ボスと笑わない秘書10
・の生家はかつて銀行業で財を成したローマでも屈指の名門貴族の末裔にあたる。
最近ではその繁栄に陰りを見せているが、それでも同族企業を多く有する資産家一族で、当主であるの父親は美術品コレクターとしても名を馳せている。
長子相続の制度が廃止された近年においても、の家は古くからの慣習を続ける男子優先の家系だった。
は産まれたときから「いらない子」であった。
彼女が産まれた日、母親はさめざめと泣いた。出産時のトラブルで、もうこれ以上子供をもうけることができなくなったのだ。
男子に恵まれなかった両親は、ほどなくして分家から優秀な男児を養子に迎えた。
衣食住には困らない。玩具も教育も過不足なく与えられたが、愛情だけがなかった。スクォーラプライマリアで行われたダンスの発表会の日、はそれを思い知った。現れたのは乳母一人だけであった。
育ての親であり、の教育係でもあった乳母は優しい女性だったが、の不遇を直談判したせいでクビになった。
その頃から、は荒れるようになった。家に帰らず、街の不良たちと行動を共にして、何度も補導された。その都度家に連れ戻された。体裁という、ただそれだけのために。
父親の態度は頑なだったが、母親は気まぐれに優しさを見せることがあった。そのせいで、は自分を責めた。悪いのは両親ではなく自分なのだと。自分がもっと可愛げのある子供なら両親の態度も違ったのだろうと。
中高一貫の名門女子高に入学し、イタリアでもっとも権威のある大学にも進学した。卒業後は同族企業の一つに就職することもほぼ決まっていた。
しかしある日、は気づいてしまった。これらは全て両親が望んだ進路であり、これから家督を継ぐだろう弟の姉として恥ずかしくない経歴でしかないことを。
「大学を中退したのは、早く自立がしたかったからです」
は淡々と告げた。隣に座るジョルノは軽く相槌を打つ。
二人は今、ネアポリス中・高等学校の敷地内にある中等部寮の裏手の非常階段に座っていた。
寮の裏手にはプラタナスの並木道があった。常夜灯の薄ぼんやりとした灯りが無人のベンチを照らしている。
は錆びて腐食した手すりに目を向けて続けた。
「お世話になっていた教授の口添えで、私は小さな市会議員の事務所に就職しました。初めは秘書室補佐でしたが、半年ほどで正式採用になりました」
「ぼくは就職というものをしたことがないのでよくわからなんですが、議員秘書というのは大学を中退していてもなれるものなんでしょうか」
「それは事務所のボスの考えによります」
「君のボスは学歴主義ではなかったと?」
そうですね、とはこたえる。
「ボスは立派な人物でした。汚職問題にも積極的に介入し、ゴミ問題や教育、雇用不安や慢性的な渋滞問題にも熱心に取り組んでいました」
「いくら立派な政策を掲げても、所詮は自己保身の男だ。あなたに濡れ衣を被せるような」
濡れ衣、とはつぶやく。
彼女は手の中の一輪の花に目を落とした。
先ほどジョルノがどこからか取り出したブラックダリアだ。何層にも重なった花弁はビロードのように艶やかで気品がある。造化ではなく、それは生きた花だった。
「あの日、ボスから急ぎの用を申し付けられました。忘れ物をしたから取りに行って欲しいと」
喋りながらも、彼女は迷っていた。
あれは本当に冤罪だったのだろうか。自分の身に起こった出来事なのに、どこか夢の中にいるようで確信が持てない。
「続けて」
うつむくにジョルノが促す。顔を上げ、彼女は小さく息を飲んだ。
自分を見つめるグリーンの瞳に別の面影を見た。
似た色の瞳をしていた。のボスは希望と信念に燃える精力的な目をした男で、彼はローマ市の、ひいてはこの国の未来についてに熱く語った。
彼女の生い立ちを気遣い、親切にもしてくれた。年齢的には年の離れた兄と妹といった年齢差だが、は彼の中に父性を感じた。
父親から与えられなかった愛情を彼の中に求め、一上司に対する以上の親愛の情を抱いていた。
彼には妻もいたが、愛人もいた。
「忘れ物をしたんだ。悪いが取りに行ってくれないかい」という彼の言いつけ通り、はローマの市街地にあるホテルに足を運んだ。
部屋では女が死んでいた。
その後、絶妙なタイミングで警察が現れた。彼らはを「重要参考人」として連行した。
どれだけ尋問されてもは黙秘を貫いた。
実際のところ、喋りたくても喋れなかったのだ。ホテルに着いたあとの記憶が霞みがかったように曖昧だった。
気がついたらナイフを握っていて、ベッドで女が死んでいた。
ナイフは果物ナイフだった。ルームサービスのフルーツの盛り合わせに添えられていたものだ。落ちているナイフをたまたま見つけて拾い上げただけなのか、自らの意思でワゴンから取ったのか。それすらには思い出せなかった。
なにより、には動悸があった。
その女とは初対面ではなかった。女はボスの愛人で、最近ではしつこく彼に付きまとっていた。彼の立場を脅かす存在としては女に対して憎しみにも似た感情を抱いていた。どうにかして遠ざけたいと考えていた。
「強烈なショック体験や強い精神的ストレスを受けると心がダメージを負って一時的に記憶障害などが起こる場合がある、と何かで読んだことがあります」
手元をじっと睨みつけていたが顔を上げた。
目が合うと、ジョルノは無言でうなずいた。
「調書によると、君は死んだ女、ボスの愛人と以前言い争っている場面を目撃されていた。おまけに状況証拠は揃っている。犯人としては申し分ないほどに」
「ええ、そうです。私以外には考えられない状況です」
「そうなるように仕向けられただけだ。君の黙秘は犯人にとっては想定内だったのでしょうね」
「それは、わかりません」
「いや、おそらくそうだ。結果として、あなたは証拠不十分で釈放された。あれだけの状況証拠がありながら。だが、組織の力がなければ君は起訴されていた。おそらく、有罪にもなったハズだ。それで良かったんですか?」
「先ほどもお伝えしましたが、本当に覚えていないんです。私が殺した可能性だってあります」
「動悸があるから、ですか」
は顔をこわばらせた。
「ええ、私は彼女に対して負の感情を抱いていました」
「だが、思うのと実際に手を下すのとではそこには大きな隔たりがある。君は人を殺せる人間じゃあない」
短い沈黙のあとで、は困惑ぎみに尋ねた。
「なぜ、そう言い切れるのですか」
「震えていたからだ」
ジョルノが体ごと向き直り、の手を取った。膝と膝がぶつかる。彼はが握りしめていたブラックダリアを潰さないよう、彼女の右手を両手で柔らかく包み込んだ。
「さっきグリップを握った君のこの右手は震えていた。どれだけ銃の腕が上がっても引き金を引けなければ意味はない。人間には二種類いる。人を殺せる人間と、そうではない人間だ。君は”殺せない人間”だ。そんな君が、多少の諍いがあったとしても誰かの命を奪うとはぼくは思わない」
ジョルノ・ジョバァーナはきっぱりと言い切った。
そこに疑う余地はない、とでも言わんばかりの強い眼差しで。
誰もが自分を疑った。自分自身でさえ疑った。救い出してくれた老人も、の冤罪をどこまで信じていたかは定かではない。君のおじいさんに恩義があるんだよと老人は告げた。
もうこの街にゃあいづらいだろ、一緒に来いよ、と誘われたとき、は彼の手を取った。グイード・ミスタだ。
風光明媚な景観で知られる観光都市、ギャングが幅をきかせる生命力あふれるこの街ではギャングとなった。
はジョルノの瞳を見つめ返した。深く澄んだエメラルドグリーンの瞳。なぜ、あの人と似ていると思ったのだろうか。そう思ったこと自体がもう不思議でならなかった。
辺りは静かだった。虫の鳴く声もない。時々微風に揺れた葉擦れの音だけがあった。
「とても不思議ですが」
彼女は軽く呼吸を整えてから、落ち着いた声で言った。
「ボスにそう言われると、信じられるような気がします」
「気がする、じゃあない。自分を信じるんだ」
「……はい」
「さんが望むなら、その男を締め上げてもいい。まだシャバにいて、市政について熱く語っているんでしょう、ソイツは」
言いかけて、ジョルノは驚いたように目を大きくした。
は頬を伝い落ちる温かさを感じた。目の縁に浮かび上がった涙の膜があふれてこぼれ落ちている。
「──待ってくれ、ぼくはッ、あなたを泣かせるつもりじゃあ」
彼は繋いだ手を離し、やや早口に言った。
普段の彼らしくない、取り乱した様子だった。は自然と頬がゆるみ、口許がほころんだ。
絶句したのはジョルノだった。彼の表情は目まぐるしく変わっている。彼は信じられないものでも見たように瞬きを繰り返した。
「え……今、笑いましたか?」
「え?」
「え、じゃあないですよ。さん今、笑ったでしょう」
は眉を寄せ、怪訝そうに返した。
「それがどうかしましたか、私だって笑うくらいします」
言いながら、は以前ミスタに言われた言葉を思い出していた。
ジョルノは以前ミスタに、の笑った顔を見たことがあるかと尋ねている。
愛想がないと暗に言われているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
もっとラフに喋って欲しい、という要望は受けたが、それ以外は特に何も要求されていない。ただの興味本位からの発言だったのか、彼の真意はわからない。
は手で目元をぬぐった。涙はもう止まっている。
こんなにも真っ直ぐに自分の思いを口にしたのは初めてのことだった。
ジョルノ・ジョバァーナという青年には惹かれていた。以前の上司に抱いていた父性とは違う、恋心とも違う、もっと深い敬愛の念だ。
「ありがとうございます、ボス。あの日のことを、こんなふうに話せる日がくるとは思ってもいませんでした」
「これからも、何かあったら話してください。ぼくでも、ミスタでも」
「はい」
「ぼくは、あなたを……あなたのことを、とても有能な秘書だと思っている」
は礼を伝えた。
「ありがとうございます」
「別に礼など言わなくていい。実際、ぼくらはとても助かっているんだ。これからも、君にはぼくの……ぼくの下で働いて欲しいと思っている。だが、君の気持ちをまだ聞いていないような気がする。さんは、今のこの現状に満足しているんですか」
ジョルノはカールした前髪に手をやって無造作に乱した。ずっと被っていたベースボールキャップはバルに置き忘れてしまったが、学生のようなスタジャンに細身のデニム、足元のワークブーツも、普段のドン・パッショーネとはまた違った等身大の魅力があった。
「私は今、この生活に満足しています。ギャングになったことにも後悔はありません。なにより、あなたの下で働けることを誇りに思います」
ジョルノは一瞬驚いたように目を開いたが、ふいっとそっぽを向いた。
それが彼の照れた表情なのだとは気づいた。
つい、本音が漏れてしまった。
「そんな顔もするんですね、とても素敵です」
ジョルノはぎょっと目を剥いて、それから照れ隠しのような咳払いをした。
「──何を、言っているんだ、あなたは」
「すみません」
初めてその姿を目にした日─組織主催のパーティ会場で遠目に見たあの日─はただ驚いた。こんなにも綺麗な青年が組織のボスなのかと。
彼に仕えるようになって徐々にその印象は変わったが、時々、本当にふとした瞬間にその美しさに驚くことがある。
もちろん外見だけではなく、彼は内面も気高かった。時には冷徹に、時には友愛と敬愛を持って組織を導いている。
彼はよく微笑む。事務所のスタッフに、食事を運んできたウエイトレスに、街角の老人に、敵対する組織との会合の場で。
その場その場に適した非の打ちどころのない笑みだ。彼はそれをほぼ無意識に使い分けている。
けれど、今日が目にしたのはもっと自然体の、十代の青年が持つ無防備な素の表情ばかりだった。
「今日、こうしてボスと出かけることができてとても楽しかったです」
「ちょっと、待ってくれ」
遮るようにジョルノが言った。
「どうかされましたか」
「わかっている。そろそろ戻らなければ、ミスタとの約束の時間を過ぎてしまう。君はもう、この場を切り上げようとしている」
「それは、そうですが」
「ぼくが言いたいのは」
彼はそこで言葉を切って、改まった口調で続けた。
「ぼくらは今夜けっこう距離が縮まったし、わかり合えた気もする。だが、明日になったらさんはまたいつものさんに戻ってしまうんじゃあないですか」
「いつもの私……ですか?いつも、いつもの私ですが」
「今夜の君は、いつもより可愛い」
今度はが動揺した。心なしか熱のこもった瞳に射すくめられ、は動くことができない。
酔ってる?彼女はまず考えたが、ジョルノが立ち飲みバルで口にしたのは瓶ビール一本だけだった。
「ですが、ボス、あの、そろそろ……」
言いながら、彼女は視線をさまよわせる。ひどく動揺して挙動不審になるをじっと見据えていたジョルノだが、ふっと息を漏らして笑った。
彼はおもむろに立ち上がり、わかっています、とだけ告げると階段を降り始める。
三十分を過ぎれば親衛隊が動く。ボス直属の護衛集団だ。パッショーネが一新され、残るもの、去るもの、倒されるもの、としばらくは内紛が続いた。彼らはそんな中で抜擢された若き実力者たちだ。
ボスであるジョルノを命を賭してでも護るのが彼らの役目だ。中には探索能力に長けた者もいる。彼らをフーゴが止めていたからこその自由時間だった。
もちろん、組織のトップであるジョルノがその権限を行使すれば親衛隊も従わざるを得ない。だが、ジョルノはこれまでそれをしなかった。自分の立場をよく理解しているからだ。
「ぼくも、そろそろぼくの役目に戻らなければ」
はうなずいて、彼の隣に寄り添った。
胸の奥で大きな音をたてる心臓を落ち着かせるようにゆっくりと喋った。
「これまでとは違います。きっと、ボスの気持ちは伝わったはず。キチンと話し合いの場を持たれてください」
そうですね、とジョルノは返した。その横顔はもう威厳と貫禄に満ちたドン・パッショーネその人だった。
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