※フーゴ視点

ボスと笑わない秘書05



 この後予定はありますか、とジョルノから声をかけられたとき、それが食事の誘いだとはフーゴは思わなかった。何か追加の打ち合わせだろうか、と彼は考えた。

「これからさんと食事に行くんです。良かったら一緒にどうです?」

 それは意外な申し出だった。


 彼らを乗せた車はネアポリスの市街地に向かって走っている。ドン・パッショーネの専用車は見た目は普通の高級車だが、その造りはノーマル車とは全く異なり、銃撃にも耐えられる強化ボディと防弾ガラス、タイヤは撃ち抜かれても走行を続けられる特別仕様、燃料タンクも爆発の衝撃に耐えられるよう設計されている。
 もっと普通の車でいいと言い張るジョルノを押し切って、フーゴが特注で造らせたハイグレード車だ。

 ジョルノはボス就任当初、一変した境遇に戸惑っていた。どこに行くにもSPが付き従い、手練れの護衛がつき、移動は専属運転手つきの高級車だ。
 ただの中学生だった少年がある日を境にギャング組織のトップになったのだ。その戸惑いはフーゴにも理解できたが、慣れてもらうしかない。
 傘下の組織も含めればイタリアでも三指に入る巨大ギャング組織のドンであるという自覚を、彼は一歳年下の若きボスに懇切丁寧に説き続けた。

 車は賑やかな目抜き通りを通り抜け、一本裏手にある路地に入った。
 通りは狭く、住宅が密集している。昼間であれば渡したロープにびっしりと洗濯物がはためくような下町だ。

「ここですか、ボス」

 助手席に座るが振り返って尋ねた。車は一軒のリストランテに横付けされていた。

「ええ、ここです。ここでいいんです」

 念押すようにジョルノが言う。
 運転手が開けたドアからまずはフーゴが、続いてジョルノが降り立った。別の車で同行していたSPがすでに店の前に待機している。
 フーゴは通い慣れた店に目を向けて言った。

「けっこう久々ですね、前に来たのは確か」
「先々月の始めですよ」
「ああそうだ、あのときはトリッシュが遊びに来ていたんでしたね。彼女、大学には進まないと言っていたけれど、気は変わってないのかな」
「けっこう頑固ですからね、そう簡単には変わらないでしょう」

 フーゴとジョルノが先を歩き、その後ろにが続く。
 店内は賑わっていたが、SPをつれた彼らを見ても驚く者は少ない。大衆食堂というほどの気安さはないが、馴染み客の多い老舗のリストランテだ。そこは懐かしくもあり、フーゴにとっては軽く痛みを伴うかつてのたまり場であった。

 挨拶に訪れた店主とジョルノが言葉を交わしている間、フーゴはに椅子を進めた。

「お好きな席にどうぞ」
「ありがとうございます」

 と言ったものの、が座る気配はない。
 奥まった場所にある個室、テーブル席はいくつかある。上司が席を選んだ後に最後に座るつもりなのだろう。

「君、この店に来るのは初めてかい?ここは以前ぼくらがたまり場にしていた店なんだ」
「リベッチオ、ですね。幹部からお話だけは。来るのは初めてです」
「初めてならピッツァをお勧めするな。どれもうまいけれどマルゲリータが特に絶品なんだ」

 ぜひ、とが返す。
 こういうときはお愛想でも多少笑うものなんじゃあないか、と彼は思ったが、相手はだ。彼女は「笑わない秘書」としてすでに周知されている。
 は先月からジョルノ直属の部下になった女だ。ローマの名家の出で、ギャングとしては異例の経歴を持つ。多少自分と近しいものをフーゴは感じていたが、決定的に違うのは、ギャングになった経緯だ。彼の場合はなるべくしてなったと言えるが、は運が悪かった。彼女は冤罪により収監された。その後ギャングにまで落ちた事情には同情の余地があるが、それもまた運命だ。違う道を選ぶこともできたのに、はギャングになることを選んだ。

「どうしたんです、突っ立ったままで」

 現れたジョルノが驚いて言う。「ボスを待っていたんですよ」と言ってフーゴは彼のために椅子を引いた。

「そういうのはやめてください、ぼくらは対等だ」
「わかりました」

 すかさず諫めるジョルノに苦笑を返し、フーゴも席についた。

 次々と運ばれてくる料理はどれも慣れ親しんだ味で、彼らはまず腹ごしらえをした。特に注文はせず、全て店のお任せだ。

「ミスタも来られたら良かったんですが、都合が合わなくて」

 タコのマリネをフォークで刺しながらジョルノが言う。

「今日からミラノに出張でしたね、確か」

 と。彼女は野菜と魚貝のオリーブ焼きをせっせと口に運んでいる。
 食の細い印象のあっただが、けっこうもりもりと食べている。

「いいんですよ、いたらいたでケーキが四個だとかまた騒ぐじゃあないですか。あんなもんはただの迷信なのに」
「幹部が4が苦手なのは昔からですか?17は平気なんでしょうか」
「そこなんだッ、4はダメなのに17はオッケーってところがもうおかしいんだ」
「一般的には17の方が不吉の数字ですね。旅行なら日をずらしたり、その日は絶対に飛行機に乗らないという人もいる」

 ジョルノも言う。

「だから、そういうのは全部思い込みなんだ。ベッドに帽子を置いたって服を裏返しに着たって何も起こりはしない。起こったときだけ印象が強いからそう思うだけなんだ」
「今この場にミスタがいたら面白いことになりそうだ」
「勘弁してくださいよ」

 フーゴが眉を寄せる。苦い顔つきだが目元は笑っている。ジョルノ・ジョバァーナも普段はあまり見せない気の抜けた顔で笑った。
 その様子をじっと見つめるの視線に気づき、フーゴは思わず顔を背けた。
 彼女はあまり感情を出さない。何を考えているかもよくわからない。そして時々貫くような視線をよこす。
 誰に咎められるわけでもない。それでも彼は思う。自分は本当はこんなところで笑い合えるような立場ではないのだ、と。
 ふとした瞬間、眠る間際、それは日に何度もやってくる。あの日の後悔は時を経ても消え去らない。だからがむしゃらに働くのだ。この生涯を費やしてジョルノに仕えると決めた。
 フーゴは堂々巡りする考えを断ち切るように口を開いた。

「どうですか、それ、うまいでしょう」

 が手を伸ばしたのはピッツァだった。
 ボルチーニ茸の乗ったシンプルなマルゲリータだ。
 彼女はそれを一口、二口、と口にする。

「はい、とても」
「これもどうです、さん」

 ジョルノが勧めてきたのはイカスミのスパゲッティだった。

「はい。でももうけっこうお腹がいっぱいで」
「何言ってるんです、あんた普段ちゃんと食べてないでしょう。どうせ夜だってあの非常食で済ませてるんじゃあないんですか」
「……ぅぐっ」

 が喉をつまらせた。

「何やってるんだ、ほら、飲んで」

 フーゴは残り少なくなった彼女のグラスにワインを注ぎ足すと視線をジョルノに転じた。

「非常食ってなんですか」
「以前、さんがランチで食べていたんですよ。見た目は固そうなパンなんですが、栄養価が高く、軍でも採用されている非常食らしいです」
「へえ、手軽そうでいいな。今度ぼくにもくれないかい」

 ジョルノは噴き出し、はむせて咳き込んだ。

「え、何ですか」

 フーゴは訝し気に二人を見た。内緒話に入れなかった子供のような、ちょっと不機嫌そうな顔だった。
 ジョルノは一しきり笑うと、片腕を上げ、おかしそうに言った。

「いえ、すみません。ぼくらはけっこう似ているのかもしれない」
「どういう意味です」

 フーゴはすかさず訊き返した。

「食事をあまり重要視していない。忙しいと抜いてしまうこともあるし、とにかく手軽に済ませてしまいたい。さんもぼくもそのタイプだ」
「食事を重要視していないわけではありません。食事に費やす時間がもったいないのです」
「でも、君はぼくにはきちんと食事をとれと煩いじゃあないか。ぼくだってその時間は惜しいのに」
「それは」
「ミスタの指示だから」
「そう、です」

 そこにわずかな間があったことにフーゴは気づいた。
 彼はいったん置いていたフォークとナイフを手に取り、ナスとパルミジャーノのオーブン焼きを丁寧に切り分けた。ワインが一本空いてしまいそうな美味しさだ。

 料理はできたてが一番うまい。運ばれた料理はすぐに食べてしまうに限る。
 ぼくは二人とは違う、と彼はひそかに考えていた。
 確かに忙殺される日々の中で食事をおろそかにしてしまうことはあったけれど、それでもたまにはゆっくり食事を楽しんでいるし、ワインにだってこだわる。行きつけの店も多い。

 そう言えば、と彼は思った。
 仕事上での会食は別として、ジョルノから食事に誘われたのはかなり久しぶりだ。
 彼はあまり誰かを誘ったりしない。これまで何度も食事を共にしているが、発案者はたいていミスタかフーゴ自身だった。
 そして、ジョルノ・ジョバァーナの行く先には常にSPの姿がある。それとはわからないように客に混ざっているが、ボス直属の精鋭も常に控えている。
 彼の立場を思えば仕方のない対応だ。黒塗りのハイグレード車で送迎されることも、彼の安全を思えばの計らいなのだ。
 まさかデートの場に強面が同行することはないだろうが、プライベートでも常に護衛はいるはずだ。そこまで考えて、食事をする手は完全に止まっていた。

「息が詰まりそうだ」

 思わず漏らした本音。フーゴは自分自身の発言にはっとした。
 顔を上げると、四つの瞳が彼を捉えていた。

「どうかされましたか、フーゴさま」
「いや……なにも」

 パンナコッタ・フーゴは改めてジョルノを見た。この身を捧げて一生仕えると心に固く誓った相手を。

 ジョルノは彼の強い眼差しを受け止め、やや首を傾げた。
 その姿には風格があった。大人びたスリーピーススーツを着こなし、ワイングラスを持つ仕草も様になっている。この数年で顔つきも精悍さを増し、自信に満ちた態度は威厳すら感じさせる。
 あの日、ブチャラティと連れだって現れた学生服の彼はもういない。その事実に突如として思い至った。

「どうかしましたか」
「いえ……」
「少し、疲れているんじゃあないですか。あなたは働き過ぎだ」

 フーゴは言葉を返そうとしたが、適切な言葉が出て来なかった。
 失礼、と言ってジョルノが席を立つ。「食事を続けてください」と言ってトイレに向かうジョルノの後をSPが一人静かに追った。

「大丈夫ですか、フーゴさま。どこか具合でも」

 彼は詰めていた息を吐き、前髪をかき上げるとに体ごと向けた。

「一緒にいて、君は何か感じるかい」
「と、仰いますと」
「ボスのことだ。疲れているだとか、無理しているだとか、そういうの、何か感じないのか」

 やや語気を強めるフーゴに対し、は表情を変えずにこたえた。

「いつも少し疲れていますし、いつも少し無理をされているように感じます」
「そうか……そうだよなぁ」

 つぶやくように言うと、彼は目を伏せた。その目をぱっと上げ、を睨みつける。彼は早口で捲し立てた。

「正直に言う。ぼくは君がすぐにクビになるんじゃあないかと思っていたんだ。秘書の必要性はぼくだって感じていたさ。何人か選別してプロフィールを渡したことだってあるッ、でもボスは首を縦に振らなかった。だから、ミスタが連れてくるっていう君も、どうせ断られるだろうと考えていたんだ」
「そうですか」
「そうさ。だけど君は無事雇われたし、雇用が打ち切りになる気配もない。君が美人だからか?まぁそれもあるかもな、だけど美人で優秀な人間なら他にだっているだろ、なにも」
「逮捕歴があるような女を?」

 の言葉にフーゴは息を飲んだ。彼は瞬時に冷静さを取り戻し、謝罪した。

「すまない、。君を侮辱するつもりはなかったんだ。調書を読んだがあれは冤罪だ、君は嵌められただけだ。それはわかっているんだ」

 フーゴはちらっとフロアに目をやって、急ぎ口調で言った。

「君にはきっと何かがある。ボスが気を許す何かが。今日のディナーだって、ぼくはきっとおまけさ。ボスは君と食事がしたかったんだ」
「私たちはとても空腹でした」
「……え?何だって」
「ランチのチョイスを間違えてしまったのです。ですから、ボスは夕食に誘ってくださったのです」
「よく、わからないな、いや、そんなこたーどうだっていいッ、、君に頼みがあるッ」

 フーゴは席を立ち、の傍までやって来ると彼女の両肩をつかんだ。

「ボスは背負い過ぎているんだ。いつもとは言わない、時々でいい、君がボスの肩の力を抜いてやってくれないか」

 は数秒沈黙した。

「甘やかしてくれ、ということですか」
「……は?いや、そう取ってくれても構わないが、誤解はしないでくれッ、へんな意味じゃあないんだッ」

 そこでジョルノ・ジョバァーナがSPを伴って個室に戻った。の肩に置かれた手に目をやって、その瞳を鋭く細めた。

「──セクハラですか、フーゴ」
「違うッ!」




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