私の愛したただ一人の男04



 私が生まれ育ったのはアドリア海に面した人口10万人にも満たない湾岸都市だった。
 絵のように美しい街並み、気さくで陽気な人々、港から眺める海は絶景で、日が沈む時間帯になると美しい夕景を求めて観光客が押し寄せる。
 中世の建造物や何世紀も前の建物がそのまま残り、ローマから続く街道の終着点の街としても有名らしい。

 らしい、と言うのは、そこが私にとって初めて目にする見知らぬ街だったからだ。それなのに、散歩をしていると、そこの角を曲がったら美味しいパン屋があるだとか、その先は袋小路になっているだとかがなんとなくわかる。不思議な気分だった。

「きっと良い兆候よ。あなたは少しずつ思い出しているの」

 と言ったのは友人の一人だ。
 地元に戻った翌週、ジュリオに連れられて高校の同級生たちと会った。彼や彼女たちは私に親し気に話しかけた。涙を流す姿もあった。まるで思い出せなかったけれど、部屋にあったフォトアルバムには彼らと楽し気に笑う私の姿があった。

 そこに、兄の姿はほとんどなかった。
 残っているのは幼い頃の写真ばかりで、中等部に入った頃から兄の姿はぱったり消えている。まるで最初から三人家族だったみたいに。
 そのことを一度、パパに訊ねてみたことがある。パパは寡黙な人で、兄とはあまり似ていない。私が質問を重ねても彼は一言二言返すだけで話は続かず、ママに至っては憎悪さえ感じた。だから、私はもう彼らの中に兄の面影を探すことを諦めた。

 一向に記憶を取り戻せない私は、職場復帰を諦めて友人の叔母夫婦が営むリストランテを時々手伝ったり、散歩をしたりして過ごした。
 このままじゃあいけないとわかっているけれど、今はまだ、動き出す時期ではないような気がした。
 ジュリオとの結婚も、一度白紙に戻してもらった。彼に会ったとき、真面目で優しそうな人だと思った。私をよく理解してくれていて、気の合う友人のようで、だけど、それ以上の感情は芽生えなかった。
 彼は、二人の関係を、時間をかけてゆっくり取り戻していこう、と言った。私はうなずくことしかできなかった。


 穏やかな海風を感じながらプロムナードを歩く。最近開発が進められている港エリアは綺麗に整備され、お洒落なカフェやレストランも多い。
 遊歩道の最後はマリーナになっていて、ヨットやクルーザーが停泊していた。

 イタリアのほとんどの飲食店がそうであるように、私の働くリストランテでも長い昼休憩があって、晴れた日はこうして散歩をして過ごすことが多い。
 ちょうど歩き疲れた頃にあるマリーナの前のベンチで、テイクアウトしたエスプレッソ片手に海を眺めるこの時間が私は好きだった。
 狭い内海は波も穏やかで、対岸には豊かな緑と白い町並みが見える。一際高くそびえる塔は、水夫記念碑なのだと誰かが教えてくれた。

 ここが狭い街だから、というのは別として、私はよく話しかけられた。
 彼らは皆私のことを知っていて、高確率で話題に上るのは兄のことだった。

 昔はよくケンカした、とか、実は好きだったの、だとかの告白をよく受けたし、彼が街を去ったことを惜しむ声は多かった。同時に、悪い噂も入ってきたけれど、最終的には誰もがまた会いたいねとしんみりした顔で言うのだ。

「チャオ、。休憩中かい?」

 背後からかけられた陽気な声に振り返る。

「ええ、そうよ」
「ああ……ベリッシマ、今日も信じられないくらい美しいよ。頼むからオレのテゾーロになってくれ」
「テメエにゃもう太ったテゾーロがいんだろ。ありゃそのうち成人病になるぜ」
「わかってるさ、だからオレだってジョギングでもしてみたらどうだってやんわり勧めたんだ。それなのにアイツときたら!」

 やいやいと言い合うのは近くの整備工場で働く兄弟で、私が働くリストランテの常連だ。
 ふと、兄の方が言葉を止め、数メートル先に目をやった。

「見かけねえじいさんだな」

 ヤシの木が等間隔で並ぶ南国風のプロムナードには、所々休憩用のベンチが設置されている。その一つに老紳士が腰かけていた。
 兄の目線の先を追った弟が訳知り顔で言う。

「ありゃニーシャんとこのじいさんだろ。もうボケちまって昔のことはさっぱり忘れちまってるらしいぜ」

 あの人も失くしてしまったのか、と胸が少し痛んだ。本人が望むと望まざると、こうして忘れてしまうこともある。それがどれだけ大切な記憶だったとしても。
 立ち去る二人に手を振って、再び湾景に目を戻せば、今度は犬の散歩中の老婦人に話しかけられる。危険なネアポリスとは違う、ここは信じられないくらい平和でのどかな街だった。

 一人になった私は、いつものようにバッグから一冊の日記帳を取り出した。
 シンプルな布張りの日記帳。四ケタのダイヤルロック式になっている。パスワードがわからずまだ開いたことはないけれど、なんとなく持ち歩いている。
 この日記帳を見たジュリオが、

「パスワードがわからなくても、ベルトを切ればいいんじゃあないかい」

 と言った。その通りだった。
 日記帳には閉じて固定するためのベルトがあって、鍵はその部分についている。ベルトをハサミで切ってしまえばわざわざロックを解除しなくても日記帳は開く。
 わかっていても、切断する勇気はなかなか沸かなかった。
 鍵までつけて隠したい内容をそんなふうに知ってしまってもいいのか。もちろん、ただの日記である可能性もある。だけど、どうしてか、私にはそうは思えなかった。
 まるでパンドラの箱を開けるみたいに、取り返しのつかない何かが起こるんじゃないかと怖かった。

 兄とはあれっきりになっている。
 両親は彼の連絡先を知らず、ネアポリスにいたことさえ今回の私の事故で初めて知ったのだ。
 兄の携帯番号をメモしておかなかったことを悔やんだけれど、たとえ知っていてもかけられなかったかもしれない。
 ママの言葉と、別れ際に見た彼の目がずっと引っかかっていた。

 時々、夢も見た。
 私には欲しくて欲しくてたまらないものがあって、気が狂いそうなほど欲しいのに、迂闊に近づくには眩しすぎて、どうしても手を伸ばせなかった。それが一度だけ届いた。だけど届いた瞬間にはもう泡のように弾けてしまう。まるで人魚姫のように。

「やあアンジェラ(天使)、ケガはしてないかい?空から落っこちてきちゃってさ」

 近くのマリーナで働く知り合いが通り過ぎざまに軽口を叩く。私はどうにか笑顔をつくった。
 今の私は、心をどこかに置き忘れてきた空っぽの人形のようだった。



 週末、友人と会った。街の中心部にある彼女の職場近くのバルで待ち合わせした。
 店は立ち飲みで、選びきれなほどのチケーティがガラスケースに並んでいる。
 私たちは好きな料理をチョイスして、テーブルを挟んでワインをあけた。

「どうなの、少しは何か思い出せたの」
「さっぱりよ、なーんにも思い出せない」

 投げやりに言う私に、友人は大らかに笑う。一度、彼女に「以前の私と今の私、どっちが付き合いやすい?」と訊ねたことがあった。

「どっちも変わらないわ。でもあなた、前より社交的になったかもしれないわね」

 とおかしそうに笑った。彼女と過ごした記憶はまるでないのに一緒にいると不思議と居心地が良かった。

「以前のはね、とにかくお兄ちゃんお兄ちゃんってうるさくって。そりゃ、わかるわよ。あれだけ素敵な兄貴がいたら夢中になっちゃうわ」
「でも、彼を悪く言う人もけっこういるのよ」
「万人に好かれるのはムリよ。プロシュートさんはあんまり愛想とかないし。でも、彼に助けられた人はけっこういるのよ」

 そういう彼女自身も高等部に入ってすぐの頃、自分ではどうにもならない問題を抱えていた。それを解決する手助けを兄がしたのだと言う。兄には面倒見の良い一面もあって、私は誇らしい気分だった。
 二人で何本かワインをあけ、徐々に酔いが回った。

「もう一度、会いに行くべきなのかな」

 自然と口をついた言葉だった。兄にもう一度会いに行く。それで何かが解決する訳でもないけれど、あまりに後味の悪い別れ方だった。彼ともっと話をする必要があるような気がした。

 そうだ、と私は思い出す。
 確か彼もそう言っていた。あの清潔な病室で、目覚めたばかりの私に。

 オレたちにゃあ話し合う時間が必要だ

 あのときの彼は、どんな表情をしていたっけ。私が記憶を手繰っていると、しばらく考え込むように黙っていた友人が、テーブルについた手に目を落として言う。

「けっこう酔っぱらってるから、少しへんなこと言うわよ」

 彼女はやや赤みがかった目尻を指で掻く。澄んだ海の色のようなマニキュアを塗っていた。

「あたし、はプロシュートさんのことが好きなんじゃあないかと思ってたの」

 私は一拍置いてから返した。

「そりゃ、好きよ。兄なんだから」
「そうじゃあないわ。兄貴としてじゃあなくて……」

 そこで友人は言葉を止めた。彼女の強い眼差しが迷うように揺れている。私は鼓動が早まるのを感じた。ママの言葉が脳裏をかすめる。

 離れていく兄の顔。ネアポリス中央駅の構内で、もうこれが今生の別れだとでも言いたげだった彼の表情が焼き付いて離れない。そこにあったのは失望だったのか諦めだったのか。
 私は慎重に言葉を選んだ。

「そうね、私けっこう重度のブラコンだったみたい。色んな人に言われたわ」

 友人はやや呆然とした顔つきをした。それから酷く小さな声で「そう、よね」とつぶやく。すぐに表情を戻して、からかうような口調になった。

「本当に、あなたったら酷いブラコンだったわ。ダンスパーティーの夜のこと、覚えてる?」
「え、なになに、教えてよ」

 私たちは昔話で盛り上がり、ワインをあけ、まるでハイティーンに戻ったようにはしゃいだ。

 帰り際、私はいつも持ち歩いている日記帳をバッグから取り出した。
 友人は沈黙したまま私の手の中のそれをじっと見ている。

「これ、私の日記帳なの。記憶を失くす前のね」
「意外ね、日記なんてつけてたの」
「うん。これ、預かってくれないかな」
「えっ、どうして?」

 不意を突かれたように目を大きくした友人は、困惑して言った。

「困るわ。それ、大事なものなんでしょう?」
「そうだけど、パスがわからなくて読めないの」

 見せて、と手に取った彼女は、すぐにジュリオと同じセリフを口にする。

「こんなの、ベルトを切ればいいじゃない。さっさと見ちゃいなさいよ。きっと何か思い出す切っ掛けになるわ」

 思い出すのが怖いから、とは言えなかった。捨ててしまおうとしたこともあったけど、どうしてもできなかった。
 私と兄はもしかして、もう戻れないような、決して犯してはならないタブーを犯してしまったのかもしれない。それを知るのが怖かった。
 友人は頑なに拒否したけれど、私が必死に頼み込むと最後には受け取ってくれた。

 その夜、どうにも気持ちが落ち着かなかった私は、夜中だというのに部屋の整頓を始めた。そして、机の奥の方にしまってあった二枚のカードを見つけた。
 それは天然石でできた小物入れに大切そうに収まっていた。
 素っ気ない白いカードには「Auguri」と記されている。ありふれたメッセージで、まったく同じものが二枚あった。

 自分でも驚くほど胸がざわついた。突然感情の波が濁流のように押し寄せてきて、嬉しいのか苦しいのか切ないのか泣きたいのかわからなくなって、私はその場にしゃがみ込んだ。
 過呼吸になっていて、このまま死んでしまうんじゃないかという恐怖を感じたけれど、徐々に呼吸は落ち着いて、深く息を吸い込んだ。

 このありふれたグリーティングカードには何か特別な意味があるのだ。それが何なのかわからないのがもどかしく、同時に安堵もしてもいた。知ってしまえばもう後には戻れない、そんな予感だけがあった。



 二人の関係を、時間をかけてゆっくりと取り戻していこう、と言ってくれたジュリオとは時々デートをした。
 別れ際にはキスもした。だけどセックスはしなかった。彼は私の気持ちを尊重してくれて、決して無理強いはしなかった。だけど時々彼の目に焦りのようなものを感じて、あまり長引かせるべきではないこともわかっていた。

、これお願い」
「はーい」

 揚げたてのフリットと魚貝のマリネが乗った皿を、常連の老夫婦のテーブルに運ぶ。空になったグラスにワインを注いでいると、背後から別の客に声をかけられた。彼は手に花束を持っていて、素朴な笑顔とともに差し出してくる。

、今日誕生日なんだろう?良かったらこれ、受け取ってくれないか」
「あらあら知らないのかい、にゃあアモーレがいるんだよ」
「知ってるさ、アニタばあさん。でも花を贈るくらいいいじゃあないか」
「受け取ってやんな。で、色男、あんた花だけ贈って帰るつもりかい。今日のお勧めは「カラマーロのグリル」だよ」

 威勢の良い声で割り込んできたのは店主の奥さんだ。キッチン担当でフロアにはあまり顔を出さないご主人に代わり店を切り盛りしている。

、あんた今日誕生日なのかい。教えてくれりゃあ良かったのに」

 夜にパーティをしよう、と提案して私の肩を豪快に叩くと、彼女は慌ただしくカウンターに戻った。私も注文を取って、出来立ての料理を運び、ワインを選んだ。

 賄いのランチをとった後は、いつものようにプロムナードまで足を伸ばした。南イタリアの澄み切った空と美しいアドリア海が広がっていた。

 波は今日も穏やかで、打ち付ける波音に耳を傾けていると心が落ち着く。ベンチにもたれてまぶたを閉じると眠ってしまいそうだった。
 目を開けたとき、隣のベンチに老人の姿があった。以前に一度見かけたことがある、クラシコイタリアスタイルのスーツを着た上品な紳士だった。
 彼は今日もシガーを咥え、姿勢よく座っている。

「チャオ。良いお天気ですね」

 声をかけると、彼は白煙を吐きながら「波も穏やかだ」と言った。

「ここの波はいつも穏やかですよ」
「そうだったかな。忘れてしまっていたよ」
「私も、色んなことを忘れました」

「少し、お喋りしても?」と訊ねてみると、老人はああ、と相槌を打った。

「私、以前事故に合って記憶を失くしてしまったんです。気持ちばっかりが焦って、どうにもならなくて、でも、ここに来ると不思議と気持ちが落ち着くんです」

 老人は沈黙したまま微かにうなずいた。耳を傾けてくれているのがわかる。
 私はこれまでの経緯を手短に、当たり障りなく話した。

「早く思い出したいけど、でも、本当は……怖いんです。思い出すことが怖くて、逃げているのかもしれない」
「釣れないときは、魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい」

 老人が言う。
 私はちょっと笑いつつ、笑顔を向けた。

「それ、ヘミングウェイですよね。好きなんですか?」
「いいや」
「この世は素晴らしい。戦う価値がある」

 今度は私が言った。確か、「誰がために鐘は鳴る」の一節だ。そう言えば、兄も読書家だったようだ。
 数日共にした彼に本好きのイメージはなかったので、実家の兄の部屋の本棚にびっしりと並んだ小説の数に驚いた。
 老人は、厳しい眼差しを海に向けたまま、しわがれた声で言った。

「この世は別に素晴らしくもなんともねえ。ただ、現実があるだけだ。目の前の現実をただ生きていくだけだ」

 一瞬、そこにいるのが誰だかわからなくなった。
 私の目をえぐるような眼差しがそこにあった。
 姿形はそのままなのに、急に雰囲気の変わった老人は、姿勢良く立ち上がると、傍らに置いていた花束を私に差し出す。そこに花束があることには気づいていた。きっと誰かへの贈り物なんだろうと思っていた。

「え?私に……?」
「誕生日おめでとう。君の幸せをいつも祈っている」

 私が受け取ると、老人は年齢を感じさせないしっかりとした足取りで立ち去った。私が引き止めても振り返りもしなかった。
 受け取った花束は濡れたような艶の真っ赤なバラで、そこに一枚のカードを見つけた。腕に鳥肌が立った。

 カードには「Auguri」と記されていた。机の奥から見つけたグリーティングカードと同じメッセージだ。その瞬間、記憶がフラッシュバックした。

 それは記憶というよりもワンシーンの連続で、兄と過ごした断片が、この街で過ごした思い出が、次々と湧き上がっては消える。その情報量の多さに気が遠くなって私は目眩を覚えた。

 その日以降、老人は姿を見せなかった。後で知ったことだけれど、「ニーシャんとこのじいさん」は半年前に他県に住む息子夫婦に引き取られていた。あの老人が誰だったのかは結局わからなかった。
 あの日を境に私は少しずつ記憶を取り戻していった。
 友人の自宅を訪れ、日記帳を返して欲しいと告げると、彼女は両手を広げて私を抱きしめた。

「ようやく決心したのね。きっと上手くいくわ」

 全てがうまくいくわ、と彼女は念押しするように何度も繰り返す。
 その夜、私は日記の内容を静かに受け止めた。






 再び訪れたネアポリスは、相変わらず薄汚くて雑然として生命力あふれる街だった。
 故郷のあの街とはまるで流れる時間が違う。ぼうっとしているとスリに合うし、ひっきりなしにナンパされるし、とにかく治安が悪い。だけど兄にとってこの街はけっこう居心地が良いのかもしれない、と今は思う。
 ローマでもフィレンツェでもヴェネツィアでもミラノでもなくネアポリス。治安の悪さに定評があるけど人は陽気でからっと晴れた空が魅力的でなにより食事が絶品だ。

 兄の自宅はネアポリスの旧市街にあった。最悪、引っ越してる可能性もあるし、すぐに会えるなんて楽観的な考えは捨てて、私は安いユースホテルを予約していた。
 案の定ドアホンは何度押しても無反応で、私は日記に記されていた夏の日を思い浮かべた。
 兄を探すため、高校の長期休暇を利用して初めてこの地にやって来た。足が痛くなるまで花屋を巡り、バルに通い詰め、兄との再会を果たしたこと。
 だから、今回だってその覚悟だった。何度だって通って、それでも無理ならこっちで職を探して、会えるまでねばる。絶対に諦めない。その上で、彼の気持ちがすでに心変わりしているなら仕方ない。

 オレと一緒に来い、と兄は言った。あの瞬間は確かに、彼の気持ちは私にあったのだ。それが一時の気の迷いだとしても、あの瞬間だけは。

 訪問を知らせる簡単なメモだけ挟んで部屋を離れ、エレベータに乗った。古いエレベータは大きな音をたてて一階に到着する。降りようとして、目の前の人影に気づいた。私たちはほぼ同時に「あ」と声を上げた。

 向かい合った兄は最初こそ驚いた顔をしていたものの、すぐにいつもの澄ました表情になって「よォ」と片腕を上げる。

「……うそ、こんなに簡単に会えちゃうなんて」

 思わず本音が漏れた。
 彼は目の覚めるようなきりっとしたスーツ姿で、腕に紙袋を抱えている。無言でエレベータに乗り込んで来ると、私の隣に並んだ。
 長い指が目的階を押す。エレベータの扉が再び閉まり、四角い空間はゆっくりと上昇を始めた。

「記憶、戻ったのかよ」

 彼は正面を向いたままで言った。

「……うん。少しだけ」
「少しって、どの程度だよ」
「えっと、昔のこととか、断片的に」

 そうかよ、とつぶやいた後に、彼は昨日も会った相手に言うような気軽さで言った。

「これ、一緒に食おうぜ」

 腕に抱えた紙袋を私に押し付けてくる。焼きたてのパンの匂いがして、私は既視感を覚えた。こんなやり取りを以前にもしたような気がした。
 私はパンの袋を抱え、もう一方の手にはキャリーケースの持ち手を握ったまま、背伸びをしてプロシュートにキスをした。

「会いたかった。会いたくってたまらなかったの。プロシュートは……私に会いたかった?」

 思い出せる記憶はまだ少ないけれど、そのどれにも苦しいほどの恋心があった。
 私は兄が欲しかった。なんとしても欲しかった。恋しくて恋しくて、それがタブーだとしても、誰かを不幸にするとしても。
 でも、それは私の一方的な想いだった。祈るような気持ちで答えを待っていると、ふいに視界が揺らいだ。

「会いたかったに決まってんだろッ」

 急に遮られた視界、以前とは違う香水の匂い、体温と息遣い。私は兄の腕に収まっていて、エレベータはとっくに目的階についていた。
 一度開いた扉がゆっくりと閉じて、空気すらも止まったような静かな時間が続いた。

「──許してくれ、

 消え入りそうな声で兄が言った。

「許す……?何を許すの?」
「オレは、もうずっとオメーに惚れてた。欲しいと思ってた。けど、オメーの人生台無しにしちまってもいいのか……許されるのか、決断できねえでいた」
「どうして台無しになるの?兄妹だから?」
「そうだ……結婚もできねえし、ガキだって産ませてやれねえ。それにオレはギャングだ」
「そんなもの……望んでないのに」

 私は兄のスーツを握りしめ、深く息を吸い込んだ。胸が締め付けられる思いだった。

「プロシュートと一緒にいたいの。ただそれだけなの。以前の私も今の私も、望むのはそれ一つだけなの」

 兄は小さくうなずいた。背中にまわった腕に力がこもって、彼は静かに、だけど隠しきれない熱を孕んだ声で言う。

「オレはもうオメーを逃がせねえ───後戻りはできねえぞ」

 私は彼の胸に顔をうずめて逃がさないで、と言った。涙が一筋頬を伝う。 
 私たちはしっかりと抱き合った。彼と迎えるだろう幸福な明日を思って胸がふるえた。




text top