メランコリーキッチン05



 ベネチアングラスの置時計はすでに深夜を差している。

 は時折言葉に詰まり、沈黙し、また口を開き、そうして長い時間をかけて苦しい記憶を語った。
 ブチャラティはテーブルに両肘をつき、手を組み合わせた姿勢で耳を傾けていた。話が途切れても決して口を挟まず、どれだけもどかしく感じても深沈な態度を崩さなかった。

 彼女の語った内容はきっと記憶の一端に過ぎないのだろう、とブチャラティは感じた。実際、細かな気持ちの機微にまでは触れず、過去の出来事を淡々と説明したに過ぎない。それでも、これまでの彼女の不可解な言動がようやく理解できた。

「よく話してくれたな。辛かったろう」

 の返事はなかった。しかしうつむいてもいなかった。
 向き合って座るテーブルはコンパクトな二人掛けで、その分距離も近い。ブチャラティの視線をは真っ直ぐに受け止めていた。

「……私、もうずっと、人が怖かったんです」

 はやや小さめな、けれど落ち着きのある声で言った。他に音のない室内でそれはよく通った。

「でも一人だけ、心を許せる人がいました」
「君の話に出てきた、家庭教師の女性かい?」
「はい。その人と約束したんです。だから、私……変わりたいと、変わらなきゃあいけないと……ずっと思っていました」

 が過去形で話していることに気づいていたが、彼は敢えて指摘はしなかった。彼女はテーブルの隅に目を据えて、瞳を潤ませていく。

「でも……やっぱり怖くて、人の目が、どうしても、怖くて」
「おかしいな」

 ブチャラティが唐突に言う。が顔を上げた。

「君はさっき、オレになんて言った」
「え……」
「君はさっき、オレのことは怖くないと言わなかったか?」

 ブチャラティは片腕で頬杖をつき、口角を上げる。彼にしては珍しくいたずらっぽい笑みだった。

「君はもう、変わりはじめているんだ。
「私……が?」
「君はオレにドルチェをくれたな。礼なら一度でいいハズだ。人目が怖いと言いながら、何度もオレに会いに来てくれた。外に出られなかった君が大学に進学し、こうしてスデに一人、怖くない人間を見つけたんだ。きっと君は変われる。そう遠くない未来に、だ」

 が目を見張る。暗闇にかすかな光芒を見つけたような、そんな瞳で彼を見返す。ブチャラティは思わず相反する感情を抱いた。
 できることならこのまま誰の目にも触れさせず、そっと閉じ込めてしまいたい。それは他意のない、男なら誰もが抱く願望だった。
 これまでの人生を取り戻すように騒がしくも眩しい毎日が彼女を待っている。友人もでき、恋もするかもしれない。それを邪魔する権利は誰にもないのだ。

「顔を上げて、堂々とするんだ。……いや、それだとひっきりなしに声がかかっちまうな。今の君には厳しい状況か」

 ブチャラティが視線を斜めに上げて思案する。が遠慮がちに言った。

「……あの、それなら」
「ん、なんだ」

 目を向けて、ブチャラティは一度瞬きをする。の右肩に「小さな友達」がちょこんと座っていた。

「えっ?ヘンリエッタ、どうしたの?」

 も驚いた様子で言う。一見彼女のスタンドは彼女の制御下にないようにも思えるが、もちろんそんな訳はなく、意思よりももっと深い深層心理で動いている。
 ヘンリエッタは黒いレースのような羽根を忙しなくばたつかせ、ブチャラティの胸に飛び込んだ。

「ブチャラティ、素敵!」
「はは、グラッツェ」
「ズルいワ!アタシも!」

 テーブルの下から声がして、ブチャラティが覗きこむと彼の脚にもう一体しがみついている。もう一体、また一体と現れて、静けさに包まれていた室内はあっという間に賑わった。

「……ご、ごめんなさい、ブチャラティさん」
「元気だな、君のスタンドは」
「あの、良かったらカッフェでも淹れましょうか……?」
「そう……だな。少し喉が渇いたな」

 二人は苦笑を交わす。は慌てた様子で席を立ち、小走りでキッチンに向かった。きっと本来の彼女は彼女たちのように元気なんだろう、と微笑ましく思う。と、小さな二つの手がブチャラティの顔を挟む。

「ブチャラティ、コッチ向イテ」
「ええと、君は誰だったかな」と、考えている間にも別の声がかかる。
「ブチャラティ、カッコイイ!」
「ブチャラティ、大好キ!」
「グラッツェ。オレもだぜ」

 がたん、と大きな音を響かせて落ちるエスプレッソメーカー。「大丈夫か」とかかる声に背を向けたまま彼女はうなずく。かっと燃え上がるような熱がの頬を染めた。
 食器棚を開き、震える手でカップを選ぶ。来客用の食器などこの家にはなく、彼女は仕方なく量産品のカップを取り出した。いつもの手順でセットして、エスプレッソメーカーを弱火にかける。誰かのために淹れる日が来るなど彼女には想像もつかないことだった。
 ゆらゆらと揺れる青いガス火を眺めながら、は初めてブチャラティと会った日のことを思い出していた。


 ネアポリスに着いたはまずその人の多さに圧倒された。
 同じ港町でものどかな故郷とは違い、ネアポリスは活気と生命力にあふれていた。古きと新しきが同居する街。ギャングが幅を利かせる街としても有名で、そこかしこにそれらしい姿が散見された。

 彼女にとって外出は相変わらず試練の連続だったが、大学の授業だけは休まず出席した。やってみたかったお菓子作りにも挑戦した。
 彼女は変わりたかった。帽子や前髪の隙間からでは見えない世界の広がりを知りたかった。

 ある日彼女は意を決して重く伸ばした前髪をアップにしてみた。とたんに落ち着かず、足がすくむ。何も遮るものがない世界は薄氷の上を歩くような不安定さと恐怖心を彼女に抱かせた。

 あなたはきっと変われるわ

 その言葉を胸に、外の世界へと踏み出す。帽子だけは被ったが、見える世界は格段に広がった。
 家庭教師の女性は進行性の病を抱えていた。が今も胸に秘め、大切にしまい込んでいる約束は、病床で交わした最期の言葉だった。

 ネアポリスに来たらぜひ一度は訪れたいと考えていたオペラハウス。ちょうどのアパルトメントからは徒歩の距離にあり、目的をそこに定めた。
 緊張しつつ歩き続けると、やがて厳かな外観が現れる。は帽子のつばを持ち上げて、その全貌を見上げた。夢中で見入っていたせいで、横を通りがかった青年二人が足を止めたことに気づかない。彼らは不躾なまでの視線をよこし、ようやく気づいたが立ち去ろうとすると腕を伸ばして通せんぼをした。

「チャオベッラ、これから観劇かい?」

 言いながら一人がの顔をのぞき込む。男は友人の腕を軽く叩き、そちらの男がひょいっと帽子を取り上げた。驚いたが顔を上げ、ヘーゼル色の瞳を向ける。青年二人ははたと動きを止め、それまで浮かべていた陽気な笑みをさっと消した。

「……お、驚いたな」一人が言う。
「君……時間はあるかい?ええと、良かったらぼくと一緒に食事でも」もう一人も言った。

 は目をかたく閉じて首を振った。恐怖で声が出なかった。彼らに悪意はなく、ごく普通の青年たちだったが、一瞬の白昼夢のように、初等部での出来事がフラッシュバックした。突然態度を変えるクラスメイトたち、鳥肌が立つようなあの瞬間。
 立ち竦むの様子に具合が悪いと勘違いした青年は、車で送ると言い出した。あくまで親切心からの申し出ではあったが、この機会を逃すまいとする必死さもあり、彼らはエスコートとはかけ離れた早急さでを車に連れ込もうとした。

 そこで、小気味良い靴音を響かせて一人の男が現れる。
 整った顔立ちに深い海の底のような瞳。彼が口を開く前に、青年二人は血相を変えて脱兎のごとく逃げ出した。

「車を残して行くなんて、よほど急いでいたんだな」

 二人が去った方を向いて彼は薄く笑う。その横顔を、はへたり込んだまま見つめた。

「立てるかい」

 男は開け放ったままの後部座席のドアを閉め、中腰で手を差し出す。
 不思議と恐怖はなかった。まるでそうすることが当たり前のような自然さで、も腕を伸ばした。すると大きな手のひらが彼女の手を握り、ぐっと引き起こす。
 触れた部分が心地よく、それが人肌なのだと彼女は今更ながらに思い出した。

 彼は腰をかがめて帽子を拾うと、ついた砂を手で払い「少し汚れちまったな」と目を細めた。
 真っ直ぐに交わる視線、遮るものの何もない世界。道行く人々や行き交う車の流れ、楽し気な喋り声やクラクション、そういった音の洪水が突然耳に飛び込んできて、単色だった世界がにわかに色づいたような錯覚を覚えた。

 彼は何度かに話しかけ、もそれにどうにか答えたが、交わした会話はまるで覚えていない。気がつくとタクシーが横づけされていた。

 まだ陽は高く、車はサンタ・ルチア港を右手に道なりに走り、途中右折してロータリーを通り過ぎると見慣れた大通りに出る。
 は大学前で降りようとしたが、それは困ると運転手は言った。

「キチンと自宅まで送りますよ。もし何かあったらブチャラティさんに顔向けできないからね」

 男の名はブローノ・ブチャラティ。この辺り一帯を縄張りとするギャングだった。

 アパルトメントに戻り、玄関扉を閉めるや否や友達たちが現れた。「ブチャラティ素敵!」「ブチャラティカッコイイ!」と騒ぎ出す。この小さな友達はなぜか部屋でしか顔を見せなかった。

「うん……かっこ良かったね」

 は扉を背に座り込み、組み合わせた両手を唇につける。呼吸が少し早まっていた。

 また会えるかな、そんなぼんやりとした想いが叶う日は、案外すぐにやって来た。
 ブチャラティはこの近辺をよく巡回しており、大学前の通りもそのルートに入っていた。
 しばらくは物陰から見つめるだけの日々が続いた。彼は誰にでもわけ隔てなく接し、街の人々からも慕われていた。

 ある夜、がキッチンで唯一の趣味と呼べるお菓子作りをしていると、アリーチェが言った。

「コレ、ブチャラティにプレゼントシタイワ」
「え?プレゼント」
のオ菓子、キット喜ぶワ」
「ソレスゴク良い案ネ」

 普段無口なクリスティーナも加わった。小さな友達たちは皆ブチャラティに会いたがっていた。それはつまり自身の心の声なのだが、当時の彼女にはまだその自覚はない。

「そう……ね。そうしようかな」

 考えるだけで心臓をつかまれたような苦しさと、不安と、小さな希望が頭をもたげた。




───後日、リストランテリベッチオにて

「ぼくが学校でテストを受けている間に、そんな面白そうなことがあったんですね」

 少年が首を傾げて興味深げに言う。胸元をハート型にくりぬいた変わった形の制服を着ている。

「な?面白ぇだろ?その女っつーのがよォー、またスゲー美人でな。最初見たときはもうおったまげたぜ」
「へえ、それはぜひ見てみたいですね」
「おまえ……口説くなよ。ブチャラティに殺されるぜ?」

 グイード・ミスタは声をひそめ、チームの新入りである少年──ジョルノに耳打ちする。正午を少し回った現在、リストランテの個室には彼らしかいない。ジョルノはやや驚いたように言った。

「それはつまり、二人はそういう関係ってコトですか」

 ミスタはわざとらしく腕組みをする。

「そこなんだよなァ。ブチャラティは何も言わねーし、どうもそんな雰囲気でもなさそうだしよォ」
「じゃあ聞いてみたらいいでしょう」
「バッ、聞けるかよッ」

 大げさに首を振る仲間を見て、ジョルノは溜息をつく。なかなかに興味を引く話題ではあったが、その女性と面識のないジョルノには雲をつかむように手ごたえのない話でもあった。

「まあ、その女性はブチャラティのことが好きなんでしょうね」
「オレも最初はそう思ったんだけどよー。つーかオメー、なんで言い切れるんだ?」
「わかりませんか?」

 ジョルノはテーブルの皿に手を伸ばす。そこにはメレンダ(おやつの時間)に適した軽食が乗っていた。
 ジャムをサンドしたクッキーを一つ取り、ぱきんと噛む。

「その女性の能力は、味覚の操作なんですよね」
「ああ。ブチャラティはその女の寄越したモンしか食えなくなってた。他の料理は「ゲロ」みてえだって言ってたぜ」
「食べることは生きることと同義です。つまり」

 二人は自然と内緒話でもするように顔を寄せる。背後のドアが静かに開いたことには気づかない。

「食欲を支配するっていうことは、相手の人生まで支配することと同じで、要は「あなたの全部が欲しい」ってことでしょう?」

 戸口に立つ男が盛大にむせた。




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