにしては明るすぎる部屋で、女性らしい趣味の内装や家具、食器などが揃っていたからだ。

「今はオレ一人だ」
「じゃあ、以前は誰かと暮らしてたの?」
「少しの間な。イイ女だったが、オレに愛想尽かして出ていっちまったよ」
「それは、ちょっと意外」
「どういう意味だよ」
「プロシュートさんでもフラれることなんてあるんだね」

 彼はダイニングチェアを引いて座ると、タバコを咥えて火をつけた。吸い方が様になっていると感じた。

「なあ、。その呼び方どうにかなんねーか」

 そのうち指摘されるだろうなとは思っていた。ちょっと困ったような彼の横顔を見て、私はやんわりと返した。

「だって、悪いけど、本当に何も覚えてないの。”お兄ちゃん”とは正直呼び辛くって」
「なら、名前でいいだろ。さんはいらねェ」
「わかった、そうする」

 一服した彼は、別室に消えるとすぐにまた戻った。その手にはへしゃげたキャリーケースと小ぶりなショルダーバッグがあった。
 それが自分の持ち物で、形が崩れているのは事故のせいだろうと察しがついた。
 中を改めると、着替えやスキンケア用品、充電器、頭痛薬、読みかけらしい小説が数冊と、特に目を引くものはない。ショルダーバッグの方には財布やパスケースがあって、パスケースには私の運転免許証が入っていた。

 数年前の私が硬い表情で写っている免許証には、実家の住所が記載されている。だけど何の懐かしさも感慨もなかった。
 私の不安を感じ取ったのか、兄は私に目を向けて言う。

「そんな顔すんな。焦りは禁物だってカピバラみてえなツラしたドクターも言ってただろォ?」
「カピバラって言うより、ビーバーって感じだったけど」

 彼はちょっと笑って、「メシでも食おうぜ」と言った。

「うん。でもその前に、実家の電話番号を教えて欲しいの」
「イキなり掛けて喋れんのか?何も覚えてねえーんだろ」
「だけど、連絡しない訳にはいかないし、プロシュートは、あんまり掛けたくなさそうだから」

 少しの間を置いてから、彼は席を立った。どこからか取り出した広告の裏に数字を書き込む。
 私は兄の携帯を借り、廊下に出て殴り書きされた番号をコールした。プロシュートの態度から、彼と両親の間には、何か取り返しのつかない確執があるように思えた。
 三コールほどで、見知らぬ女性の声が「プロント」と言った。

「あのババァ、なんか言ってたか」

 通話を終えた私に、ソファで雑誌を読んでいた兄が声をかけてくる。私はありのままの全てを伝える気にはなれなかった。

「驚いてたし、動揺していたと思う。でも、プロシュートが事情を説明してくれてたから話は早くすんだわ。明日ネアポリスに来るって」

 口を開きかけた兄に慌てて言い添える。

「安心して、ここの場所は教えてない。それと、明日、恋人のジュリオって人も一緒に来るみたい」

 兄が一瞬だけ目を向けた。その沈黙に何か特別な意味があるような気がしてじっと見つめていると、私の視線を断ち切るように腰を上げ、彼はからっとした声で言った。

「腹減った、なんか食おうぜ」

 兄が手際よく作ったのはカットトマト缶を使ったペンネで、信じられないくらい美味しかった。
 私たちはダイニングテーブルで向き合って食事を楽しんだ。

「プロシュートの職業ってもしかしてシェフ?」
「まさかだろ」
「じゃあ、アパレル関係?」
「違ェ」
「じゃあ、何だろ」


 兄はグラスの赤ワインに口をつけると、伏せていた目を上げた。
 ぞくっと背筋が震える。涼し気なブルーの瞳には、迂闊には踏み込めないような深い闇があった。

「オメー、オレが怖くねえのか」
「……怖いって、どうして」
「何も覚えちゃいねーんだろ?オレはオメーの兄貴だって言ったが、それはウソかもしれねえぜ。オメーを騙してどっかに売っぱらっちまうつもりかもしれねえ。オレがカタギじゃあねーことぐらいもうわかってんだろ」

 淡々とした口調の中にも迫力がある。相手の精神に訴えかけるような威圧感があって、だけど不思議と不快感は与えない。そこらへんのチンピラとは違う、もっと全身を裏社会に沈めた人間の声だと思った。

「プロシュートってギャングでしょ」

 私が断定口調で問うと、彼は案外あっさりと認めた。

「そうだ」
「ふうん。でも、怖くないよ」
「なんでだよ」
「わからないけど、怖くないの。たぶん前の私があなたを怖いと感じてなかったんじゃあないかな」

 それどころか、親しみを感じるし、ただ喋っているだけで胸があたたかな感情で満たされる。記憶はすっかり失われているはずなのに人間は不思議な生き物だ。
 私たちはしばらく無言で食事を続け、ワインを口に運んだ。

 私が食器を洗っている間に兄はシャワーを浴びた。水切りカゴに皿を乗せ、タオルで手を拭く。突然、一人きりのリビングにいることが心もとなくなった。
 自分が誰でもないような恐怖。絶壁の上を綱渡りしているようで、歩く足も覚束ない。あの清潔なベッドで目覚める以前の記憶が本当にすっぽりと消えている。私は今二十歳なのに、何を食べて育ったのか、どんな初恋をしたのか、友人はいるのか、両親には愛されていたのか、何も思い出せない。自分を紐解くすべが何もないのだ。

 今夜は月の出た明るい夜だった。
 窓辺には二人掛け用のテーブルセットがあって、華やかな赤みのあるマホガニーのテーブルに一冊の本が置いてある。手に取ってみるとそれは本ではなく布張りの装丁の日記帳だった。

「それ、オメーんだぜ」

 バスルームから戻った兄が濡れ髪をタオルでがしがしと拭きながら言った。
 洗練されたスーツ姿ではなく、無防備な部屋着姿で現れた彼にどきっとする。兄とはいっても今は見ず知らずの異性で、それもかなりの男前だ。当然の反応だと思えた。

「なんか根詰めて書いてたぜ」
「これロックがかかってて開けないの。パス知ってる?」
「知らねェよ」

 兄は素っ気なく言って、冷蔵庫から水を取り出した。

「明日、あいつら何時に来んだよ。高速バスで来んのか」
「うん。ネアポリス中央駅の構内で待ち合わせしてるの。アルベルジェッティの中のカフェテリアよ」
「そういう記憶はあんのかよ」

 プロシュートがしげしげと見つめてくるので、ちょっと動揺しつつ答えた。

「そうなの。よくわからないんだけど、それが書店だってことは覚えてるの。行ったことがあるかどうかはわからないけど」

 それはミラノ発祥の出版社、アルベルジェッティ社が経営する大型書店で、主要都市の駅には大抵店舗を構えている。わかりやすいから、とママがそこを指定したのだ。

 入れ替わりでシャワーを浴びた私は、パジャマに着替えて歯磨きをした。いよいよ寝る、という段階になって、どこで寝ればいいのかわからなかった。すると兄が言った。

「オメーはいつも通りベッド使えよ、オレはソファで寝るからよ」
「え、そんなの悪いよ」
「じゃあオメーがソファで寝るか?オレはどっちでもいいぜ」

 滞在中、どうやら私は寝室で、兄はソファで眠っていたようだ。それだけでも兄の優しさが感じられた。
 今夜は私がソファで寝ると言い張ると、彼は寝室から毛布を一枚持って来てくれた。

「私って、プロシュートにとってどんな妹だったの」

 毛布を抱きかかえたまま、なんとはなしに訊ねると、兄はふいに真顔になって、私が座るソファの隣にやってきた。腰を下ろしてから身体ごと向き直り、私と視線を合わせる。

「オメーは可愛いソレッラだぜ、
「可愛いって、具体的には?」
「まず、素直だろ。あんま愛想はねえが、心を開いた相手にゃあけっこう甘えるタイプだよな」
「え、私そういうキャラなんだ」
「あと、けっこうモテてたぜ。オレのソレッラだからな、当然だ」
「プロシュートはモテそうよね」
「そうでもねえよ、惚れた女にゃあ手も出せねえ情けねえ男だぜ」
「えー意外、どうして手を出せなかったの?」

 興味本位で訊ねたものの、彼が沈黙してしまったので私も黙った。安易に踏み込んではいけない話なのかと察した。
 私は毛布に顔を埋め、話題を変えた。

「……ねえ、私、ジュリオって人のこと、また愛せるのかな」
「高校の同級生らしいな、そいつ」
「そうなの?じゃあ付き合って長いのかな。プロシュートは知ってる?」
「いや、知らねえ。同じ高校だから、ツラ見りゃあ思い出すかもしれねえが」
「え、私たち同じ高校だったの?専攻はなに?」
「理数系だ。オメー、数学苦手なくせに同じ高校に行くってきかなくってよォ」
「そっかぁ、昔の私はあなたのことが大好きだったのね」

 耳にする話全てが新鮮だった。もっと知りたいとねだる私に兄は「もう寝ろ」と諭すものの、しつこく食い下がると私をソファに横たわらせ、毛布をかけてくれてから背を向けて床に腰を下ろした。

「仕方ねえなァ。ワガママなソレッラのために、ちっと昔話でもしてやるか」

 耳に心地よく響く兄の声で語られる知らない私の物語。それは平凡で、少しばかりモテるだけのごく普通の女の子の話だった。
 友人と口喧嘩した夜、目を腫らして兄の部屋を訪れたこと。
 初めて作った手料理はプディングで、固まっていなかった。スープかよ、とからかう兄とはその日一日口を利かなかったこと。
 中等部に入って、どこかのモデル事務所のスカウトがうちを訪れたこと。
 知らない男に付きまとわれて、連れ去られそうになったこと。
 高等部に入って、初めて参加するダンスパーティのドレスを一緒に選びに行ったこと。

 兄の広い背中を眺めながら、そんなエピソードに耳を傾けた。いつしか私は寝入っていた。


 翌朝、兄と遅めの朝食を取ってから、テレビを観たり時々雑談したりして午前中を過ごし、正午過ぎに部屋を出た。
 ネアポリス中央駅に向かう途中、小さな映画館に寄った。
 私が事故に合う前日に彼と二人で訪れたらしい映画館。何か思い出すきっかけになれば、と兄が連れて行ってくれたけど、私の記憶が揺さぶられることはなかった。

 焦りは禁物、というドクターの言葉を思い出す。記憶障がいは長期戦で、あまり思い詰めては身が持たない。地元に戻れば何かしら思い出すかもしれない、という希望を胸に、待ち合わせ場所である書店に向かった。
 ところが、駅構内に入り、遠目にアルベルジェッティの看板が見えた辺りで隣を歩く兄が足を止めた。

「どうしたの」

 私が声をかけると、兄はつぶやくように言った。

「こっから先は、オメー一人で行け」
「え、どうして?一緒に行ってくれないの?」

 私は兄の正面に回り込み、どこか遠くを見つめるような瞳と視線を合わせようとした。だけど交わることはなく、思わず彼の手を取った。
 兄は少し驚いたような顔になって、ようやく私を見返す。立ち止まった私たちは通行の妨げになっていた。

「私のママと上手くいってないんでしょう?だから、顔を合わせたくないのね」
「そうじゃあねえ」
「じゃあどうして?一人で行くなんていやよ」

 兄に手を引かれ、私たちは壁側に移動した。
 つかまれた手首が痛くて、その手がいつまでも離れない。
 兄は口の中で何かをつぶやいた。声が小さくて聞き取れない。常に堂々とした彼らしくない精彩を欠く態度で、私は居ても立っても居られなくなった。

「また、会えるよね?」

 探るような目を向ける私に、兄はぎこちなく笑う。はっきりとした理由はない。だけど、もう二度と会えないような気がした。

「ねえ、また会えるよね?だって、あなたは私のお兄ちゃんなんだから」

 沈黙してしまったら、この会話はもう打ち切りになって、彼が背中を向けたらもうそれっきりになってしまう。私は恐怖にかられてとにかく喋り続けた。

「私は可愛いソレッラなんでしょう?たとえママと仲違いしてるとしても、私は私よ。あ、そうだ、プロシュートの携帯番号教えてよ。新しい携帯買ったらスグ連絡するから」
「オメーはソレッラなんかじゃあ……」

 私はえ、と訊き返した。兄が一歩近づいて私の腰を抱く。そのまま抱き寄せられて逞しい腕の中に収まった。それは挨拶の軽いハグとは違う、胸に迫るような抱き方だった。
 兄のはだけた胸元からセクシーで甘い香りがする。その香りを私は知っていた。

「……行くな、
「え……家に帰るなってこと?」
「オレと一緒に来いよ」

 緊迫感のある声だった。私が顔を上げると、兄は怖いくらいに真剣な表情をしていて、私を見つめる瞳の奥には燃えるような激情があった。
 思わず身を硬くする。その張り詰めた眼差しは「兄」が「妹」に向けるものではなかった。そこには確かに男女の情があって、その生々しさに私は急に恐ろしくなって、腕から逃れようと抵抗した。
「離して」と言った。「やめて」とも。

 兄がなんと答えたかはわからない。背後から私を呼ぶ声があって、見知らぬ中年の女と長身の若い男が駆け寄って来ていた。

から離れてッ」と女が叫ぶ。若い男も言った。「、急にいなくなって心配したよ、もう大丈夫だ」

 私は離れていく兄を目の端で追いながらも、引き止めることができなかった。畳み掛けるように迫る二人の対応で精一杯だったし、なにより彼のあの瞳に混乱した。
 ママに電話をしたとき、私の声を聴いた彼女は叫ぶように言った。

 !?大丈夫なの?プロシュートに何もされてない?あの子はあなたをおかしな目で見てるッ、気をつけて

 何か、行き違いがあるんだろうと思った。兄とは数日しか過ごしてないけれど、私に向ける優しい眼差しや、温かみを確かに感じていた。
 だけど、さっきの彼のあの目を見て、ママの言葉は真実なのかもしれないと思えた。私は急に恐ろしくなって、兄を拒絶した。今もかすかに指先が震えて、息を吸うのすら困難で、だけど、それでも、一つだけわかったことがある。

 あの香水の匂いを、彼に包まれるあの感触を私は知っていた。あんなふうにきつく抱きしめられたことがきっと以前にもあったのだ。
 彼の姿はもうどこにもなくて、何か取り返しのつかないことが起こってしまったような予感だけがあって、私はただ途方に暮れていた。




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