ボスと笑わない秘書07



『すみませーん、ココナッツとミックスベリーをお願いします』

 一軒のジェラテリアの前で女が言った。先払いしたチケットをカウンターに置く。アジア系の顔立ちの若い女だった。

「はいはい、ココナッツとミックスベリーね」

 太った店員は微笑むが、チケットを目にして顔を上げる。「ああ、悪いねお嬢さん。スタンダードの方のコーンがさっき切れたんだ。クリスピーに変更してもいいかい?」

 店員はジェラートケースの奥から問いかけた。女性客は連れの女と顔を見合わせた。

『あのおじさんなんか言ってるよ、何て言ってるの?』
『わかんないよ、そんなの』
『チケット買い間違えちゃったかな?スモールサイズってジェラート二種類選べるはずだよね』
『……そのはずだけど。ちゃんと伝わってないのかも。指でさせば?』
『そうね。これです、こ・れ・と・こ・れ!』

 女はやや大げさに言って、ココナッツとミックスベリーをケース越しにさした。

「それはわかったから、コーンの種類だよ。クリスピーに変更してもいいかい?二ユーロほど追加でもらうことになるけど。わかるかい?二ユーロだよ」

 店主はゆっくりと言葉を繰り返す。それでも聞き取れないらしく女性客二人は戸惑っていた。ネアポリスの目抜き通りにある人気のジェラテリア、急かす者こそいないが客の列は少しずつ伸びていく。
 そのとき、ちょうど傍を通りがかった少年が声をかけてきた。

「ボンジョルノ、シニョリーナ」

 シンプルな黒のベースボールキャップを目深に被り、タイトなパンツにスタジャン、足元にはワークブーツを履いている。どこにでもいるごく普通のファッションの若者だが、キャップからチラッと覗くブロンドややたらと強い眼差しに女性二人は身構えた。

『あ、あの……』
『君たち日本人だよね』
『えっ、お兄さん日本語喋れるんですか!?』
『まあね。この店には二種類のコーンがあるんだ。君が注文したスタンダードのコーンが今切れていて、クリスピーに変更してもいいかって彼は尋ねているんだ。差額が二ユーロかかると言っている』
『あ、そうだったんだ!もちろん大丈夫です』

 問題は解決して、彼女たちはそれぞれのジェラートを手に弾けるような笑顔を彼に向けた。

『ありがとうございました!スッゴク助かりました』
『いいんですよ、困ったときはお互い様だ』

 少年が爽やかに微笑む。光り輝く太陽よりも眩しいその笑みに女性客二人は頬を赤らめたが、彼らの間に割り込む人物がいた。

「ボス、何をしているんですか」

 現れた女は冷ややかな声で言った。

さん」
「目立つことはやめてください。突然どこに行くのかと思いました」
「すみません。彼女たち、困っていたもので」

 女はアジア人二人に目を向けた。その眼差しは少年のものとはまた違った鋭さがあり、女性客二人はたじろいだ。

『あの女の人……なんか怒ってない?』
『怖い顔してるよぉ』
『どうしよう、何か失礼なことしちゃったのかな』
『取り合えず謝っとこ!えーと、”Mi dispiace”』

 女は不思議そうに首をかしげた。

「なぜ謝るの?」
さんが怖いからじゃあないですか」
「私、怖いですか」
「ええまあ」
「そうですか」

 女は一度目を伏せた。何かを考え込んでいるようだったが、すぐにまた顔を上げて視線を戻した。

「怖がらせてごめんなさい。旅行、楽しんで」

 と言うと少年の背にそっと手を添えて歩き出した。歩くたび、レトロなチェック柄のフレアスカートが揺れる。膝上二十センチと短く、そこから伸びた脚線美がエナメルのパンプスに収まっている。
 二人の姿が遠ざかると女の一人がほっと息を吐いた。

『はあービックリしたねー』
『きれーな人だったね、怖かったけど』
『最後なんて言ったのかな?』
『”私の彼に近づかないで!”とか?』
『ああーそうかもそうかも!でもさあ、脚きれーだったね。実は有名なモデルさんだったりして』
『男の子の方もキレイだったよねッ、顔見た?』
『見た見たぁッ!ちょーイケメンだった』
『あー写真撮らせてもらえばよかったぁー』

 女性二人があーだこーだと言い合っているうちに先ほどの男女は人波に紛れて消えた。
 カフェやバル、専門店などが軒を連ねる目抜き通りは人通りが途切れることはなく、色鮮やかなパラソルの下からは楽し気なお喋りが届く。
 さりげなく歴史的建造物が点在し、かと思えば近代的な建物もある。古きと新しきが混在する街、ネアポリスの午後は今日も賑わっていた。





「あ、しまったな」

 つぶやいて、少年が足を止めた。

「ぼくたちもジェラートを買えば良かったですね」
「そうですね」
「絶対思っていませんよねさん」
「そんなことはありません」
「じゃあさっきの店まで戻ります?」
「さっきの店はダメです。あれは観光客向けの店です」

 と女、が言い切る。隣に立つ少年、ジョルノ・ジョバァーナは不思議そうに目をすがめた。

「観光客向けの何が悪いんです?値段が法外ってわけでもない」
「あの店のジェラートはおそらく工場で大量生産されたものです。上乗せの生クリームも有料でした。たぶん、コーンも自家製ではないでしょう」
「え、そうなんですか。なぜわかるんです」
「フレーバーの種類が多すぎたり、ケースに山盛りに盛られているのはダメです。以前バイトしたことがあるのでわかります」
「……さんが?ジェラテリアで?」
「あの店に行きましょう」

 が目を向けた先、メイン通りから一本横道に入った狭い路地に小さなジェラテリアがあった。
 通りは陽が差さないせいで薄暗く、至る所にびっしりとスプレーの殴り書きがあるが、店の雰囲気は素朴でアットホームだった。
 店内には狭いが飲食できるスペースがあり、口元をべたべたにしてジェラートを頬張る幼児とそれを見守る若い父親の姿があった。

「ヘーゼルナッツとヨーグルトを」
「ええと、ぼくはチョコレートとピスタチオを」

 二人は店内飲食ではなくテイクアウトして、ジェラートを舐めながら再び歩き出す。ジョルノは満足げに言った。

「確かに美味しいですね。味が濃厚だし、このコーンもお菓子みたいにサクサクだ。きっと店で手焼きしているんでしょうね」
「おそらく」
「でも、意外だな」
「何がですか」
さんがジェラテリアの売り子だったとは。そもそも、ジェラートとか食べない人かと思っていました」

 は静かな抗議の目を向けた。そんな彼女をジョルノは面白そうに眺めてから小さくなったコーンを口に放り込んだ。

「何か、ボスは私に対して誤解があるようです」
「誤解というよりは知らないんですよ、ぼくはまだあなたのことを。他にはどんなバイトを?」
「メルカートやレンタカーショップの受付など。全て大学時代です」
「へえ、学業もあるのに働き者ですね」
「そうでもありません。中退しましたから」
「ああ、そうでしたね。プロフィールに記載があったな」

 彼は言って、真っ直ぐに前を向いたままなんでもないような口調で付け足した。

「大丈夫ですよ、尾行者はいない」

 は驚いて目を大きくした。

「さっきからずっと背後を気にしている。そんなにピリピリしてたんじゃあよけいに怪しい。もっと普通にしてください」
「……すみません」

 さりげなくを装っていたつもりだったが、ジョルノにはお見通しだったようだ。彼は若いが相当の場数を踏んでいる。死線をくぐったことも一度や二度ではないだろう。経験が圧倒的に違うのだ。

 それでも、とは思う。
 今この場で彼を守れるのは自分だけなのだ。
 守る、という考えがすでにおこがましく、ただのうぬぼれであることはわかっているが、それでも考えずにはいられない。
 こうなった原因は自分にある。すでに深く後悔しているが、彼をたきつけたのは他でもない自分なのだ。

「映画でも観ますか」

 ジョルノ・ジョバァーナがのん気に誘う。見ると進行方向に小さな映画館があった。

「──いえ」
「もう少し楽しそうにしてくれないかな、せっかくのデートなのに」
「……」
「不服そうですね」
「そういうわけでは」
「そうだ、腕でも組みますか。それとも腰を抱かれる方がお好みで?」
「ボス」
「怖いな、冗談ですよ」
「このスカート」

 は足元に視線を落とし、募った不満を口にした。

「丈が少し短すぎます」
「そうですか?スゴク可愛いですよ」
「この靴もそうです。これではいざというときに走れません」
「走らなきゃあいいでしょう」

 が無言のままに眉を寄せる。彼女にしてはけっこうはっきりと意思表示したのだが、ジョルノはお構いなしだった。

さんが地味なのばっかり選ぶからだ。普段絶対に着ないような服でなきゃあ変装の意味がない」

 ハイウエストのミニスカートもニットも体にフィットしたもので、ボディラインが強調されている。
 屋敷を出た彼らはまずブティックに寄った。
 職人がこだわりとプライドを持って作っているような老舗の店ではない。普段なら立ち寄りもしないティーン向けの安価なショップだ。

「ボスもよくお似合いですよ」

 含み半分、本音半分でが言うと、ジョルノはキャップに指をかけてあどけなく笑った。つばの下から垣間見えた瞳が楽し気で、彼がこの状況を心から楽しんでいるだろうことがよくわかる。

 ぼくとデートしてくれませんか、と誘われたとき、は耳を疑った。

「デートがダメなら、ただ一緒に出掛けてくれるだけでもいい。普通にショッピングしたり映画を観たり。そういうのをもうずいぶんしていないんだ」
「それでしたら、そのための時間を取りましょう」
「それじゃあ意味がない。君は誰かに見られながらするショッピングを楽しめるかい?デートは?」
「……いいえ」
「もちろん彼らには彼らの信念がある。ぼくを思っての行動だとも理解している。だから無下にはできないし、こんなふうに思うのは自分のワガママなんじゃあないかと思っていたんだ」

 彼は深く息を吸い込み、「さっきまでは」と抑えた声で言った。は無言でうなずいた。彼の気持ちは理解できた。
 とは言え、黙って消えれば大騒ぎになる。せめて伝言を残すべきだと忠告したに対し、ジョルノは一つうなずき、窓辺まで歩いた。

「少し出かけてきます。夜中までには戻りますので、見逃してください」

 と、ペットのカメに向かって言った。正確には、その中にいるという人物に向かって。その姿が見えないにはただの独り言のように思えてしまう。
 だが、実際にいるのだ。ジョルノだけでなく、フーゴやミスタにもその姿は見えており、彼らがカメを囲んで雑談する姿を彼女は何度か目にしていた。
 スタンド使いではないには見えない世界がそこにあった。

さん」

 声をかけられてははっとした。すっかり考え込んでいた。

「このままだと駅の方に出ますね。いっそユーロスターにでも乗ってどこか遠くへ行ってみますか」
「それはダメです」
「わかっていますよ」

 二人はカプアーノ城を迂回してその先の広い通りに出ていた。特に目的地を決めているわけではないが自然と足が事務所から遠ざかっている。

「そう言えば君、銃はどうしたんです」
「銃ですか」

 は見せつけるようにスカートの裾をちょっとだけ持ち上げた。ちらっと見えたのは太ももに装着されたレッグベルトとグリップだ。腰のホルスターがレッグホルスターに早変わりしていた。
 ジョルノ・ジョバァーナは短く息を飲んだ。素で驚いているようだった。

「セクシーですね」
「それはどうも」
「もう一度見せてく「嫌です」」

 は無意識に口元を引き締めた。
 もう後には引けない。もっとワガママに、自由になれとたきつけたのは自分だ。彼はその言葉通り、心のままに行動しているだけなのだ。
 自由に出歩きたい。普通の高校生がするようなことをしたい。金も女も権力も思いのままの男が望むにしてはささやかすぎる願いだ。
 だからこそ、叶えてあげたかった。夜には戻るつもりなのだ。ほんの少しのシンデレラタイムだ。それくらい、許して欲しい。


 その後二人は駅前に最近できた映画館に入った。さっき一度断った罪悪感からが誘うとジョルノは快諾した。なるべく隅っこの、人気のない席を選んで並んで座る。当然と言えば当然だが視界が悪く、は終始警戒していたが、あっけないほど何事もなく二時間が過ぎた。内容は靴職人と女流作家の悲恋の物語で、特に印象に残るシーンもなかったが、ジョルノは熱心に見入っていた。

「あのまま二人で逃げてしまえば良かったのに」

 映画館を出た直後、ジョルノは率直な感想を述べた。
 は携帯電話を確認するとポケットにしまった。

「仕方ありません。あの時代は今と違って色々と難しかったのです」
「1912年、ぼくが産まれる、七十年以上前か」

 感慨深げにつぶやく彼の頬に夕陽が差す。もう黄昏が迫っていた。

「ボス、帽子を」

 がさっと傍に寄って声をかける。前方にギャング風の男が二人現れたからだ。背を向けているジョルノからは見えず、彼は言われた通り脱いでいたキャップを被る。
 は無言でジョルノのスタジャンをつかんだ。ぐっと引き寄せたので二人の体がぶつかり、息遣いすら感じるほどに距離が近づく。
 ジョルノは目を見張ったが、すぐに得心したように声をひそませた。

「驚いたな、君がこんなに大胆だったとは」
「ボス、前からパッショーネの人間がきます」
「え?」
「振り向かないで」

 ジョルノの腋下に腕を滑らせ、胸元に顔をうずめるふりをしては彼ごしに二人の男を目視した。
 パステルカラーの集合住宅が立ち並ぶ狭い通りから現れた男たち。一人はグレーの中折れ帽を被った柄スーツの男で、その男に付き従うようにもう一人。舎弟の方は知らないが、兄貴分の方には見覚えがあった。

 ─あれは確か、駅前を仕切っているクラヴェロです
 ─知らないな。駅といえばC地区だ、スパディーニのところの構成員か
 ─そうです。誰かを探しているような様子ではありませんが、念のためこのままやり過ごしましょう

 ジョルノは一瞬だけ唇を尖らせた。その微妙な表情の意味がにはわからなかったが、彼女は黙って身を寄せた。傍から見れば恋人同士の抱擁のように見えるが、二人の間にはわずかな空間があった。それが一瞬で詰まる。ジョルノがの腰に腕をまわし、ぐっと抱き寄せたからだ。
 は驚いて身を硬くした。上半身がべったりと密着し、太ももが絡み合う。空気すらも入れないとばかりにきつく抱かれていた。

「し……このままで」

 ジョルノが耳元でささやく。その声が鼓膜をくすぐった。

 いかにも狡猾そうな若い男クラヴェロは肩をいからせ、舎弟の方は猫背で小股に歩きながら駅の方へと歩き去った。

「行ったようですね」
「はい……そのようで」

 は身を退こうとするが、腰を抱く腕が離れることはなかった。

「あの、ボス」

 顔を上げると至近距離で視線が交わった。は慌てて目線を外す。平常心ではいられなかった。
 ボス、ともう一度呼ぶとジョルノは今初めてその声に気づいた、とでも言いたげに目をしばたかせた。開放されたは二歩ほど距離を取った。

「失礼。ぼんやりしていました」
「いえ、私こそすみません」
「どうしてさんが謝るんですか。適切な判断でしたよ」

 心臓が激しく動悸していた。彼愛用の爽やかで上品な香りが今もまだ鼻腔に残っている。腕や胸、太ももなど、触れあっていた部分にはまだその感触があった。
 は気まずさを感じて彼に背を向けた。素っ気ない口調で言った。

「もっと、別の方法でやり過ごすべきでした。触れなくても、もっと別の」
「そうですか?こういうの、スパイ映画とかじゃあ定番ですよね。敵の目をごまかすために恋人のフリをするとか、そういうアレですよね」
「……そういうアレです」
「なら、問題ないでしょう」
「そうですね」
「じゃ、行きましょうか」
「ボス」

 引き止められ、ジョルノは足を止めた。

「映画館から出たときに確認しましたが、幹部から二件、フーゴ様から五件着信がありました。まだ聞いていませんがメッセージも何件か。おそらく、心配されています」

 彼はふうと大きく息を吐き出し、一度脱いだベースボールキャップを深くかぶり直した。

「まったく心配性な人たちだ。ぼくらはただデートしているだけだってのに」
「ボスも携帯の確認をなさってください」
「イヤですよ」
「なぜですか」
「ぼくはちゃんと伝言をしたんだ。夜には戻るとも伝えた。黙って出てきたワケじゃあない」
「わかりました。もう結構です」

 が言うと、ジョルノは瞬きをして、ちょっと動揺したように言った。

「怒ったんですか?」

 その言い方が普段の彼らしくなく年相応の少年のようだったので、も戸惑いを隠せなかった。

「いえ。あの、ええと、メッセージだけでも確認していいですか。何か急用かもしれません」
「今ですか」
「はい」

 ジョルノは考え込むように一瞬だけ黙ったが、やがて「どうぞ」と言った。




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