※ヒロインの外見描写あり。

メランコリーキッチン03



 の住まいは大学のファサードから脇に一本入った路地にあった。
 レモン色の外壁の六階建てのアパルトメントで、ロートアイアンのフェンスがついたバルコニーが等間隔に並んでいる。両脇にはテイクアウト専用のサンドイッチ店と書店があるが、すでにシャッターは下りている。資料によるとの部屋は三階の角部屋だった。部屋の明かりは灯っており、電気メーターの動きからも在宅だとわかる。

 ブチャラティの指示でミスタは裏口へとまわった。ブチャラティは建物を仰ぎ見る。屋上の貯水槽に隠れるようにほぼ完全な球体となった満月があった。
 彼の背後に音もなく出現するスタンド。次の瞬間、アパルトメントの壁面に黄金色のジッパーが現れ、あっという間に三階まで伸びる。

「閉じろジッパーッ」

 声と共に開いていたジッパーが駆け上がるように閉じていき、ブチャラティの身体を三階へと運ぶ。靴音も立てず、彼はバルコニーへと降り立った。

 カーテンはしっかりと閉じられており、内部の様子はうかがい知れない。通常ネアポリスの学生は寮かルームシェアが多いが、このアパルトメントは単身用だった。間取りは1DKで、ベッドルームとやや広めのダイニングキッチンがある。
 ブチャラティは息をひそめて気配を探った。かすかな生活音が聞えるが、少し遠い。バルコニーの戸は当然施錠されており、彼は壁面にジッパーを取り付け、数センチ開いて覗き見る。ベッドルームは無人だった。

 警戒しつつ、肩から胴体、足の順に滑り込ませる。体勢を低くしてベッド脇に隠れ、息を殺す。若い女の部屋らしく、家具は淡い色味で統一されている。広さはさほどなく、出窓には小さな鉢植えがあった。
 キッチンへと続くだろう扉から話し声が漏れている。誰か遊びに来ているのか、それとも入手した情報は誤りで、やはりシェアルームなのだろうか。話す内容までは聞き取れない。ミスタは玄関前で待機しており、ブチャラティの合図一つでいつでも飛び込める状態だ。

 は「クロ」ではないと彼は考えていた。数回会っただけの素顔すら知らない相手だが、彼女の態度に嘘はないと感じていた。ただ、根拠のない主張で部下を納得させることは難しく、また彼自身も確証を求めていた。

 キッチンへと続く扉の横に背を向けて立つ。壁一枚隔てた向こうにがいる。漏れ聞こえる声は確かに彼女のものだった。

 ─あ、待ってリタ、弱火よ。強くしちゃあダメなの
 ─お砂糖はもう少しあとね。ダメよアリーチェ、まだもう少し煮詰めなくっちゃあ

 ブチャラティは驚いた。どうやら以外に複数いるようだ。そしてもう一つ彼を驚かせたこと。それはの声のトーンだ。いつもの消え入りそうに喋る彼女とは違う、はつらつとした声だった。話の内容から料理中だとうかがえる。一緒にいる相手はよほど気を許せる相手なのだろう。

 楽し気な料理風景が目に浮かぶような会話。ブチャラティは無意識に表情をゆるませた。ごく普通の女子大生だ。人に危害を加えるスタンド使いだとは到底思えない。

 ─ソースはどっちがいいと思う?ブチャラティさん、どっちが好きかな

 突然飛び込んできた聞き慣れた名に、思わず首をひねって扉を見た。が、キッチンへ続く扉にはモザイクガラスがはめこまれ、透過はしていない。動く気配だけがわかる。
 はイチゴソースかブルーベリーソースかで迷っているようだ。ブルーベリーソースの方が好みだな、と臆面もなく言いたくなったが、もちろん思いとどまる。もはやこの場にいる意味すらないように思えた。
 玄関前で待機しているミスタの様子も気がかりで、一度外へ出ようとしたときだった。彼の靴先に何かが当たる。それと視線が交わった。

「キャー!ブチャラティヨ!ブチャラティがイルワ!」
「な、何ーッ!」

 ブチャラティが思わず叫ぶ。キッチンの方で何かを落としたような大きな音が響いた。扉の隙間から一体、もう一体と現れる。

「本当ダワ!ブチャラティヨー!」
「キャー!ステキ!本当に彼ダワ!」

 そこで短く二度、銃声が響く。続いてドアを蹴り開けたような鈍い音。こうなっては隠れている意味はなく、ブチャラティは扉を押し開けた。



 グイード・ミスタは玄関前で焦れていた。待機しろ、と命令されたので勝手はできないが、ただ待つだけの時間は長い。ブチャラティと別れてそろそろ15分は経つ。
 彼は耳を玄関扉に押し付けたまま、銃口を下した状態で構えている。先ほど隣の部屋から住人が出てきたが、ミスタが人差し指を唇に添えると、青ざめた顔でうなずき足早に去った。警察を呼ばれるのは不味いな、と彼が考えていると、玄関扉のわずか数ミリの隙間から何かが現れた。
 それは広げた手の平ほどの大きさで、耳が長く垂れ下がり、背中から蝶々のような羽が生えている。ミスタと目が合うと「キャ!」と叫んで引っ込んだ。

 鍵穴部分を続けて二発撃つ。施錠が外れたドアをミスタは躊躇なく蹴り開けた。

「ブチャラティーッ!スタンドだッ!小せえのがいやがったぜッ!!」

 ほぼ同時に対面のドアからブチャラティも現れる。そこはキッチンで、L字型のシステムキッチンの前でが腰を抜かしたようにうずくまっていた。ひっくり返った鍋が床を汚し、そこから漂う甘い匂いと硝煙がまざりあう。

「待て、撃つなミスタ」

 ブチャラティが腕で制止する。グイード・ミスタの右腕は真っ直ぐに伸び、半身(はんみ)の構えで女の頭部に狙いを定めていた。
 の周囲には小さな妖精然としたスタンドたちがいる。ふわふわと飛んでいたり、本体と同じく驚いて固まっていたり、個性があるようだ。ミスタは苦々しくつぶやく。

「群体型か……」
「羽が生えテルゼーッ」「ヘンな耳シテンナーッ」ピストルズも口々に言う。それは自身と同じタイプのスタンドだった。

 は先ほどからほぼ動かない。さすがに帽子は被っていないが、厚ぼったい前髪とうつむき加減のせいでやはり素顔はわからない。
 ブチャラティが近づき、の前で片膝をついた。そこでミスタは目を疑う。ブチャラティの腕や脚、背中に小さなスタンドがしがみついていた。

「……おいテメー、今すぐスタンドを解除しろッ!でなけりゃあテメーの頭が吹っ飛ぶぜッ!」
「待てと言っているだろうミスタ」
「ブチャラティ、あんた気づいてねえーのかッ!」
「もちろんわかっているぜ。こいつら……このスタンドからは敵意を感じない」
「敵意だと?そんなモン」

 言いかけて、ミスタはそのスタンドたちが何か喋っていることに気づく。

「ブチャラティ、カッコ良イワ!」
「ステキ!ブチャラティ、素敵ヨ!」
「チョット、ソコはアタシの場所ヨ!」
「な……なんだァこいつら」

 ミスタが気の抜けた声を出す。ブチャラティは少し困ったような複雑な表情を浮かべ、肩をすくめた。それから顔つきをやや引き締め、に向き直る。

「まずは……不法侵入を詫びよう。壊してしまったドアももちろん弁償させてもらう。だが君からも話を聞きたい」
「……」
「この小さいのは君のスタンドだな?君はいつからこの能力を有している」
「……こ、この子、たちは、わ……わたしの、友達」
「友達?」
「ずっと、も、もうずっと……前から」

 そう言えば、とブチャラティは思い出す。先ほどはスタンドを名前で呼んでいた。スタンド名とは違う、人名だ。
 その後いくつか質問してわかったこと。はスタンドをスタンドと認識しておらず、幼い頃にある日突然現れたという。のスタンドたちは単純な思考能力しかなく、彼女がキッチンに立つと手伝いたがり、最近は簡単な補助くらいならできるようになったと言う。

 己の身に起こった味覚の異常、それはやはり彼女の能力だろう、と彼は結論付けた。ただし、当の本人に自覚はない。これらのやりとりの間中、は終始うつむき、身を縮こまらせていた。

 ブチャラティはおもむろに手を伸ばし、の前髪に触れた。華奢な肩がびくっと跳ね、逃げるように後ずさる。が、すぐに背中がキッチンにぶつかった。それ以上退けないとわかると今度は両腕で顔を覆う。

 なぜそこまで執拗に隠すのか、という疑問がわく。喋り方もぼそぼそと覇気がない。実際はもっと滑らかに喋れるのだ。彼女のはつらつとした声がまだ耳に残っている。
 ブチャラティは距離を詰めるとの両手首をつかんだ。何をされるか悟った彼女は力をこめ、それに抗おうとするが、ブチャラティは力任せに押し開く。

 その様子を眺めていたミスタはおや、と思った。ブローノ・ブチャラティはひとたび敵と対峙すれば容赦も躊躇もなく殲滅する男だが、無抵抗の─しかも敵意を感じない─女にするには少々強引なやり方に思えた。
 観念したのか、成すがままになったの前髪をブチャラティが指で梳く。露わになった素顔を見つめた。

「──君、どこかで会ったことはないかい?」

 狙いは定めたままだが、ミスタはすでに毒気を抜かれていた。今いる位置からでは彼女の顔がよく見えず、彼は二歩ほど前に出て前傾姿勢になる。が、ブチャラティが「そうか」と口を開いたので慌てて身構えを戻した。

「知った顔か?ブチャラティ」
「以前に一度会ったことがある。あれは、二週間ほど前になるか」

 二週間前、ブチャラティは所用でキアイア地区を訪れていた。
 キアイア地区はネアポリスでも比較的安全なエリアで、ブランド店やセレクトショップ、お洒落なカフェなどが集まるショッピングストリートがある。歩く人々は皆小ぎれいで、同じネアポリスでも他の地区とは一線を画する。当然のようにナンパも多いが、あまりたちの悪い輩は見かけない。
 所用を終え、ブチャラティが歌劇場前を通りがかったとき、併設の駐車場脇で、二人の男が女を口説いていた。よくある場面だと通り過ぎようとしたが、どうやら女の方は嫌がっている。二人の男は見たところギャングでもチンピラでもない普通の青年だが、彼らは女を車に押し込めようとした。
 さすがに見過ごせず、ブチャラティは足を向ける。青年二人はブチャラティの姿を見るなり競うように逃げ出した。そのときの女がだった。まだ夕刻ではあったが、土地勘もあまりなく不慣れな様子だったので、ブチャラティは彼女をタクシーに乗せた。お互い名乗ることもなかった。

「そうか……君がくれたドルチェは、あの時の礼だったのか。なぜ言わなかった?それに、顔を隠すのはなぜだ」

 ミスタは銃口を下し、指をトリガーから放して銃鉄を戻す。もうその必要はないと判断した。銃を尻ポケットに無造作に突っ込むと、散々焦らされた女の顔でも拝んでやろうと足取り軽く近づく。

「おい、何をする気だミスタ」

 ブチャラティから呼び止められるが、ミスタは気にせずの前にしゃがみ込み、前髪をぐいっと持ち上げた。

「この方がスッキリして」

 いいぜ!と続くはずの言葉は声にならず、彼はたっぷり三秒息を止めた。

 グイード・ミスタを見返すのは長いまつ毛に縁どられたヘーゼル色の瞳。眼力のある瞳はじっと見ていると吸い込まれそうなほど深い。すっと通った鼻筋と、きりっと伸びた眉毛、唇もほぼ完ぺきな形だ。おそらくノーメイクだが、肌は陶器のようにすべらかで透明感がある。
 良い女を見れば口説きたくなるのがイタリア男の性で、ミスタもそれを地で行くようなタイプだが、ただただ驚き、言葉を失っていた。

「な……」

 ようやく発した声は、張り付いた喉で止まる。彼は生唾を飲み込んでそれを潤す。心拍数も上がっていた。

「なんだこの女……むちゃくちゃカワイイじゃあねーかッ!」

 図らずも咎めるような目をブチャラティに向けると、彼は真顔でうなずいた。

「そうだな。美人だな」
「イヤ、そんなモンじゃあねーだろッ!そのへんの美人とはワケが違うぜッ!」
「おいおい、何をそんなに興奮している」

 生真面目な顔で返されて、ミスタは返事に窮する。声を荒げる自分が可笑しいのか?そうなのか?悶々とする彼の横で、ブチャラティは腰を上げ、周囲を見回す。

、雑巾はないか」
「……あ、はい」

 も立ち上がり、キッチン収納からバケツと数枚の雑巾を取り出す。二人は汚れた床を黙々と拭き始めた。のスタンドたちは騒ぐばかりで手伝う様子はない。今も三体ブチャラティにへばりついている。
 ミスタも仕方なくひっくり返った鍋を拾い上げ、シンクに置く。そこでが横に並んだ。

「ありがとう……ございます」

 落ち着きかけた心臓がまた騒ぎ出す。今、の前髪は重力に従って落ち、再びその顔を隠しているが、先ほど見た光景がまだ鮮烈に焼き付いていた。
 ミスタはその場から動けず、手際よく動く白い手と泡立つ鍋をぼんやりと見た。

 誰かに似ているな、と彼はもうずっと考えていた。そして思い至る。
 今も世界中で愛され、銀幕の妖精と称される稀代の名女優の顔をミスタは思い浮かべた。




| text top |