メランコリーキッチン01
賑やかな目抜き通りの一角にある老舗の紳士服店から二人の男が現れた。
一人は不思議な形の帽子を被った眉毛の濃い男。男は困ったように頬を掻き、口をとがらせる。
「オレよー、マジにああいうの苦手なんだよ。ブチャラティ、あんたはいいぜ。あんたはよォーああいうの似合うだろうからよー」
「くどいぞミスタ」
ブチャラティ、と呼ばれた男が一蹴する。こちらの男は白地に黒い模様の入ったスーツを着ている。立ち姿が美しく、端正な顔立ちをしているがその目つきは鋭い。
二人の男は肩を並べ、整然と敷き詰められた石畳の往来を歩いていく。
ブチャラティが言った。
「だいたいおまえ、その年でブラックスーツの一着も持っていない方がおかしいぜ」
「けどよブチャラティ、オレは今まで生きてきて一度も困ったことはねえし、これから先も困らねえ」
「つべこべ言うな。次の任務に必要だと何度説明すれば」
ブチャラティが言葉を止める。彼らの進路に女が一人、立ちふさがるようにして現れたからだ。
「どうかしたのかい、君」
ブチャラティが声をかけると、女は両手で大切そうに持っていた紙袋を差し出した。オーガンジーのリボンがかかっている。
「こ、こ、これ……よ、良かったら、た、食べ」
「オレに?」
女が何度もうなずく。ブチャラティは「グラッツェ」と微笑んだ。紙袋をブチャラティに手渡すと女は逃げるように走り去る。
ブローノ・ブチャラティは街を歩けば方々から声がかかる。突然愛の告白を受けることも少なくない。ミスタはこういった場面にたびたび出くわしており、いつも少しの羨望混じりにからかうのだが、今日は少々様子が違った。
「……知り合いか?ブチャラティ」
「いや、面識はない」
「なんつーか、根暗そうなオンナだったな」
女は前髪が長く、おまけに目深に被ったキャペリンハットのせいで顔がほとんど見えなかった。喋り声もぼそぼそとして、陰鬱な印象を受ける。
「そういう言い方はよせ。女性に対して失礼だろう」
「それ、何が入ってんの?食うのかよ」
ミスタがブチャラティの手元を覗きこむ。丁寧にラッピングされたリボンを解いて中身を改めると、リコッタチーズのマフィンが三つ入っていた。
うまそうだな、と笑うブチャラティと、それを見ながら微妙に片眉を上げるミスタ。マフィンは見るからに手作りだった。顔見知りならまだしも、見ず知らずの相手から突然もらった手作りの食べ物をミスタはとても「うまそうだ」とは思えなかった。
彼は隣を歩く己の上司を改めて見る。ブローノ・ブチャラティが誰からも好かれるのはこういう懐の深さだ、と彼は思う。ただ、これ以上は進展のしようがない。ブチャラティは誰にでも公平で、相手によって態度を変えない誠実さを持っているだけで、彼にも好みのタイプというものは存在する。先ほどの根暗そうな女は明らかに対象外だ。
この件はこれで終わりだ、とグイード・ミスタは思っていた。
***
「あれ、ブチャラティじゃあないですか」
フーゴに言われ、ミスタはテイクアウトのカッフェを受け取りながら目を向ける。ズボンの後ろポケットから取り出した1万リラの札を店主に渡し、低い声でつぶやいた。
「……ありゃあ、あのときの」
フーゴとミスタの視線の先には車やバイクが行き交う車道があり、その向こう側によく見知った男と、その男に何かを手渡す女の姿があった。手前にある噴水が邪魔をしてよく見えず、ミスタは場所を移動する。
白いルーフのテラス席に腰を落ち着けたフーゴは呆れたように息をついた。
「無粋だな。そんなに見るモンじゃあないですよ」
女はあの日と同じキャペリンハットを被っている。他に特徴はないのでそれが目印となったが、うつむき加減にブチャラティに何かを手渡すと走り去った。その走り方でミスタは確信した。あの日の女だ。
「あの女、性懲りもねーな」
「知ってるんですか、今の女性」
フーゴの目がやや大きくなり、興味を示す。ミスタは手に持ったカップをテーブルに置き、チェアにどっかりと座った。
「いや、よくは知らねえ。前にもああしてブチャラティに渡してたんだよ。手作りの菓子をよォー」
「そんなの、よくあるコトでしょう。珍しくもない」
「いや、手作りだぜ?オメー食えんのか?見ず知らずの相手からもらった手作りのモンをよォー、オレはムリだぜッ」
「それはあなたの感覚でしょう、ぼくは」
言いかけて、フーゴは手元に視線を落とす。手にした紙カップの液面をじっと見つめた。
「見ず知らず……か」
「ホラなッ!やっぱオメーもムリなんだろ?フツウそうだぜッ」
「いや、そうじゃあない」
フーゴはきっぱりと言って、顔を上げる。ブチャラティと女が立ち去った方向に目を向けて厳しい声で言った。
「一応、ブチャラティには進言した方がよさそうだ。確かに、何が入っているかわからない。あの女がどこぞのヒットマンで、毒でも入れていたら……。全くないとは言い切れない」
そりゃあ考えすぎだぜ、と軽口を叩こうとして、ミスタはあの女の異様な風貌を思い出す。目を覆うほどの長い前髪、深々と被ったキャペリンハット。おかげで女の顔はまったく記憶になく、陰気そうな印象だけが残っている。
噴水から勢いよく流れ落ちる水滴が日差しを含んできらきらと光る。まさかな、とつぶやく顔にはうっすらと冷や汗がにじんだ。
ブローノ・ブチャラティは手元の資料に目を通しながら、素朴な味のスコーンをかじる。
先日ポルポから言い渡された指令はある人物の護衛だった。その人物は政界のビックネームで、男の自宅で再来週開かれる晩餐会の警備を取り仕切ろとのことだった。
屋敷の見取り図や招待される客のリストなどを仔細に改める。二つ目のスコーンに手を伸ばしたとき、背後のドアが乱暴に押し開けられた。
「ブチャラティッ!」
叫びながら飛び込んで来たミスタと、やや遅れて現れたフーゴ。二人は浅い呼吸を繰り返している。
「やかましいぞッ、おまえら」
「こいつが……突然……走るからッ」
フーゴが中腰でミスタを指さし、切れ切れに喋る。ミスタは落ち着かない様子で視線を巡らせていたが、突然つかつかと歩き、スコーンが乗った皿を奪い取った。
「どうしたんだミスタ、腹でも減っていたのか」
「こいつはよォー、あの女からもらったヤツだよなァブチャラティ」
「……あの女?ああ、見ていたのか」
「何ともねえのかよ」
ネェーのカヨ!ネェーのカヨ!とピストルズたちも繰り返す。
「おまえ、何を言っている。イマイチ要領がつかめねえな」
「あのですね、ブチャラティ」
呼吸を整えたフーゴが前に出る。ミスタが口を開くのをさえぎって、少年は先ほどのやり取りを説明した。
白いクロスのかかった丸テーブルに、ギャングが三人雁首揃えて向き合っている。はたから見ればきな臭い場面だが、話題はテーブルの中央に置かれたスコーンだ。
「それはおまえたちの思い過ごしだ、オレはこの通り何ともないぜ」
話を聞き終えたブチャラティはそう言って肩をすくめる。一笑に付さなかったのは、仲間二人の目がやけに真剣みを帯びていたからだ。仕方なく、彼は追加説明をする。
「彼女とは、というんだが、実はあの後また偶然会ってな。マフィンの礼を伝えると、また作ってもいいかと聞かれたんで了承した。それ以来、何度か受け取っている」
「それで、今日はスコーンってワケか。しかしよォ、あんたも罪な男だぜブチャラティ。あの女、勘違いしてるんじゃあねーのか?」
「でしょうね。次は断った方がいいですよブチャラティ」
「別に、受け取るくらいはいいだろう」
うまいんだぜ、と言って皿のスコーンを一つ取る。卵の味がしっかりする素朴な味のスコーンだ。
一口かじり、咀嚼する。その様子をフーゴが注意深く見る。ブチャラティは普段、あまり間食をしない。甘いものは特にだ。その彼が食べているのだから本当に旨いのだろう。フーゴは一人納得した。
「本当に……何ともないんですね。いえ、ぼくだってマジにその娘を疑ったわけじゃ……。ミスタが怪しい女だったとか言うからだ」
「わりィーわりィー。つーかよ、そもそもオメーが毒とか言い出すから気になっちまったんだろーが」
「あれはたとえ話ですよ。ですが、やはり手作りのものは多少は警戒した方がいい」
「入れようと思えば既製品にだって毒を混入するくらいできるさ。そこまでビビッてちゃあやっていけないぜ」
ブチャラティが笑う。フーゴも苦笑した。まだ少し腑に落ちないミスタも一先ずは人心地つく。アバッキオとナランチャはまだ戻らない。ちょうど夕飯時だったこともあり、彼らはいくつか料理を注文した。メシー!メシー!とピストルズたちが騒ぐ。
ミスタはピッツァをかじりながら、自分の分身たちにもサラミを与える。テーブルにはアンティパストの盛り合わせや、魚介類のソテー、野菜のフリット、スパゲッティなど沢山の料理が並ぶ。フーゴもワインを飲みながらメバルとアサリのアクアパッツァを食べている。しかし、ブチャラティだけはそのどれにも手をつけてはいなかった。
ミスタはイカスミソースのスパゲッティが盛られた皿をブチャラティの前に寄せる。
「食わねーのか?コレ好きだろ」
声をかけられたブチャラティは皿を一瞥して、小さく首を振る。
「実は最近あまり食欲がないんだ。オレのことは気にせず食事を楽しんでくれ」
そう言って、彼は三つ目のスコーンに手を伸ばす。うまいな、とつぶやきながらそれを平らげると、再び皿に手をやった。
「……ブチャラティ、あんた食欲ないんじゃあないのか」
ミスタがうろんそうな目を向ける。最後のスコーンを手にしたブチャラティは、自身の手元に視線を落とした。
「ああ、確かにオレはそう言ったな。訂正する、食欲は……あるにはあるんだ」
「そうだよなァ、そんなにむしゃむしゃ食ってるもんな?じゃあコッチも食えよ。旨そうな匂いがしているぜ」
ミスタはスパゲッティの皿をもう一度押しやる。ブチャラティは顔をそむけた。
「それが……どういう訳かうまそうには見えないんだ。いや、ハッキリ言おう。食いたくないんだ」
二人のやり取りを凝然と見ていたフーゴだが、はっと目を見張る。
「そう言えばブチャラティ、あなた昨日もそうでしたね。料理には手をつけず……確か、クッキーを食べていた。チョコレートをサンドしたヤツだ。アレもその女性の差し入れですか?」
「ああ」
「クッキーって、そんなんで腹がふくれるかよッ」
「ブチャラティ……昨日はあれから何か食べましたか?今朝は?ランチは?」
フーゴが矢継ぎ早に問いかける。疑り深く目を細めながら。
「そんなに心配するな。食欲のない日くらいおまえらにもあるだろう。それに、まったく食ってないワケじゃあ」
そこでブチャラティは言葉を詰まらせる。彼は食べかけのスコーンを凝視した。何かに思い至ったのか、その表情が徐々に険しくなっていく。ミスタが立ち上がった。
「おいおいまさかよォーー、あの女の寄越したもの”しか”食ってねえとか言わねえよなァー?」
ブチャラティが閉口する。それは無言の肯定だった。
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