メランコリーキッチン02



 変化はゆるやかに訪れた。
 最初の異変は、行きつけのトラットリアで食べた海老のクリームソーススパゲッティだった。その店はディナーはもちろん、ランチタイムでも行列のできる人気店だ。
 一口目を口にしたブチャラティは、やけに薄味だなと感じた。それならと他の料理にも手を付けるが、一様に味が薄い。同席の女性はせっせと口に運び、舌鼓を打っている。他の客も同様だ。
 体調によって味覚が変わることはある。少し疲れているのかもしれない、彼はそう考えつつ、全て平らげた。残すのはマナー違反だからだ。
 女からマフィンを受け取った日の出来事だった。

 翌日、ブチャラティは女と再会した。その日も女は目深に帽子を被っていた。顔はわからないが、その少し変わった容貌と、人目を避けるような歩き方がよけいに彼の目に留まった。
 声をかけると女はうろたえ、口元しか見えない表情を強張らせた。ひどく緊張しているようだ。
 マフィンの礼を伝え、とてもうまかったと彼が言うと、張り詰めていた緊張感がふっとゆるんだ。

「あの……よ、良かったら、またつ、作っても」

 かすかに震える声で言う。その言葉が、いくつもの逡巡の末に発せられた言葉なのだとブチャラティにはわかった。女はキャンバス地のトートバッグの肩紐を千切れんばかりに握っている。

「楽しみにしているよ。良かったら、君の名を教えてくれないかい」

 女はと名乗った。最初は恐縮した様子で首を振ったが、ブチャラティが再度たずねると消え入りそうな声で答えた。
 翌日、ブチャラティが縄張り内を巡回していると再び現れ、前回とは違うリボンのついた紙袋を差し出してきた。ジャムと果物を詰めて焼いたタルトだった。
 ブチャラティはその夜、夕食を少し残した。

 次はプディングだった。やや固めで濃厚なカスタードプリンだ。は相変わらず緊張した様子だったが、ブチャラティが話しかけるとぼそぼそと喋った。お菓子作りが趣味なのだ、と彼女は言った。趣味としているだけあってとても美味しく、カップに入った三つのプリンをブチャラティは全て平らげた。
 その夜彼は夕食を半分ほどで諦めた。まるで砂でも噛んでいるように感じたからだ。

 が声をかけてくるのはいつも同じ、歴史地区にある大通りだった。会話の流れで、彼女がその通り沿いにある大学に通っているのだと知った。その日もらったのはリング状の固焼きクッキーで、ナッツとチョコが挟んであった。その夜ブチャラティは夕食を抜いた。クッキーは全て食べたが、それ以外の料理にはどうしても手を付けられなかった。

 そして今日、が渡してきたのはスコーンだった。いつもありがとう、とブチャラティが微笑むと、固く閉じていた彼女の唇が薄く開き、笑みの形をつくった。とても控えめな、瞬きすれば見逃してしまいそうな一瞬の笑みだった。
 ブチャラティは彼女の帽子を剥ぎ取りたい衝動に駆られた。前髪で覆われたその瞳は今、どんなふうに揺れているのだろうか。そんなことを考えていたせいで、用意していたちょっとしたプレゼントを渡しそびれてしまった。


***


、19歳。ナポリ大学の人文学部に通う大学生。大学近くのアパルトメントで一人暮らし。出身はモルフェッタ。地元には貿易商を営む父親と母親、妹が一人。この母親は継母で妹は連れ子のようです」

 けっこう裕福な家庭のようですね、とフーゴが手元の資料をめくりながら言う。つい二時間ほど前、組織の情報管理チームに依頼したの調査資料だ。情報管理チームのメンバーはイタリア全土に散らばっており、彼らのネットワークは多岐にわたる。
 資料にはの生い立ちから現在に至るまでの履歴が記されている。たった二時間しか要さなかったのは、彼女がただの民間人だということを如実に示している。

 二枚目の資料に目を通していたフーゴが神妙な顔をして、眉根を寄せる。

「どうした?」
「彼女……けっこう複雑な事情を抱えているかもしれませんね」

 ブチャラティが目顔で続きを促す。フーゴは一度咳ばらいをしてから続けた。

は幼い頃から顔を隠していたようです。理由はわかりませんが……帽子やスカーフ、長い前髪で隠していたと証言があります」
「顔にでけえ傷か痣でもあるんじゃあねえか?」

 出先から戻ったアバッキオがエスプレッソを飲みながら言う。

「なあ……そんな子がマジにスタンド使いなのか?オレ、とてもそうとは思えねーんだけど」
「それならよォー、ブチャラティに起こってる異常はどう説明する?あの女の寄越したモンしか食えねえなんて異常だろ」
「マジに食えねえーのかよォーブチャラティ」

 ナランチャが眉尻を下げ、心配そうに聞く。
 ブチャラティは沈黙したまま腕を組んでいた。仲間の視線が集まる中、彼は目だけをテーブルに向ける。先ほどまでそこに並んでいた料理はすでに片づけられ、今はドルチェだけが乗っている。彼は静かに言った。

「正確には食えないんじゃあない。食いたくないんだ」
「食いたくはねえが食おうと思えば食えるってコトか?それなら大した問題でもねえ。誰だって好き嫌いくらいはあるし、あまり好かねえ野菜でもカラダのためにガマンして食ったりするだろ。そこいらの五歳の小僧だってやってることだ」
「いや、そうじゃあないんだアバッキオ」

 ブチャラティの表情が曇る。普段の毅然とした態度とは違う歯切れの悪さにアバッキオは首をひねった。

「状況がよくわからねえんだが……あんた、食えるのか?食えねえのか?どっちだ」

「味がな」と低い声で言う。「最初はやけに薄味に感じた。次に、砂でも噛んでいるように思えた。何を食ってもそんな調子で、どうしても食欲がわかないんだ。何を見てもうまそうには見えない」

 ブチャラティは言い終わるとミスタを見た。突然顔を向けられたミスタは慌てて居住まいを正した。

「さっきおまえが勧めてくれたスパゲッティ……。あれもそうだ。いや、あのときはまだそこまでじゃあなかった」

 独り言のようにつぶやきながら、ブチャラティが視線をテーブルに戻す。そこには美味しそうなティラミスが、季節のフルーツや生クリームが添えられた皿に乗っている。ブチャラティは生唾を飲んだ。

「そこのドルチェ、こんなコトは言いたくないんだが……オレには「ゲロ」みてえに見える」

 誰もが息を呑み、張り詰めた時間が流れた。
「決まりだな」と立ち上がったのはミスタだ。彼はその手にリボルバーを携えている。

「ミスタ、おまえどうする気だ」とフーゴ。
「あの女んトコに決まってんだろ。スタンドだ……ブチャラティはあの女にスタンド攻撃されているッ!」

 アバッキオ、フーゴ、ナランチャも立ち上がる。そこで待ったがかかった。一人だけ着座したままのブチャラティが厳しい口調で言う。

「勝手な行動は許さない」
「あんた何言ってんだ、あの女がクロなのは間違いねえーだろッ、それとも何か?このまま餓死でもする気か?」

 ミスタが捲し立てる。黙ってはいるが他の三人も同じ気持ちだった。それがわかるからこそ彼も迷っていた。ブチャラティは両目を閉じる。
 脳裏には、ゆるくカーブを描く彼女の口元が浮かんでいた。あのとき、はいったいどんな顔で微笑んでいたのだろうか。徐々に異常をきたす味覚。疲れのせいではないと彼も薄々勘づいてはいたが、それがとは繋がらなかった。そのせいで、彼女からもらったものだけが食べられるという不自然さに気付くのが遅れた。
 しかしもう、さすがに無視できないところまできている。

「……オレが行く。オレが行って確かめてくる」

 それでいいな?とブチャラティが鋭い視線を投げる。
 首肯しない男が一人。

「いいや、ダメだね。オレも行くぜ」
「おいミスタ」
「ブチャラティは今あの女にスタンド攻撃されている可能性が高い。もし反撃できねえような能力ならどうする。誰か一人は援護するヤツが必要だ」
「それは……そうかもしれねえな」

 ミスタの肩をつかみかけた手を引っ込め、アバッキオもうなずく。ブチャラティは小さく息をつき、席を立った。

「わかった、援護はおまえに任せる。ただしオレが命令するまでは絶対に撃つな」




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