ボスと笑わない秘書【番外編】01



 が射撃を始めたのは「ギャングなら銃くらい撃てなくっちゃ」程度の軽い気持ちからだった。
 幸い、上司であるミスタは腕利きのガンマンだ。彼に時々アドバイスをもらいつつ、ほぼ独学で鍛錬を積んだ。

 射撃エリアに足を入れた瞬間の、あの身の引き締まるような感覚がは好きだった。
 使う実弾は9ミリパラベラム弾、人の命を奪う凶器にしては思ったよりも軽い。

 初めて撃ったときはその反動に驚いた。が選んだオートマチック拳銃は低反動のものだったが、その衝撃は凄まじく、グリップを握る腕がじんと痺れた。
 しかし同時に、脳天を突き抜けるような爽快感もあった。一言で言うなら”最高にスカッとした”のだ。
 どうにかこうにか的を狙えるようになった頃、はすっかり夢中になっていた。
 過去の記憶に苦しめられていても、射撃ブースに入り、保護メガネとイヤーマフをつけた瞬間気持ちが切り替わる。銃を撃っているその瞬間だけは様々なしがらみから解き放たれた。

 購入した五十発を撃ち切り、ラウンジに寄るとすっかり顔見知りになった店員の女がカウンターから声をかけてきた。

「チャオ、。今日も精が出るわね」

 は軽く挨拶を返し、コーラを注文する。
 女は紙コップに大量の氷を流し込み、年季の入ったドリンクディスペンサーからコーラを選んで押した。黒い炭酸水があふれんばかりにコップを満たす。

「はいお待たせ」
「ありがとう」
「今日はお休みなの?」
「ええ」
「あなたのところはキチンと休みがあるのね。うちに集金にきてる、えーっと……なんて名だったかしら、そうそう、アマーロだわ。彼なんてちっとも休めないっていっつもボヤいてるの」

 店員の女はカウンターに肘を乗せ、愛嬌のある笑みを浮かべる。
 が「ギャング」であることはこのガンクラブの従業員たちは皆知っているが、所属先までは知らない。
 決して深入りはしないが、親しみを持って笑みを交わす。この街の住人は知っている。親切なだけの言葉よりも、親切な言葉と銃で保たれる日常があることを。
 はストローを咥え、コーラを一口飲んだ。

「それは、上司の考えによるから」
「だったらあなたの上司は部下思いの優しい人なのね」

 は短い沈黙の後で「ええ」と返した。

「あら、幸せそうな顔しちゃって」
「え?」
「やだ、気づいてない?あなた今とってもいい顔してたわよ」

 店員の女は手にしたダスターでポーズだけの拭き掃除を続けながら、心底そう思っているような声で「もったいないわ」とつぶやいた。

「あなたみたいな人がせっかくのお休みに朝からうちみたいな店に──ううん、うちは儲かるからいいのよ。だけど、あなたをデートに誘いたがってる男、実はけっこういるのよ」

 女は目尻にしわを寄せて笑うと、視線を待合席の方に投げた。数名の男たちが笑顔で手を振った。「ぼくとどうだい?」と立候補する声もあった。

「ほらね」と女がウインクする。
「私なんかより、あなたを誘った方がずっと有意義だわ」
「あら、あたしはダメよ、アモーレがいるから」

 は伏せていた目を上げた。

「そう、恋人がいるのね。どんな人?幸せなの?」

 そんな問いかけが自然と口から出たことには自分でも少し驚いた。
 女は嬉しそうに目を輝かせた。

「そんなの聞くまでもないわ。幸せよ。彼、ちょっぴり背が低いの。でもそこがとってもキュートだし、彼と会うと未だにドキドキするの。ああ、あたし恋してるんだわって何度だって思うの。こんなの初めてよ」

 へんかしら?と女がはにかむ。豊かな胸をタンクトップにぎゅうぎゅうに詰め込んでいるようなセクシーな女性だけれど、まるで恋する少女のような眼差しだった。
 は首を振った。へんじゃあないわ、とっても素敵だわ、と。

 その後、弾丸をもうひと箱購入して射撃ブースに入ったが、驚いたことに集中できなかった。狙いを定めても的の中心を逸れてしまう。保護メガネとイヤーマフをつけても雑念が消えない。こんなことは初めてで、は早々に銃を収めた。

(恋……ね。私にはよくわからないわ)

 はガンクラブからの帰り道、昔の記憶を思い出していた。

 十代前半の荒れていた時期に街の不良と恋の真似事のようなことをした。
 高校に進級してからも、学校交流で知り合った他校の男子と一応恋人と呼べるような関係になった。けれどわりとすぐに「君の気持ちがわからない。不安なんだ」と嘆くようになった。長くは続かなかった。

 好きだったような気もするし、そうでもなかったような気もする。
 今にして思えばあの彼の言い分は正しかった。自分自身でさえ曖昧なのだ。
 唯一、以前のボスにだけははっきりとした好意を持った。あれは尊敬や敬愛で、恋愛ではなかったけれど、が唯一強く慕った相手だ。
 その結果が取り返しのつかない事態を招いた。誰かを強く想うことはもうこりごりだった。

 見上げた空は青く輝いている。吹く風も暖かい。道行く人々の足取りもどことなく軽やかだ。
 ちょうどランチタイムで、カフェのテラス席では食事を楽しむ楽し気な顔があった。

 歩く足は止まっていた。はふと思った。ボスはきちんと昼食を取っているだろうか。一食くらい平気だと抜かしていないだろうか。スタッフに言伝しているけれど、「いらない」とジョルノが一声言えば、誰も意見などできないのだ。

 ボス失踪事件、と組織内でウワサされているあの夜から一週間ほどが過ぎた。
 どんなお咎めを受けるのだろうと覚悟を決めていただが、制裁はなかった。話し合いは彼女抜きで行われた。ボスの意向はほぼ全て受け入れられた、とフーゴから告げられたのみだった。

 変わらない日常が再び始まり、ジョルノ・ジョバァーナは以前にも増して精力的に活動している。
 プレジデントチェアに姿勢よく腰かける姿を思い出した。光沢のある金の髪をゆるく編み込んで、オーダーメイドのスリーピーススーツを着こなし、あまり無駄口は叩かず、黙々と執務を行うその姿を。
 あの場所はもう、にとって無くてはならない場所になっている。

「ボス」

 は無意識につぶやいた。すると不思議なことにドクン、と心臓が波打った。
 ドクン、ドクン、と胸の奥で大きな音をたてる。
 は街路樹の下で立ち止まっていた。日に日に強さを増す日差し。もう夏がすぐそこまで迫っている。
 が歩き出そうとしたその時、バッグの中で携帯が鳴った。
 発信者を確認して今度は息が止まった。

「はい、マイボス」

 すぐに応答すると、ジョルノ・ジョバァーナの落ち着いた声が耳に届いた。

『せっかくのお休みにすみません、今いいですか』
「はい。どうされましたか」

 用件は些細なことだった。が集計した各地域の収支報告に関するちょっとした質問で、問題はすぐに解決した。

『すみません、明日でも良かったんですがちょっと気になってしまって』
「いえ、構いません」
さんは、今日も射撃場ですか?』
「はい。いえ……今日はもう終わりにしました。あまり、気分が乗らなかったもので」

 ジョルノはへえ、と意外そうに言った。

さんでもそんなことがあるんですね。この後はどうするんです?』

 は目を細めた。今さらながら、彼の声がとても心地よく響くことに彼女は気づいた。

「特に……予定はありませんが、少し本屋にでも寄ろうかと」
『いいですね』

 はい、とが返すとそれで会話は終わった。それ以上広がる気配もない。気まずさを感じたのか、ジョルノは話を切り上げた。

『ゆっくりしてくださいね、それでは』
「あのっ」

 は思わず言った。しかし後に続く言葉はない。何も思い浮かばず、ただ衝動的に引き止めてしまったのだ。

『はい、どうしました』
「いえ、すみません──言おうとしたことを忘れてしまいました」

 苦し紛れにが言うと、電話越しに吐息が届く。柔らかく微笑む顔が脳裏に浮かんだ。
 は突然、居ても立っても居られなくなった。胸に迫りくる衝動があった。だけれど、それを言葉にしようとするととたんに消えてしまう。ただ、心臓だけが大きな音を立て続けている。
 ジョルノは笑い混じりに言った。

『そうですか。もし思い出したら、またいつでも連絡をください』
「……はい」
『また明日。チャオ』

 会話を終えてからも、はしばらく無言で立ち尽くしていた。


 ここ最近、自分は少しおかしいのだとには自覚があった。
 仕事中の凡ミスはないが、時々ぼんやりしてしまう。以前はまるで興味のなかった恋愛映画を観てみたり、この前はふらっと寄ったブティックで着る予定もないのにワンピースを購入した。
 一目見て、これは素敵だと思った。勧められるままにパンプスとピアスまで買った。
 あの素敵な服たちは、包装されたままの状態で部屋の隅っこに寂しく置かれている。は普段、動きやすいパンツスーツを好んで着ている。私服もデニムが多い。せっかく買ったけれど、着る機会は訪れないだろう。そう思っていた矢先、その機会は突然やって来た。

さん、今夜良かったら食事にでも行きませんか」

 は内心動揺しながら応じた。

「はい。わかりました」
「お洒落してきてくださいね」
「このままではいけませんか」

 咄嗟にそう聞き返してしまったのは、なんだか気恥ずかしかったからだ。
 もうすでに、あのワンピースを頭で連想してしまっている自分が。あくまで食事に誘われただけだ。労いの意味の食事会なのかもしれない。二人きりではないのかもしれない。

 先に帰宅を許されたは落ち着いた様子で事務所を出たが、ゆるい下り坂を下って事務所が見えなくなった頃、走り出した。フニコラーレで二駅の自宅に戻ると、まずは部屋の隅っこに置かれたままだったショップバッグからワンピースを取り出した。

「大変、しわになっちゃってるわ!」

 折りたたまれたままだったワンピースにはしっかりと折り目がついていた。
 丁寧にアイロン掛けをして、終わると次にシャワーを浴びた。
 迎えは七時。あと一時間もないが、髪を整えてメイクをするだけならすぐ終わる。と思ったが、ふと指先が気になった。
 普段から爪は磨き、きれいに形を整えているが、マニキュアを塗る習慣はない。ドレッサーをひっくり返して探したら、いつ買ったかすら記憶にないマニキュアが一つだけあった。しかし中身が凝固してどろどろになっている。一応塗ってみたがまだらで汚く、落とそうと思ったら今度は除光液がないことに気づいた。

「うそッ、ちょっと、どうするのよコレッ」

 は軽いパニックになった。すでに残り一時間を切っている。
 彼女は考えた。一本向こうの通りに確かコスメ店があったはず。まだ髪も半乾きのままで部屋を飛び出し、コスメと雑貨を扱う小さなお店で目的の除光液を見つけた瞬間は天にも昇る思いだった。
 アパートに引き返し、さっそくマニキュアを落とすと、新たに購入した淡い色のマニキュアを塗った。それだけで指先が華やいで見えた。

「やだ、素敵じゃあない。よし、次はメイクね」

 言ってから、マニキュアが乾くまでには一定時間必要なことに気づく。手を振ってみたり息を吹きかけてみたりと涙ぐましい努力をした。

 ヘアセットとメイクを終えたのは午後七時十分前だった。
 ワンピースを着て、ドレッサーで最終チェック。そこでは耳元が寂しいことに気づいた。

「待って、確か私、ピアスも買わなかったっけ」

 ワンピースを購入したブティックでパンプスとピアスも購入した。セットで勧められて、セールストークだとわかっていてもとても素敵だったからだ。

 持ち帰ったショップバッグは二つだった。ワンピースとシューズボックスは別の包装だった。つまり、ピアスはそのどちらかと同梱されていたのだ。
 さっき開いたバッグを確認するも、中は空だった。

「どこ……?どこに置いたの」

 どうしてもあのピアスがつけたかった。これはもう言葉では説明できない。
 可能性のある場所を全て探し、諦めてフローリングに腰を下ろした際、はソファの下で転がる小さな箱を見つけた。
 探し物は大抵意外な場所にある。ワンピースを紙袋から取り出す際に取り落としてしまったのかもしれない。
 上品な小箱に収まったピアスを取り出し、さっそく装着する。繊細なチェーンの先についた一粒ダイアモンド。それが動くたびに揺れる。

「ああ……やっぱり素敵だわ」

 うっとりとしたのもつかの間、約束の七時を過ぎていた。は悲鳴を上げた。

 七時を五分ほど過ぎてエントランスから出ると、アパート前の路上に一台の高級車が横づけされていた。
 ジョルノはわざわざ車から降り、背筋を伸ばした美しい立ち姿で待っていた。

「すみません、ボス、遅くなってしまって」

 が声をかけると彼は振り返った。
 普段のきっちりとしたスーツ姿ではなく、シルエットの綺麗なジャケットにラフなシャツを合わせたトラッドスタイルだった。
 彼は本当にまだ十代だろうか、とは以前とは違う意味で思う。センスと色気がすごいのだ。

 ジョルノの提案で少し歩くことにして、結局キアイア地区まで足を伸ばして海鮮レストランで夕食をとった。
 会話はぽつぽつと続く程度で盛り上がりには欠けるが、はこの落ち着いた時間をとても好ましく思った。
 この国の女性は挨拶代わりに口説かれることが多く、もはや習慣化しているが、はそういったやり取りが苦手だった。
 ミスタのようにそれを補って余りある魅力のある人物はそうはいない。ジョルノ・ジョバァーナもたまに歯の浮くような褒め言葉を口にするが、そう言えば今夜はそれがない。は会話を続けながらも急に不安になった。
 今夜の自分は彼にどう映っているのだろうか。

 食後のドルチェはラズベリーソースがかかったパンナコッタだった。
 食べているとジョルノがワインのお代わりを注ごうとしたので彼女はそれをやんわりと断った。

「え、もういいんですか、まだ全然飲んでないじゃあないですか」
「明日に差し支えますので」

 アルコールに弱い体質ではないが、許容範囲を超えるとその後の記憶が飛んでしまう。以前ミスタに「昨日のおめー可愛かったぜ」とからかわれたことがある。いったいどんな醜態を晒してしまったのか怖くて問い質せなかった。
 学生時代にも似たようなことがあり、は適量にとどめるようにしている。

 しかし、ジョルノがあまりにも必死に説得してくるのでつい、

「そのワインバー、良かったら連れて行ってください」

 と口走ってしまった。
 前回断ってしまった気まずさもあるが、それ以上に、はこの夜が終わってしまうことを惜しんでいた。明日もまた顔を合わせるというのに。今、この瞬間が終わってしまうことに言いようのない名残惜しさを感じた。

 はこのネアポリスで生まれ変わった。ギャングとして生きると決めたその日から何かを望むことを諦めた。しかし今、彼女の中に小さな燈火が生まれていた。
 ジョルノ・ジョバァーナに仕えたい。彼の元で少しでも長く働きたい。それが新たに生まれた彼女の願いだった。全ての望みを捨て去って、一度からっぽになったの心を暖かく満たす、それは希望の光だった。

 二軒目に訪れたワインバーは落ち着いた雰囲気の高級なバーだった。
 騒ぎ立てる集団もおらず、どの客も静かに会話とワインを楽しんでいる。
 通されたボックス席は座面も厚くゆったりとした造りで、シートは全て上質なレザーだ。

 カクテルワインは飲みやすく、ジョルノと交わす取り留めのない会話も楽しかった。
 お互いお喋りな方ではない。会話は時々途切れたが、沈黙さえも心地よかった。
 しかしそれは、ジョルノがどんな女性にも合わせられるタイプだからだ。
 彼なら相手はいくらでもいる。以前、会食の席に必要な同伴者を斡旋した際も、相手役の女性から「またぜひお会いしたいわ」と個人的に誘われていた。
 知性と教養を備えたあの美しい女性ですら彼はにべもなく断ったのだ。

 ジョルノ・ジョバァーナほどの男が恋に落ちる相手とは、いったいどんな女性なのだろうか。
 そんなことをつらつらと考えていると飲むペースが上がった。

 ふと、視線を感じては顔を上げた。目が合うとジョルノは引き結んでいた口元をゆるめた。計算された笑みではない。こぼれるような笑みだった。

さんって、アルコールに弱いわけじゃあないですよね」
「そうですね。弱くはありませんが、自分の適量は把握していますので自制はしています」

 は会話を続けながらも、体温が徐々に上がっていくのを感じていた。
 やたらと喉が渇くし、頬も火照っている。
 これ以上はマズい、と体が警鐘を鳴らしている。敬愛する上司の前で醜態を晒すわけにはいかないが、それでも、あと少しだけ、と先延ばししてしまう。

 しかし、終わりはやってきた。偶然ミスタとフーゴが現れて、そこから先はあっという間だった。
 ミスタから振る舞われたショートカクテルワインをが口にすると、それをジョルノが取り上げた。飲み過ぎだ、とやや苦い顔つきで。

 飲み過ぎている自覚はあった。彼と過ごす時間は楽しくて、無防備になり過ぎてしまう。緊張感を保たなければ。は事務的な声で言った。

「もう十時を過ぎていますね。私はそろそろ帰ります」

 送ります、とジョルノが言ったのでは一瞬の躊躇の末にその申し出を受けた。普段であれば断るところだが、今は仕事中ではなくプライべ―トの時間であること、酔いで判断能力が多少低下していることなどがその理由だ。

 パウダールームでメイクを直し、が席に戻るとなにやら場が盛り上がっていた。
 ミスタやフーゴだけでなく、隣のボックス席の客や、カウンター席からも首を伸ばして様子を伺っている。
 場の中心にはジョルノがいた。彼は奇妙な芸を披露していた。
 それを目にした瞬間、保っていた緊張感が崩れた。はたまらず笑い崩れた。
 いったいどういう仕組みなのか、耳が耳の穴に全部収まっている。それ自体も面白いが、ジョルノ・ジョバァーナという完璧な男がしているからこそよけいにおかしかった。

「やだ……っ、信じられないわ」

 は中腰になって笑った。涙まで滲んでくる。前方に気配を感じて顔を上げるとすぐ目の前にジョルノが立っていた。放心したような顔だった。

「こんなことでいいんですか」

 と彼は言った。はえ?と聞き返した。

「こんなことで笑ってくれるのなら……いくらだって」

 そこで言葉を詰まらせ、ただじっとを見つめている。

「お兄さん、面白いことできるねえ」とカウンターから声が飛び、店は和やかな笑いに包まれた。そんな中、突然ジョルノが動いた。
 彼は真剣な顔つきでの手を握ると、彼女の腕を引いて歩き出した。仲間の呼び掛けには一切応じない。聞こえてもいない様子で、最後は駆け足になって店を出た。その様子はまるで、花嫁を奪って走り去る往年の青春映画のワンシーンのようだった。
 荒々しく開いた扉がやがて音もなく閉まる。若い女性客の一人が熱っぽい顔でつぶやいた。「ロマンチックだわ」と。


 は腕を引かれたまま、ジョルノ・ジョバァーナの後ろ姿を見つめていた。
 歩くたびに揺れる後ろ髪、意外と広い肩幅、ぱりっとしたスタンドカラーのシャツ、そこでは彼のジャケットがまだ店のクロークに預けられたままであることに気づく。自分のバッグだってそうだ。

「ボス……いったいどうされたんですか」

 ようやく声をかけると前方のジョルノが足を止めた。そこは小さな広場だった。噴水の水は止まっているが、ベンチにはまだ人影がある。カップルが親密そうに何かを語らっていた。

 ジョルノは振り返らず、しかし繋いだ手も離さず、小さな声でつぶやいた。

「ぼくは……ここ最近、少しヘンなんだ。君のことで頭がいっぱいだった。あの夜から、もうずっとそうなんだ。それなのに君は、君は涼しい顔でなんでもないようにぼくに接する」
「ボス」
「いや、わかっている、これはただのワガママだ。君には何の落ち度もない。君は優秀な秘書だ。ぼくが……ぼくだけがッ」
「あの、待ってくださいボス」
「ぼくはもうずっと君の笑った顔が見たかった。どうやったら笑ってくれるんだろうとそんなことばかり考えて……こんな思考は無駄なのに、どうやったって消えてはくれないんだ」

 脱力するように手が離れ、ジョルノが振り返る。は驚いて息を止めた。酷く傷ついたような、思いつめたような眼差しがそこにあった。

「迷惑なら、ハッキリとそう言ってください。今後の関係に支障が出るようなことは……」

 ジョルノはそこで言い淀んだ。「ないとは言えないかもしれないけれど、努力はします」

 は信じられない思いで上司を見つめていた。
 彼が今しようとしているのはおそらく愛の告白だ。なぜ、という疑問がまず浮かぶ。
 なぜ、彼が私に?
 自信に満ちあふれたドン・パッショーネの姿はそこにはなかった。威厳も貫禄もない、どんな難題も飄々とやり過ごす器用さもない。
 ただ、切実なまでに真剣に、思いのたけを伝えようとしている一人の青年がそこにいた。は静かに胸を打たれた。

「ぼくは、さん、あなたのことが──」

 全てを聞き届ける前には両手で彼の頬を包み、つま先を立ててキスをした。
 柔らかく重なった唇が離れても、ジョルノは瞬きすらしない。

「あ」とは言った。「すみません、つい」とも。

 止まった時間が動き出したようにジョルノが顔色を変える。眉間に濃いしわが刻まれた。

「……ついって、さん……あなた」
「すみません、我慢ができなかったのです」

 今度はがジョルノの手を取った。その温かさに彼女は無性に泣きたくなった。

「聞いてくださいボス、私は決して涼しい顔であなたに接してなんかいません。私もここ最近、ボスのことばかり考えていました。不整脈のように心臓がドキドキして、胸がつぶれそうになるんです。……こんなことを言ってしまっては恐れ多いのですが」

 はしばらく言葉を探すように口を閉ざしたが、覚悟を決めて口を開いた。

「私はおそらく、あなたに恋をしています」

 長い長い沈黙があった。
 驚きを隠せず、目を見開いていたジョルノだが、やがて深く息を吐いた。彼は釈然としない顔で力なくつぶやく。

「せっかくのぼくの告白が台無しじゃあないですか、さん」
「……え、それは」
「イイところは全部あなたが奪ってしまった」

 すみません、と謝罪するをジョルノは胸にかき抱いた。彼女の後頭部を抑え込み、髪に指を絡める。「これから先は覚悟してくださいね」と耳元でささやくと、噛みつくようなキスをした。




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