メランコリーキッチン04



 単身用にしては広めのダイニングキッチンには、鮮やかなマジョリカタイルの壁が目を引くキッチンと、コンパクトなダイニングスペースがある。ダイニングには二人掛け用の小ぶりなテーブルがあり、はそこでいつも食事をしたりカッフェを飲んだりしているのだが、今はうつむき、所在なさげに座っている。
 ブチャラティは彼女からやや離れた位置で壁にもたれ、軽く腕を組んでいる。同行した部下、グイード・ミスタは彼の指示ですでに去った後だった。

 ブチャラティは今日この部屋を訪れた理由、少々荒っぽいやり方となってしまった事情をにかいつまんで説明した。それは彼女には受け入れ難い内容だった。

「わ、私が……ブチャラティさんの、味覚を?」
「状況から見てほぼ間違いないだろう。オレは今、君がくれたものしか食べられないんだ」
「……そんな」
「ああ、違うんだ。君を責めているんじゃあない。そこは勘違いしないでくれ」

 ブチャラティは努めて優しい口調で言う。はテーブルに置いた手に力をこめた。相変わらずその表情はわからない。彼女のおしゃまなスタンドたちも今はなりを潜めている。

「ごめんなさい……」
「君は何も知らなかった。謝る必要はない」

 ブチャラティは視線を足元に落とし、少しの間を置いて再び彼女に戻す。

「確認したいんだが、これまで、同じように手作りのものを誰かに渡したことは?」

 は気落ちした様子で首を振った。
 調査チームから入手した資料には、首をひねるような記述が多々あった。
 幼いころは顔を隠し、小等部へ入学するも数年で不登校となり、その後高校へ編入するまでの間、長い空白期間があった。大学進学後も目だった交友関係はなく、とても年頃の娘とは思えない孤独な半生だ。
 何か事情があるのは明白だが、必要な情報はすでに得ており、これ以上の詮索はプライバシーの侵害でしかない。
 ブチャラティは考えを巡らせながら続ける。

「さっきも説明したが、これは君の「スタンド」の持つ能力だ。スタンド能力は通常術者が解除すれば消えるが、君の場合は少し違うようだ」
「私……どうすれば」
「味覚の異常は日ごとに強まった。おそらくなんだが、君からもらったものをこれ以上食べなければ、この効力もいずれ薄まるんじゃあないかと考えている」
「……」
「そうならなかったとしても……まあ、そんなに悲観することはない。君がくれたものなら食えるんだ。餓死することはないさ」

 敢えて軽い口調で言うと、はいくらか安堵した様子を見せた。
 ブチャラティはズボンのポケットに手を差し込み、そこから小さな包みを取り出すと、もたれていた背を起こす。の前まで歩いて行くと、片膝をついて彼女を見上げた。手は椅子のふちにかかっている。
 突然縮まった距離と、やや唐突に視界に入り込んできたことに彼女はとっさに身構えた。

「そんなに怯えないでくれ」

 そう言ってから、ブチャラティは苦笑する。

「……それは、ムリか。オレの職業はもう知っているよな?」

 がこくりとうなずく。こんな夜更けに突然押し入られ、しかも相手はギャングだ。怯えるなという方が難しい。
 ブチャラティはごく短い時間目を伏せたが、すぐに表情を戻す。

「君がくれたドルチェ、とてもうまかったよ。実はけっこう楽しみにしていたんだ。これは、大したものじゃあないんだが」

 の手を取り、手のひらを開かせるとそこに先ほどの包みを乗せた。
 前髪の奥の瞳が瞬いているのがわかる。彼女は目の前の男と自分の手のひらを何度も交差させている。

「本当は今日昼間に会ったときに渡すつもりだったんだが」
「……わ、私に、ですか?ど……どうし」


 が驚いて黙る。ブチャラティは静かに言った。

「オレが怖いか?」

 彼女は数秒動きを止め、それから急いでかぶりを振る。

「ごめ、なさい……私、人と話すの、あ、あんまり」
「苦手……なのか?話すのが?それなら、ゆっくり、落ち着いて喋るんだ。急いで話そうとしなくていい」
「私……ブチャラティさんを、こ、怖いなんて、一度も」

 これだけは伝えなければ、とは必死だった。言葉は途中で途切れたが、ブチャラティにはその気持ちが充分に汲み取れた。

 彼女の緊張の仕方は度を超えている。
 の過去に何があったのか、これ以上の詮索はすべきではないと頭では理解していても知りたくなる。ここから先はただの個人的な欲求だ。そんな葛藤は億尾にも出さず、ブチャラティは涼し気な目を向ける。

「それなら良かった。それ、開けてみてくれ」
「は、はい」

 がぎこちない手つきで包みを開ける。中に入っていたのは繊細な透かし彫り細工のヘアピンだった。
 先日、知り合いの雑貨屋に寄った際に目についたもので、見つけた瞬間にはもう手に取っていた。そのときはまだ素顔すら知らなかったが、きっとに似合うだろうと彼は思ったのだ。

「オレにつけさせてくれないか」
「え……っ」

 ブチャラティは立ち上がると、の顎を持ち上げた。重みのある前髪をサイドに流し、彼女の手から受け取ったヘアピンをこめかみの横で丁寧に留める。
 のまぶたは固く閉じられ、束感のあるまつ毛が頬に影を落としている。ブチャラティの手が離れると、目元がぴくりと動き、まぶたがゆっくりと開いた。

 見たものを強烈に惹きつける深みのある瞳がブチャラティを捉える。
 キアイア地区で初めて会った日、彼はを美しい女性だと思った。うかつに声をかけるのも憚れるような楚々とした美しさだ。けれどその感情は絵画でも鑑賞するようなもので、翌日には出会ったことすら忘れていた。
 それが今、彼は確実に違う印象を抱いていた。見た目の端麗さだけでなく、その容姿には彼女の素直さや、真面目さや、ひたむきさが現れているように思えた。

 ああ、やっぱり似合うな。心からそう思い、伝えようと口を開きかけたが、は表情を曇らせ、顔を背けてしまう。ささやくように言った。

「私……だ、大丈夫、ですか」
「大丈夫、とは?」
「……あ、あなたを、ふ、ふゆ、か」
「ゆっくりだ。ゆっくりでいい」

 ブチャラティの大きな手がの両肩を包む。彼女はこくこくと何度かうなずくと深く息を吸った。今度はゆっくりと声をつむぐ。

「私、あなたを、不愉快にさせていませんか」

 その言葉を頭で一度反芻してからブチャラティは言う。

「なるはずがない。なぜそんなことを言うんだ。何か……事情があるのなら、オレで良ければ話してくれないか」

 沈黙が流れた。は視線を不安定にさまよわせ、口元に曲げた指を添える。言おうか言うまいか迷っているようだった。
 ブチャラティは急かすでもなく、ただじっと彼女の決断を待っている。本心を言えば強引にでも聞き出したいところだが、それを理性で押さえ込む。
 彼は今はっきりと自覚していた。自分は彼女のことを知りたがっている。彼女の本質にもっと触れたいと思っているのだと。

「私……」

 やがてが口を開く。ブチャラティはもう一脚の椅子を引くと、彼女の対面に腰かけた。



 の継母は決して悪い人間ではなかった。
 あまり教養を深めるタイプではなかったが、恵まれた容姿とチャーミングな性格で誰からも愛され、もてはやされて成長した。
 女の最上の幸せは誰もが羨む結婚だと信じて疑わず、早々にそれを成し遂げた。一女ももうけ、幸せの絶頂にあったが、性格の不一致から結婚生活は二年で終わりを告げる。しかしすぐに地元屈指の資産家と再婚した。お互い再婚同士ではあったが彼女は友人たちの羨望の的となった。
 再婚相手には四歳の娘がいた。彼女にも二歳になる娘がおり、二人はきっと良い姉妹になるだろうと幸せな未来を想い描いた。

 資産家の娘はと名乗り、育ちの良さを思わせる上品な挨拶をした。
 その瞬間、彼女の顔からはいっさいの表情が抜け落ちた。用意していた言葉もとっておきの微笑みも、手土産を渡すことすら忘れ、その小さな少女を食い入るように見つめた。

 小さな子供は幼いというだけで愛らしいものだが、そうではない。少女はわずか四歳でありながら、たぐいまれな美貌を持っていた。
 常に羨望の眼差しを浴びて育った彼女には他人を羨んだ記憶がない。これまでほとんど抱いたことのなかった感情、「嫉妬」という感情を戦慄と共に認識した瞬間だった。

 それでも結婚生活は粛々と始まる。
 は実母とわずか一歳で死別しており、その面影を記憶していない。その故もあり少女は継母になついた。彼女の方も表面上はそれに応え、どうにか取り繕っていたが、次第に亀裂が入っていく。

 日に日に輝きを増し、目が合えば背筋がぞわりとするほどの美しさをたたえる少女。一方彼女は、すでに美の頂点を迎え、あとは徐々に衰えていくばかりだ。実際には、彼女はまだ充分に若く魅力的なのだが、歪んだ感情が正しい判断能力を奪っていく。

 彼女はまず、に懇意のメイドを全て解雇した。自分に従順な者だけを残し、外堀を埋めた。の父親は不在がちで、たまに帰宅しても夫の前ではよき妻、よき母を演じる彼女を信じ切っていた。それに当時の彼は新規事業の立ち上げに忙しく、娘の異変に気づく余裕などなかった。

「その醜い顔をこっちに向けないで」
「あんたの顔は人を不愉快にさせるのよ」

 彼女はそう言ってをよく罵った。部屋に閉じ込め、必要に迫られた場合のみ、帽子やスカーフで顔を隠して外出した。めっきり姿を現さない少女を心配して訪ねる親類もいたが、彼女は手練手管で追い払った。
 少女は孤独だった。まるで洗脳のように刷り込まれる継母の暴言。二歳下の妹は惜しみない愛情を注がれ、花のように育てられている。

 私が悪い子だからみんないなくなったんだ
 私が醜いからママはおこるんだ

 まだ五歳になったばかりの少女の心理的な打撃は大きく、徐々に内にこもるようになった。
 そんなとき、「小さな友達」が現れた。
 全部で10人の友達は、ふさぎ込む少女に優しく声をかけ、泣かないでとなぐさめた。少女の心が完全に闇に囚われてしまわなかったのは彼女たちのおかげだった。

 初等部へ入学する頃には、は暗い目をした陰気な子供になっていた。人前で素顔を晒すことを極端に嫌がり、視界がひらけることに強い恐怖心を抱いた。
 両目を覆うほど前髪を伸ばし、常にうつむいている暗い子供、それが周囲のに対する印象だった。
 しかし、ある日少女はクラスメイト数人に素顔を見られてしまう。
 人を虐げ、蔑むときの歪んだ顔が、指をさしながら仰け反って笑う顔が、まるで高貴なものでも見るかのように変わり、甘い声で取り入ろうと近づいてくる。その変化は鳥肌がたつほどおぞましく、少女はその場から逃げ出し、それきり自室から出られなくなってしまった。

 季節は何度も巡り、身長も伸び、丸みを帯びていた頬はシャープになり、は眩いばかりの美少女へと成長した。しかしその姿が人目に触れることはなく、時折部屋から漏れる話し声をメイドたちは独り言ととらえ、気味悪がった。
 その間、心配した父親が何人か家庭教師を雇った。は扉越しにかけられる声には一切応えなかった。彼ら、彼女らは長ければ一か月、早ければ三日で屋敷を後にした。
 そんな中、半年近くも通い続けた女がいた。一週間に一度だったり、二日置きだったりと頻度はばらばらで、女はその日大学であったことや、他愛もない日常の話を扉越しにに語り掛けた。
「実は私も引きこもりだったのよ」あるとき女が言った。それから一か月近くたったある日、彼女は堅く閉ざされたドアがゆっくりと開くのを見た。は13歳になっていた。

 その日から数年間、は彼女の元、勉学に励んだ。彼女の話を聞くうちに、大学というものに仄かな憧れを抱くようになった。
 大学に進学するにはマトゥリタ(高校卒業試験)を受ける必要があり、は決死の思いで高校に編入した。
 彼女にとって外出は極度の緊張状態を強いるもので、相変わらず顔を隠し、人目を避けてはいたが、それは個性ととらえられた。もう面白半分にからかうほど周囲も子供ではなかった。

「あなたはきっと変われるわ。だけど、この街にいてはダメよ。あの家はあなたの足かせにしかならないわ」

 家庭教師の女性の一言で、は他県への進学を決めた。
 ローマ、ミラノに続くイタリア第三の都市、カンパニア州ネアポリス。風光明媚な景観の観光都市。
 父親は快諾したわけではなかったが、薄々感づいていた妻の愚行を止められなかった後ろめたさと、娘の初めての自己主張に、ついには首を縦に振った。




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