ボスと笑わない秘書04



 の朝は早い。
 ストレッチとジョギングで軽く汗を流し、シャワーを浴びてフルーツジュースを飲み、メイクを施し、仕事着としている黒のパンツスーツに身を包んで腰のホルスターに愛銃を差し込む。動きやすいローヒールパンプスを履いて家を出る頃には午前七時を過ぎている。晴れやかな空が広がっていた。

 の勤務するパッショーネの本部事務所はフニコラーレで二駅昇った高台にある。下車後、少々歩く必要があるが、地下鉄だと若干遠回りになってしまうのでそうしている。

 守衛と挨拶を交わし、前庭を通って階段を昇る。
 斜面に建てられているため庭には高低差があり、三段のテラスから成っている。一段昇るごとに違う種類の低木が植えられていた。
 イングリッシュガーデンのような整形された美しさはないが、植物が作る自然の美があり、壁にはアイビーゼラニウムが咲き誇っていた。

 エントランスで掃除をしていたスタッフと言葉を交わし、長い廊下を進んで職場である執務室に向かう。
 昨日は休暇をもらっていた。たまっているだろう雑務をこなす為、彼女は普段よりもやや早めに出勤していた。
 ジョルノが顔を出すのはたいてい九時過ぎで、室内は無人、のはずだった。

 はソファまで足を進め、不意をつかれたように立ち止まった。
 そこには気だるげな顔で眠りこけている上司の姿があった。
 眠っているというのに眉根を寄せ、長い脚を肘置きに投げだしている。
 テーブルを見ると、散らばった書類と走り書きのメモ、空になったティーカップ、外したネクタイが無造作に放られ、足元には万年筆が転がっていた。

 は万年筆を拾い上げてデスクのペン立てに戻した。開けっ放しだったカーテンを閉め、室内の照明を絞る。
 起こすべきか否か、二秒ほど悩んだ彼女は後者を選んだ。

 ブランケットを手に再び近づくと、腹部にそっとかける。ジョルノが低く唸って寝返りを打ったのではどきりとしたが、彼が起きることはなかった。
 閉じたまつ毛が柔らかな影を落とし、寝息に合わせて胸がゆっくりと上下する。
 彼の寝顔は無防備で、それでいてぞっとするほど美しかった。まるで宗教画の中の天使のようだった。

 ジョルノ・ジョバァーナは前ボスと違い姿を隠さない。だから彼の美貌はその手腕やカリスマ性とともに組織内で周知されている。しかしそれも上層部だけで、末端の構成員は知らない。実際、も以前に一度、組織主催のパーティーで遠目に見たことがあるだけだった。
 それが何の導きか、彼直属の部下として働くようになってもうすぐ一か月。日々業務をこなしながらもどこか夢でも見ているような気分だった。

(しまった……すっかり見惚れてた)

 我に返り、が立ち上がる。寸前で腕が伸びてきた。

「──誰だ」

 は動揺した。手首を強く握られて、思わず声を上げそうになった。

「ボス、です。起こしてしまってすみません」
「──、さん……?そうか……もう朝か」
「はい、朝です。おはようございます」

 つかまれた腕が開放され、は安堵の息をつく。ジョルノ・ジョバァーナは目を擦ると、怠そうに上体を起こした。

「今何時ですか、ああ、カーテン閉めてくれたんですね」

 は柱時計に目をやって「七時三十六分です」とこたえた。「開けますか?」

「何がですか」
「カーテンです」

 ジョルノは無言でうなずいた。彼はソファに背を沈めてぼんやりとしていたが、やがて意を決したように立ち上がる。やや乱れたブロンドを手で撫でつけ、外れていたベストの第一ボタンを止めなおす。シャツは胸元がはだけ、袖は腕まくりをしていた。

「みっともないところを見せてすまない。シャワーを浴びて来ます」

 と言い残してジョルノは部屋を出た。
 はテーブルに散らばった資料を集め、ティーカップを洗い、いつもそうしているように丁寧に掃除を済ませた。
 途中、クローゼットの脇で動くものがあった。それはココ、と呼ばれているペットのカメだった。狭い場所を好むらしく、クローゼット脇のスペースやチェストの下の空間などでよく見かける。
 カメの中には幽霊がいる、とジョルノから打ち明けられたのは、彼女が勤務して一週間と少し経った頃だった。とても信じられない話だが、目に見えないもの、という意味ではスタンドも同じだ。スタンドという存在があるのなら幽霊だっているのかもしれない、と彼女は納得した。
 はカメに目をやって「ボンジョルノ」と挨拶をした。

 数十分後、ジョルノ・ジョバァーナは目の覚めるような漆黒のスーツ姿で現れた。よく見ると細かな刺繍が施され、胸元には可愛らしいてんとう虫のブローチがついている。
 コートにしろスーツにしろ、彼の身に着けるものにはそのモチーフがある。

「ボス、お疲れのようですし、少し仮眠でもされたらどうですか」

 淹れたてのエスプレッソをデスクに置き、伝達事項を簡潔に告げたあとでが提案した。
 ジョルノは顔を上げた。先ほどの寝起きなど感じさせない精力的な瞳だった。

「大丈夫ですよ、それよりさっきはすみませんでした」
「何がですか」
「腕、つかんでしまって」
「いえ」
「あれ、セクハラになりますか」
「なりません」
「それは良かった」

 ジョルノが口元を緩めて笑う。は話を戻した。

「ボス、どうかお休みください。今日の午前中は急ぎの予定はありませんので」
「睡眠は取れている。確か、二時くらいに一度仮眠を取ろうと思ったんですよ、そしたら朝でした。五時間は眠れているはずだ」
「ソファでは疲れは取れません。眠った時間よりも質が重要かと」
「平気だと言ったはずだ。ぼくは何度も同じことを言うのは好きじゃあない」

 は沈黙した。「申し訳ありません」と謝罪する。
 ジョルノはやや慌てて付け加えた。

「君がぼくの体調をキチッと管理してくれようとしているのはわかっています。睡眠は全ての基本だ、今夜はちゃんと眠ります」
「はい」
「あなたの方はどうなんですか」

 は視線を向けた。

「私ですか」
「ええ、さんはちゃんと眠っているんですか。朝は早く夜は遅い。たまの休みもジョギングや射撃では休む暇もないでしょう」
「射撃は私の趣味ですし、ジョギングは息抜きでもあります」

 は即答するが、昨日射撃場に現れたミスタのことを思い出した。
 彼は色々と気にかかる言葉を残して去って行った。

「昨日あなたの様子を見にミスタが顔を出したんですよ。休みだと伝えると、心当たりがあるからと出て行ってしまった。彼とは会いましたか?」
「はい、射撃場で少し」
「そうですか」
「幹部は、ボスのことを心配しているようでした」

 あいつを甘やかしてやってくれ、と彼は言った。言葉の響き以上に深い意味が含まれているとは感じていた。
 それからもう一つ、気がかりな点。

「ボスは私に、何か仰りたいことはありますか」

 ジョルノはカップに伸ばしかけた手をひっこめると、小首を傾げた。

「何か、とはなんですか」
「もっと、こうした方がいいなど、私に対してご要望があれば」
「ありませんよ。あなたはよくやってくれている」
「そうですか」
「ああでも、しいて言えば」
「しいて言えば?」

 間髪入れずに訊き返す。ジョルノはちょっと驚いたように瞬きをした。

「え、なんですか。やけに食いついてきますね」
「しいて言えば何ですか、ハッキリ仰ってください」

 彼女は真剣な顔つきで詰め寄って来る。何か切羽詰まったものを感じ取り、ジョルノは無意識に姿勢を正した。

「もう少し砕けた喋り方をしてくれたらな、と思っただけですよ。どうしたんですか」
「承知しま……わかりました。善処……努力します」

 は一礼してデスクに戻った。
 もっと笑った方がいい、君には愛想が足りない、などという幾度となく繰り返してきたやり取りを覚悟していたは気が抜けた。
 それならなぜ、彼はミスタにあんなことを尋ねたのだろうか。
 そもそも、彼女はミスタの前で「最ッ高にキュート」などと褒めてもらえるほど笑った記憶はないのだ。あれは幹部の思い違い、あるいは人違いだろうか。
 つらつらと考えながらいつものルーティンをこなすは、その様子を不思議そうに眺める上司の視線には気づかなかった。


 その日のランチは消化の良いものを選んだ。
 味付けは薄め、具材はなるべく細かく刻んでもらい、香辛料などは控える。
 油分も脂肪分もなるべく避け、サラダも生野菜ではなく温野菜にした。
 睡眠不足の体に優しく沁みるような味だったが、成長期男子には少々物足りなかったようで、十四時をまわった頃、ジョルノが言った。

「なんかお腹すきませんか」
「何か軽食でも手配しましょうか」
「そうですね。いや、どうせならどこかランチに行きませんか」
「それでしたら、今から予約を取ります。たいていのお店は三時には閉まってしまいますから」

 そのとき執務室の扉がノックされた。ジョルノが入室を許可すると、やや憤慨した様子のフーゴが現れた。

「まったくやってられないなッ」

 入って来るなりパンナコッタ・フーゴは声を荒げた。
 その腕には大きな図面と分厚い資料が握られている。

「いったいどうしたんです」
「見てくださいボス、これ全部嘆願書なんですよッ!今さらこんなもんをぼくに寄こしてどうしろって言うんだッ」

 は席を立ち、給湯室に向かった。
 紅茶を淹れて部屋に戻ると、男二人はソファに移動して何やら話し込んでいた。

「施主とは古い付き合いなんだ。はいそうですかと聞き入れる訳にはいかないんだ」
「あの件は確か、候補地を変えることで双方が納得したんじゃあなかったですか」
「そうなんです、それを今さら元の場所に戻せと言いやがった。ぼくらはギャングだ、市民のご意見箱じゃあないんだッ、それをチッコリーニのヤツがいい顔するからだッ」

 なにやら込み入った話のようで、はティーカップを置くとすみやかにデスクに戻った。
 ジョルノはに顔を向け、神妙な声で指示をした。

「会議室を使います。何かあれば内線で。それとE地区のチッコリーニと情報管理チームのメロッティを呼んでください。速やかに来るようにと」


 話し合いは長引いていた。はボス不在の執務室で事務作業に勤しんでいた。
 以前は曖昧だった地区ごとの収支報告を新体制では完全にデータ化した。日々届くそれらをまとめ、無数に届く招待状を選別し、来月開催予定の幹部会の候補地をリストアップする。合間に電話対応をこなし、スケジュールを調整し、足りない備品をスタッフに伝え、ついでにボスの好きなチョコレートの買い出しもお願いする。

 執務室の窓から見える紺碧の空が茜色に染まった頃、やや疲れた顔のジョルノが現れた。

「遅くなってすみません、行きましょうか」
「お出かけですか?」

 が尋ねると、ジョルノはきょとんとした。クローゼットから取り出したジャケットにさっと袖を通しながら言った。

「さっき言ったじゃあないですか、ランチに行こうと」

 が返事に迷っていると、ジョルノ・ジョバァーナは姿勢よく立ったまま窓に目を向けた。燃えるような夕映えの空を眺めて彼は微笑んだ。

「ああ、もうディナーだな、これは」




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