ボスと笑わない秘書09



 立ち飲みバルを出た二人は無言で歩いていた。互いの腰に回した腕をすみやかに引き、一定の距離を保っている。夜気に触れた瞬間我に返ったとでも言わんばかりに。

「どこに行かれるんですか」
「カプアーナ門まで。さっきミスタと話して、そこで落ち合う約束をしました」

 交わした会話はこれだけだった。

 辺りは静かだった。ネアポリス中央駅からほど近い立地だが、観光客の訪れない住宅街で、一階は店舗、二階以上は住宅となった古い建物が続く。営業中のバルやリストランテから灯りが所々漏れていた。

 なぜあんなことを口走ったのだろう、とジョルノはもうずっと考えていた。

「そっちこそ、人のアモーレに気安く触らないでくれ」

 その言葉は考えるよりも早く口をついて出た。

 ナターシャと名乗った女。あまり品の感じられない女で、を侮辱する発言には見過ごせないものがあった。例えるなら、卸したての白いシャツを泥のついた靴で踏みにじられるような感覚だ。
 極めつけは連れの男だ。男がの肩に腕を伸ばした瞬間、ジョルノは駆け寄っていた。あの男に対し、激しい怒りを覚えた。我慢がならなかったのだ。

 は優秀な秘書だ。彼女が部下になってから、ジョルノはずいぶんと助けられている。
 考えた末彼は、部下を守るのは当然のことだ、と結論付けた。アモーレと呼んだのも他意はない。無意識下のけん制だ。もう二度とあの男がに気安く触れないように。
 伏せていた目を上げ、前方を見据える。路地を抜けた先は開けた通りで、二つの塔に挟まれた大理石のアーチがもうすぐそこに迫っていた。

「ボス」

 とが呼んだ。ジョルノが顔を向けるとはいつもの変化に乏しい顔つきで言った。

「先ほどは、見苦しいところをお見せしてすみませんでした」
「見苦しい……?ああ、さっきの」
「つい、感情的になってしまいました」
さんでもあんなふうに怒りを露わにするんですね。クールなあなたも素敵だけれど、熱いあなたも素敵だ」

 からかわないでください、とが顔を背ける。からかったわけではなかった。純然たる本音だった。
 少しの間を置いてから、はつぶやくように言った。

「失望されましたか」
「え、なぜですか」
「あんなふうに取り乱してしまって、ボスから目を離してしまいました」
「それだけ許せない発言をされたから、でしょう」

 は沈黙した。彼女の口から何か新たな言葉が出てくるのでは、とジョルノは待ったが、ただ沈黙が続いただけだった。
 彼は気を取り直して言う。

「君は最初、あの二人連れから離れようとした。しかし、どうしても聞き捨てならないことを言われて戻った。父親にもみ消してもらった、の部分ですよね」

 の張り詰めた表情にただならぬものを感じる。「嫌なら答えなくてもいいですが」と彼は付け加えた。
 しばらくの間、は黙っていた。もうすぐ路地を抜ける。迎えの車はもう到着しているだろうか。自然と足取りが重くなっていく。

「私と両親の間には確執があります」

 長い沈黙の末に彼女は言った。

「それは薄々感じていました。逮捕された君を救ったのは今は亡き祖父の古い友人でしたね」

 はっと顔を上げたが口元をゆがめる。その表情は拒絶とも取れて、これ以上踏み込んでいいものか判断がつかない。ジョルノが躊躇しているとの方から切り出した。

「私、両親に愛された記憶がないんです。私も愛していないのでお互い様ですが」
「……失礼を承知で訊きますが」
「実子です。血は繋がっています」

 言葉の先を読み取ってが言う。

「今時、と思われるかもしれませんが、私の家は男児優先の家系です。私は最初からいらない子供でした。おまけに可愛げのない子供でしたので、尚更」
「可愛げがない、と言うならそうさせたのは君の両親だ」
「どうでしょうか。私は昔から自分の感情を表に出すことが苦手です。持って生まれた資質のようなものだと理解しています」
「たとえそうだとしても、人は変わることができる」

 が顔を向けた。そうでしょうか、と身構えた様子で言った。

「ええ。ぼくはそう信じています」

 ジョルノは自身の過去を思い返していた。他人の顔色ばかりをうかがい、根暗でいじけた目をしていたあの頃の自分を。
 あのギャングとの出会いがなければ自分は今頃どうなっていただろうか。今も変わらず暗い目をしていたはずだ。
 二人は路地を抜ける手前でどちらからともなく足を止めていた。
 は小さな声で続けた。

「これでも、両親の興味を引こうと努力した時期もありました。彼らの決めたレールにも乗りました。ですが、全て無駄でした」
「あの事件、ですね。あなたは陥れられただけだ。運が悪かったんだ」
「わかりません」

 一瞬、の目線が不自然に揺らいだ。そこに暗い影が落ちたことにジョルノは気づいた。

「もしかしたら、私が殺したのかも」

 ジョルノはうつむくを見つめた。

「え?今、なんて」

 が小さく瞬きをする。どこか虚ろだった瞳に精気が戻り、彼女は顔を上げた。いつもの毅然とした態度だった。

「すみませんボス、何でもありません。急ぎましょう、すでにもう迎えの車が到着しているかもしれません」

 先ほどミスタに連絡を取ってからもう十五分近く経つ。高台のアジトからここまでう回路を使ったとしても数十分程度だ。
 ジョルノは迷っていた。
 今、ミスタたちと合流すればこの話はきっとうやむやになる。今この瞬間、この場所だからこそは打ち明けたのだ。

さん、ぼくは」

 言いかけたとき、歩いて来た方向、十メートルほど戻った位置に男が三人いることに気づいた。そちら側は暗く、人相まではわからない。大柄の男たちだった。
 尾行者がいたのか?彼の厳しい顔つきに気づき、も振り返る。近づくにつれ、その風貌がよりはっきりとした。揃いの作業服を着た職人風の男たちだった。
 上司をかばうように一歩前に出る。ジョルノは耳打ちした。

「心配ない、ただの一般人だ」
「ですが、こちらをじっと見ています」
さんがベッラだからですよ」
「ふざけないでください」

 スカートをたくし上げ、太もものホルスターに添えた手をジョルノがすかさずつかむ。

「その銃を抜くことは許さない」
「……ボス、あの男たち、さっきのバルにいました。サッカーの話で盛り上がっていた連中です」
「え、そうなんですか。忘れ物でも届けてくれたのかな」
「本気で言ってますか?」

 苛立った様子だった。彼女が見せる変化はそれがどんな感情であれ珍しく、ジョルノはまじまじと見つめてしまう。

「そこで止まってッ、私たちに何か用?」

 残り五メートル、というところでが叫ぶ。男の一人が腕に包帯を巻いていることがわかった。苦痛に顔を歪めているが、どこか大げさで芝居がかっている。

「その腕、どうしたんですか」

 ジョルノが問いかけると、別の男が口火を切った。

「コイツはさっきおまえが割ったグラスで怪我をしたんだぜ?これじゃあ仕事にならねえよなァ、どうしてくれんだ?ええ」

 二人は思わず顔を見合わせた。

「ほら、やっぱりただの一般人だ」
「ですが、ゆすられています」
「そうですね、ゆすられている」
「ボスがグラス一つに百ユーロも出すからですよ。あれではたかってくれと言っているようなものです」
「オイ、おめーら何ゴチャゴチャ喋ってやがるッ、コッチは怪我してるっつってんだよ!誠意を見せろよッ、真心をよーーーッ」
「ボス、この手を放してください、ここは私が」

 彼の手は今もグリップを握るの手首を強く握り、抑えつけている。はそれを全力で振り払おうとするが叶わなかった。

 ジョルノはそのとき妙案を思いついた。だけでなく、知ればフーゴも激怒するだろう妙案を。ミスタだけは笑い飛ばしてくれそうだ。
 彼は白々しく言った。

さん、彼らは危険だ。ただの一般人かと思ったが、そうじゃあないかもしれない」
「え……?」
「もしかしたら武器を隠し持っているかも」
「あの、おそらくですが、もし銃を持っているならスデにもう抜いているかと。あの手の輩は武器があるなら先に出して威嚇に使います」
「とにかく危険だ、ここは逃げましょう」
「え、ボスっ」

 ジョルノがの手を取って走り出す。一瞬呆気にとられた三人だが、すぐに罵声混じりに追いかけてきた。
 建物と建物の隙間を通り抜け、露天市場を横目に再び旧市街に紛れ込む。
 迎えの車が来るはずのカプアーナ広場がどんどん遠ざかっていくことには焦っていた。

「どこに行くんですボス、なぜこっち側に」
「すみません、慌てていたので咄嗟にこっち側に来てしまった」

 車がぎりぎりすれ違える程度の狭い路地が方々に伸びた旧市街。
 落書きだらけの古い集合住宅がひしめくように建つ。走っても走っても似たような風景が続き、住み慣れた者でなければ迷ってしまう。
 違法駐車も多く、アパルトメントのエントランスはどこも頑丈なロートアイアンで施錠されていた。

「っ!」
「どうしました」
「ヒール、が」

 が膝を曲げて靴底を見せる。細いヒールがぽっきりと折れていた。彼女は恨みがましく言った。

「だから、こんな靴じゃあ走れないと言ったんです」
「そうですね」
「本当にわかっていますか、ボス」
「ええ。これ以上走れないなら隠れるしかない。ここは……ポスティカ通りか」

 目を伏せて思案していたジョルノがぱっと顔を上げた。「さん、あともう少しだけがんばれますか?」

 戸惑うを連れ、先を進む。彼の足取りに迷いはなく、この辺りを知り尽くした様子だった。
 道幅がさらに狭まり、細道を抜けるとその先は開けていた。ジョルノが足を止めたのは、長い塀に囲まれた寺院のような建物だった。

「ボス、ここは」
「──ここは、あ、ちょっと失礼」

 断って、ジョルノはスーツの内ポケットから携帯電話を取り出した。受信ボタンを押すと待ちくたびれた様子の声が耳に届いた。

『もう着いてるぜェ、まだかよ』
「すみませんミスタ、今旧市街にいます」
『はァ?』
「実はちょっとしたアクシデントがありました。チンピラに襲われて逃げている内にこっちの方まで来てしまった。まだヤツらがうろついているかもしれないので一先ず隠れます」

 ミスタはたっぷりの間を置いて言った。

『おいおいおいジョルノさんよォーー、まーだ遊びの時間が足りねえか?』

 その声は笑っていた。全てを察したような口ぶりにジョルノの口元もゆるむ。

「ええ、あと少しだけ」
『あのなァジョルノ、おめーちっとは立場ってモンをよォ』

 旧知の仲間は言いかけたが、諦めたように息をつく。急に口調を変えて、生真面目な声で告げた。

『あと”三十分”だ。オレはあと三十分だけここで待つ。一分でも過ぎりゃあ、そんときゃ親衛隊が動く。ヤツらは優秀だからよ、どこにいようがあっちゅー間に見つかっちまうぜ』
「彼らを止めていてくれたんですね、ありがとうミスタ」
『矢面に立ってんのはフーゴだぜ、まァ~オレもけっこうガンバったけどよ』
「わかっています」
『なァジョルノ、戻ったらキッチリ話し合おうぜ。オレたちはちょっとばかりでかくなり過ぎちまったよな、おめーに無理させてんのはわかってたんだ。許してくれ』

 ジョルノは微笑んだ。

「ええ、許します」
『おまッ、カワイくねえ野郎だなッ』
「迷惑をかけてすみませんでした。軽率で大人げない行動だったと今は反省しています」

 しおらしく謝罪するジョルノにミスタが押し黙る。にやっと笑った顔が思い浮かぶような沈黙だった。

『大人げねーもなにも、おめーはまだガキだろうがッ、ガキはまわりに迷惑かけてなんぼだぜ?こっちはお兄さんだからよォー、広い心で見守っててやるぜ』

 ケケケ、と笑い声が届く。その朗らかさに何度救われただろうか、とジョルノは身に染みる思いだった。

 話を終えると、がすかさず声をかけた。

「ボス、今のは幹部ですか?幹部は何と?」
「話は後で。まずは隠れましょう」
「ここに入るんですか?施錠されていますよ」
「大丈夫です」

 門扉はたしかに施錠されていたが、ジョルノが南京錠に手を添えると跡形もなく消滅した。は目をまん丸くした。

「そんな顔もするんですね、普段からもっとそうしていたらいいのに」
「いえ、あの、今」
「どうぞ」

 とジョルノが差し出したのは、一輪の黒いダリアだった。
 それはジョルノのゴールド・エクスペリエンスの能力であるのだが、スタンド使いではないには見ることができない。

「ここは安全です、入りましょう」

 門扉の両脇には立派な門柱があった。そこにはネアポリス中・高等学校と刻まれていた。

「ここはぼくが以前通っていた学校なんです。さ、早く」

 戸惑うの肩を押し、ジョルノは敷地内に足を入れた。
 水を打ったように静まり返った夜の学校、守衛室の灯りも消えている。本校舎の手前には中等部寮がある。数年暮らした懐かしの寮だ。今は無人のグラウンド、学校樹のプラタナス、芝生の広場もベンチも、何もかもが懐かしく胸に迫った。

「やはり嘘をつくのはちょっぴり胸が痛むな。すみませんさん、正直に言います。さっき逃げたのは演技でした」

 は本気で困惑した顔をした。
 今日だけで彼女はいろんな表情を見せている。それだけ打ち解けた証だ。良い兆しであるようにジョルノには思えた。

「……ボス、もう少しわかるように説明して頂けませんか」
「ぼくはもう少しだけさんと話がしたかったんです」
「いつでも話せます。それとも、私はもうお役御免ですか?」
「そういう意味ではない。ぼくはこれからも君にはぼくの秘書を続けて欲しいと考えている」
「それならなぜ」
「さっきの、私が殺した、とはどういう意味ですか」

 が厳しい顔つきで黙った。ジョルノは畳み掛けるように言った。

「さっき、そう言いましたよね?聞き間違いなんかじゃあない、あなたは確かにそう言った」
「それは」

 は言葉を詰まらせた。
 今なら話してくれるかもしれないが、明日ではもう遅いかもしれない。
 彼女が普段の彼女に戻ってしまう前に、この特別な夜をまだ終わらせるわけにはいかないとジョルノは考えていた。

「ぼくは君が人を殺せるような人間だとは思っていない。何か事情があるのなら、ぼくはそれを知りたい。君のことがもっと知りたいんだ」




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