ボスと笑わない秘書06



 をディナーに誘ったとき、ジョルノには多少の下心があった。
 下心、と言っても邪なやつではない。ただ単に、普段と違う彼女が見られるかもしれない、という淡い期待だ。
 そしてその期待はある意味予想通り裏切られた。は飲酒しても顔色一つ変えなかった。
 そして、けっこうな量を飲んだというのに今朝も涼し気な顔で彼を出迎えた。

「おはようございます、ボス」

 凛と立つ姿は一輪の黒いダリアのようだ、と彼は思った。

「おはようさん、調子はどうですか」
「変わりありません」
「そのようですね、今日も絶好調って感じだ」
「それは、どういう」
「ああ、気を悪くしないで。いつも自分を律していてえらいなと思っただけですよ」
「ボスは、お気分がすぐれませんか」
「平気です。大して酔いも残っていない」
「あの後、お二人でどちらかに行かれたんですか」
「ええ、フーゴの行きつけのワインバーに。さんも来れば良かったのに」

 ジョルノは言って、欠伸をかみ殺した。ジャケットを脱ぐと背後に控えたが自然な動作で受け取る。
 それをクローゼットに収めると、彼女は部屋を出て、上司のためにやや濃いめに淹れたエスプレッソを用意する。添えられたチョコはいつものプラリネチョコレートではなくカカオ純度の高いものだった。ジョルノの体調を思っての配慮だろう。
 こんな日は伝達事項も必要最低限、もちろん無駄話もしない。は秘書としてまったく申し分なかった。

「そう言えば」

 ジョルノが口を開くとは静かに彼を見た。

「あなたにキチンと伝えていませんでしたね」
「何がでしょうか」
「君が来てからもうひと月が過ぎた。初めから使用期間などは設けていませんでしたが、正式に君を雇いたいと思います。簡単なものですが、雇用条件などをメールで送りましたので確認してください」

 は立ち上がり、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます、ボス」
「ミスタも喜んでいましたよ。さんをネアポリスに呼び寄せたのは彼なんですよね」
「ええ、そうです。幹部に救って頂きました」

 救う、という言葉が引っかかったが、彼女がそう認識するだけの理由はあった。
 は以前、殺人容疑で勾留されたことがある。彼女のボスがある女を殺し、その罪を秘書の一人であるに押し付けたのだ。
 彼女の両親は一族の面汚しだと嘆き、彼女を絶縁した。救い出してくれたのは、昔の祖父と親交のあったローマのギャングだった。パッショーネの系列組織で、結果としてパッショーネの力が最後の一押しとなった。ちょうどその地を訪れていたミスタがを見出し、今に至る。

「条件は、これで構いません」

 その声でジョルノは我に返った。
 エインズレイのデミタスカップからはまだ湯気がたっている。ひと息に飲み干すとカップの内側からエリザベスローズが顔を覗かせた。

「条件……ああ、雇用条件のことですか」
「はい。身に余るご厚意に感謝します」
さん」

 ジョルノは神妙な顔で言った。

「もっとラフに喋って欲しい、と言ったでしょう」
「すみません」
「とにかく、もっと力を抜いて。これから長い付き合いになるんだ、お互いもっと歩み寄りましょう」

 と、今度は笑顔で言う。
 笑顔にも種類がある。親しみを与える笑顔や女性を口説き落とす笑顔、威圧感を与える笑顔、絶望感を与える笑顔、彼はその顔で過去に何度もイニシアティブを取ってきたし、ほぼ無意識に使い分けていると言ってもいい。
 今、彼がしたのは年齢性別問わず幅広い人に好印象を与えるような笑顔だった。
 しかし、の反応は芳しくない。彼女はうつむき、「よろしくお願いします」と言ったきり、再び視線を向けることはなかった。


 距離を取られているんだろうか、ジョルノは考えながらランチのリゾットをスプーンですくう。
 呑んだ翌日だからか、本日のランチも胃に優しそうなメニューだった。
 ただ、昨日の失敗を踏まえてなのか、リゾットには大きめなロブスターが入っている。野菜スープも添えてある。胃に優しくもありつつけっこうガッツリなメニューである。

 ジョルノはソファで昼食を終えると銀のポットから紅茶を注いだ。
 ランチのお伴には香り高いブラックティーを好む。気分によっては角砂糖を一つ落とすこともある。こういった彼の好みをはもう熟知している。

 無意識にのデスクに目を向けた。そこに彼女の姿はない。
 さっき窓から前庭のテラスに向かう姿が見えた。まだ日差しが柔らかい季節、ガーデンランチには絶好の気候だ。
 ジョルノはソファから腰を上げ、首や肩を軽くまわした。

「彼女が気になるのか」

 ふいに背後から声をかけられ、ジョルノは室内に視線を巡らせた。
 ローチェストの下からのそのそと現れたリクガメ。甲羅の鍵部分からポルナレフが顔を出している。

「どういう意味です、ポルナレフさん」
「君は、もっと彼女と話をしたいんじゃあないのかい?余計なお世話ということはわかっている。放っぽっておこうかとも思ったが、我がボスがソワソワして見ていられないからな」
「ソワソワなんてしてませんよ」
「ハハッ、自覚なしとは重症だな」

 ポルナレフはにやにやと目を細め、ジョルノは決まり悪そうに視線を逸らす。

「何かあるならいつでも相談に乗るぞ。こう見えてもおれは昔けっこうモテたんだ」
「ですから、いったい何のことですか」
「そうかい、それならまあいいさ。もし話したくなったらいつでも部屋に来るといい」

 ポルナレフはそう言って甲羅に頬杖をついた。これまで何度となくそこを訪れた。彼はいつでも歓迎してくれて、ジョルノも普段口にしないような弱音がぽろっと出ることもあった。
 今も、彼の気遣いをとてもありがたく感じてはいるが、のことに関しては、彼の言わんとするところがよくわからなかった。ただ、何か釈然としない思いだけは感じていた。

「ちょっと出てきます」
「おッ、行くのか?」
「散歩です。ただの」

 部屋を出るジョルノの背をポルナレフが笑顔で見送った。


 パッショーネの本部事務所は高台に建てられているため高低差がある。広い敷地内には見事なイタリア式庭園があり、テラスの最上段にある見晴らしの良いベンチがのお気に入りのようだ。
 眼下に広がるネアポリスの街並み、サンタ・ルチア港や遠くにはヴェスヴィオ山の二つの峰がそびえている。

「隣、いいですか」

 ジョルノが声をかけると一人ランチしていたが驚いて振り返った。

「ボス、どうされたんですか」
「天気が良いので少し散歩を。ああ、ぼくのことは気にせずどうぞ食事を」

 腰を浮かせかけたを座らせ、その隣に腰かける。
 は落ち着かない様子で何度か視線をよこしたが、ジョルノが喋りかけてくるでもなく、ただそこに座って景色を眺めているので食事を再開した。
 彼女が食べ終わった頃、ジョルノは用意していた質問を口にした。

さんは、射撃が趣味なんですよね」
「はい」
「いつからやっているんですか」
「パッショーネに入ってからです」
「そうなんですか、けっこうな腕だと聞いたけれど」

 ジョルノが意外そうな目を向けた。彼はシャツの第一ボタンを外し、ネクタイもゆるめているが、きちんとしたベストがバランスを保ち、よりスタイリッシュな印象だ。

「腕はまだまだです。実戦で試したこともありませんし」

 が言う。ジョルノは思わず眉を寄せた。

「実戦で使う機会なんてないですよ。確かにぼくらはギャングだが、君はただの秘書だ。危険な目に合わせるつもりなんてない」
「ええ、わかっています。私では、足手まといにしかなりません」
「そういう意味ではない」

 彼はきっぱりと言った。やや強い口調になってしまったかもしれないとジョルノは思ったが、は表情を変えなかった。
 彼女はいつもそうなのだ。その人形のような美しい顔つきが変化することはあまりない。あっても、瞬きの間に見逃してしまいそうな僅かな変化だけだ。

「ボスは」

 今度はが口を開く。

「何か趣味はありますか」
「趣味ですか、特に何も。本を読むのはけっこう好きですが、最近はサッパリですね」
「お休みは取っていますか」
「休み……最後に取ったのはいつだったかな。まだ雪が降っていたような気がするな」

 ジョルノは何気なく言った。別に同情を引こうとした訳でも悲壮感たっぷりだった訳でもない。ただ、ありのままを口にしただけだが、は視線を落とした。

「デスクに戻ったらボスのスケジュールを見なおしてみます。来月は幹部会があります。せめてその前に一日でも」
「違うんだ」

 ジョルノはの言葉を遮った。

さん、ぼくは別に今の状況に不満があるワケじゃあない。休みをもらったところでやることもないし、このままで構わない」
「それは本心ですか」

 真っ直ぐな眼差しを向けられて、ジョルノは数秒間黙った。「本心ですよ」と答えたものの、その声は乾いていた。感情を表に出すまいとしていることに彼は自分自身で気づいてしまった。

「そうですか」

 と言ってが立ち上がる。ランチもとっくに終わり、執務室に戻るつもりなのだろう。
 しかし彼女が立ち去る気配はなく、上司をじっと見下ろした。

「私、昨日、実は少し飲み過ぎてしまいました」

 ジョルノは目を上げて瞬きをした。

「え?」
「本当は、二軒目にも行きたかったのですが、自分の適量は把握していますので、せっかくのお誘いをお断りしたのです」
「そう、なんですか。別にいいじゃあないですか、ちょっとくらい酔っぱらったって」

 むしろその姿が見たかった、とは口にしなかったが、ジョルノはの発言の意図を考えていた。話題の変わり方がやや唐突である。

「今でこそ多少自分を律することはできますが、それは経験があるからです。ボスは、無理をして大人になろうとされていませんか」

 ジョルノは立ち上がった。
 反射的にの手首をつかんでいた。

「ぼくが、子供だと?」
「はい」

 は決然と言った。さっきまでの無表情が崩れ、少し目を見開いている。その目が何かを切実に訴えかけていた。彼女は大きく息を吸って吐いた。

「私は両親が大っ嫌いでした。ヒマつぶしで反抗もしました。ありとあらゆる悪さもしました。もうお前なんか勘当だと言わせたら私の勝ちだと思っていました。まあ、結果として絶縁されてますが、悔いはありません」

 ジョルノはたっぷりの間を置いてから「はあ」と返した。他に言葉が出て来なかった。

「ボスには立場があります。それはわかります。ですからあらゆる悪さはできないかもしれません。ふらっと逃避行って訳にもいきません。ですがッ、権力があります。あなたはなんだってできるんです。やろうと思えばなんだって叶うんです。もっとワガママに、もっと自由にやりたいことをなさってください」

 いつも冷静で落ち着いた印象のあるが声を張り、頬を上気させて言い募っている。その姿にジョルノはただただ驚いた。
 そして驚きの波が過ぎ去ると、今度は心を動かされた。

 ジョルノ・ジョバァーナには志しがある。受け継いだ黄金の精神もある。仲間と共に悲願を果たしたあの日から無我夢中で突っ走って来た。
 彼は微粒子を集めて光輝くブロンドをかき上げた。爽やかな風が吹き抜けていく。空は晴れ渡り、何かを決行するならばうってつけの日だと思えた。

「わかりました。さんがそこまで言うんなら、一つやりたいことがあります」
「何でしょうか」
「煽ったのは君だ、最後までキチッと付き合ってもらいますよ」

 ジョルノは笑顔を見せた。イタズラを思いついた子供のような魅力的な笑みだった。

 その日の午後、二人の姿が屋敷から消えた。




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