ボスと笑わない秘書13
フーゴお勧めのワインバーはただワインが充実しただけの大衆店とは違い、ソムリエなどの有資格者もきちんといるような専門店だった。
豊富なワインが並んだカウンター席の奥にはボックス席もある。
ジョルノ・ジョバァーナの姿を目にした店主は慌てて挨拶に現れた。
四十絡みの人の好さそうな店主は、ジョルノが連れの女性とたった二人だけで訪れたことに驚きを隠せない様子だったが、すぐに感情を消して接客に努めた。
「お席はどうしましょうか、奥のボックス席もご用意できますが」
「そうですね、さんはどっちがいいですか」
「私はどちらでも構いません」
ジョルノは少し考えてからボックス席を選んだ。その方がじっくりと話せると考えたからだ。
客層は良く、誰もがマナーを守ってワインと会話を楽しんでいる。
二人は長いカウンターを横切って奥まった位置にあるボックス席に移動した。
店員に脱いだジャケットを渡し、ジョルノは用に甘めのワインカクテルを、自分にはお任せでと店主に告げた。
「いったいどういう風の吹き回しですか」
席につき、人心地つくとジョルノはさっそく尋ねた。
「さんがもう一軒付き合ってくれるなんて。いや、ぼくとしてはとても嬉しい。まだもう少し飲みたい気分だったので」
「私も、もう少し飲みたいなと思ったんです。でも、ボスは私と一緒で退屈ではありませんか」
「そんなことはない」
ジョルノは食い気味に返した。
「もっと話題も豊富で会話を楽しめる女性はたくさんいます。私はあまりそういったことが得意ではないので」
「ぼくだって、どちらかと言えば苦手です」
「そうは見えませんが」
「見えなくても、そうなんです」
確かに二人の会話は事務的で盛り上がりにも欠ける。
それでもジョルノは不思議と退屈だとは思わなかった。むしろ、この静かな時間が心地良い。思えば昔から、彼は女子特有の騒がしさが苦手だった。よく言えば愛嬌のある、悪く言えばきんきんと甲高いあの声で喋りかけられるとうざったく思ってしまうのだ。
ジョルノの前にはストレートの赤ワインが、の前には紅茶色のショートステムグラスが運ばれる。
口をつけたは「美味しい」と少し意外そうにつぶやいた。
「それは良かったです」
ジョルノは自然と微笑んでいた。
はややぎこちなく店内に目を巡らせて言う。
「落ち着いた雰囲気のお店ですね」
「ええ、フーゴ行きつけの店だけありますね」
「あの店主は、ボスの正体を知っているんですね」
「前回は外にSPが待機していましたから、大方の予想はついているんじゃあないですか。フーゴだってわざわざ自己紹介したりはしないでしょうが、会話の流れで多少はそういった話もするでしょう」
は何かを言いかけたが口をつぐんだ。
不用心だと言いたいのだろうが、彼女はそれを飲み込んだ。結局のところ、自由を得るためにはある程度の危険は覚悟しなければならない。
ジョルノ・ジョバァーナは正体を隠さないが、積極的に顔を売ったりもしない。知っている者は知っている。彼らは決して言いふらしたりはしない。そうやって関係ができている。
はもう一杯同じものを注文すると、それを皮切りにけっこうなハイペースでグラスを空ける。ジョルノもジョルノで同程度には飲んでいた。
「さんって、アルコールに弱いわけじゃあないですよね」
前回のリベッチオでも彼女はけっこうな飲みっぷりだったが、顔色一つ変えず、翌日もシャキっとしていた。
「そうですね。弱くはありませんが、自分の適量は把握していますので自制はしています」
「そう言えば前にそんなこと言っていましたね」
「はい。楽しいとつい飲み過ぎてしまうので」
「そうなんですか」
と返したジョルノは、少し驚いてを見つめた。
リベッチオで飲んだ翌日、事務所の前庭のベンチで彼女は言っていた。昨日は少し飲み過ぎてしまったのだと。
つまり、彼女にとって前回のリベッチオでの食事会は楽しかったのだ。
とてもそんな風には見えなかったし、食事だけでさっさと帰ってしまったけれど、あれは彼女なりに楽しんでいたのだと。
ジョルノは無意識に額に手をやっていた。
(まったく、なんて分かりづらい人なんだ……)
「どうかされましたか、ボス」
気遣わし気に声をかけてくるをジョルノは改めて見つめた。
繊細なチェーンの先についた小粒の宝石が耳たぶで揺れている。深い海を思わせるネイビーブルーのミニドレスも、細い指の先で控えめに塗られた淡い色のマニキュアも、初めて目にするの姿だった。
帰宅してジョルノが迎えに行くまでの数時間、彼女はどんな顔でそれらの準備をしていたのだろうか。
その姿を思い描いたとたん、思考が止まる。ジョルノは耳の先まで顔が熱くなるのを感じた。
お洒落をしてきてくださいね、と自分が言ったから、彼女はそれに従った。そう思っていたが、そうではないのかもしれない。もしかしたら彼女は彼女なりに、今夜の誘いを、自分と過ごすこの時間を楽しみにしていたのかもしれない。
ジョルノを見つめるの瞳は心なしか潤んでいた。頬もほんのり赤みが射している。酔いがまわってきているのだ。
「さん、ぼくは」
たまらずジョルノが言いかけたとき、それを打ち消すような大声が背後で上がった。
「あっれーーーッ、ジョルノじゃあねえか!おっ、もいんのかよ、奇遇だなッ」
「声が大きいぞッ、こういう店では静かにするのがマナーだろーがッ」
二人の声には聞き覚えがあった。あり過ぎる、と言っても過言ではない。
面食らったように振り返るジョルノの向こうでも立ち上がった。
「幹部、フーゴ様、どうされたんですか」
「よう、どうもこうもねえよ、フーゴの野郎がよォ~、今夜どうしてもこのオレと飲みてえとか言うモンだからよォ」
「おまえ、何言ってんだッ」
「よォジョルノ、調子はどうだ?」
グイード・ミスタは断りもなくジョルノの隣に腰掛けると彼の肩を抱いた。げんなりしたジョルノにはお構いなしで耳打ちする。
(なんだよまだデキ上がってねえのかよ、もっとガンガン飲ませろよ、あいつのカワイイ顔が拝みてえんだろォ~)
嫌悪感を露わにしてミスタを睨むフーゴだが、隣のジョルノに目を移すとぱっと表情を変えた。
「すみませんボス、ぼくは止めたんですがミスタのヤツが」
「ケッ、よく言うぜッ、おめーだって興味深々でついて来たくせによ」
「違うッ、ぼくはただおまえが何か勝手をするんじゃあないかと心配だっただけだッ」
「……取り合えず、座ったらどうです」
「いえ、ぼくらはアッチの席で。おい、行くぞミスタッ」
「わーったわーった」
ミスタは去り際、のグラスにちらっと目をやって、再びジョルノに耳打ちした。
(あんなモンいくら飲んだって酔わねえよ、オレが最ッ高にホットなヤツ頼んどいてやるぜ。これ飲んだら女が即酔っぱらっちまうってヤツをよォ~)
ほどなくして、店主がグラスを二つ運んで来た。
「あちらのお客様からです」と告げてカウンターのミスタを腕で示す。彼はにやっと笑って手を振った。
の前に置かれたのは、薄ピンク色の可愛らしいショートカクテルワインだ。
ワインの中には通常のものより敢えてアルコール度数を上げたものが存在する。甘口で見た目も可愛いが、いわゆるレディキラーカクテルと呼ばれるものに近い。
「美味しそう」
がステムに指を添える。濡れて艶のある唇にグラスの縁が触れたその瞬間、強く心臓が跳ねた。ジョルノは咄嗟に身を乗り出していた。
ほとんど衝動的に彼女の手からグラスを奪い取る。液面が波打ってテーブルに数滴こぼれ落ちた。自分でも何をしているのかよくわからなかった。
「ボス……?」
「もう、止めた方がいい」
飲み過ぎだ、とジョルノが諫めると、はやや目を大きくしたが、すぐに「そうですね」と返した。
「少し、飲み過ぎたかもしれません。すみません」
「いや、いいんだ。ぼくの方こそすまない」
なるべく柔らかく聞こえるよう意識してジョルノはそう言った。
「もう十時を過ぎていますね。私はそろそろ帰ります」
「ぼくも帰ります。送りますよ」
「ですが、いいんですか」
「ミスタたちのこと?別に構わないですよ、彼らは彼らで飲みにきたんでしょうから」
カウンターに目を向けるとグイード・ミスタは大げさに肩をすくめてみせた。への字の口が「仕方ねえなァ」とでも言っているようで、ジョルノも苦笑いする。
がトイレに立つとさっそくミスタがやって来て、テーブルに手をついた。
「人がせっかく頼んでやったのによォ」
「これでいいんですよ、酒なんかに頼ろうとしていたぼくがバカだった」
妙にさっぱりとした口調でジョルノが言う。ミスタは片方の眉をつり上げた。
「えらく殊勝じゃあねーかよ」
「笑い上戸のさん、正直想像もできないけれど、きっとスゴク可愛いんでしょうね」
「おうよ、すっげー可愛いぜ。オレも一回しか見たことねえけどな」
ジョルノが上目に彼を見上げた。
「それ、ぼくのためと言うよりは自分がまた見たかっただけじゃあないですか」
ジョルノが呆れて指摘すると、ミスタはおどけて笑った。「バレちまったか」
「すみません……本当はぼくもただの便乗です。ちょっぴり興味がありました」
フーゴも加わって、男三人が情けなく笑った。
「なあ、いっそくすぐっちまうか?フーゴおまえあいつの腕押さえてろよ」
「それは……なんかヤバいんじゃあないか」
「許すわけないでしょう、そんなこと」
「だったらよォージョルノ、おめーがなんか一発芸でもして笑わせてみろよ、なんかねーのかよ」
「ありませんよ、芸なんて」
ジョルノは呆れかえった様子で言うが、ふと思いついて耳に手をやった。
「ぼくができる芸なんて、これくらいしか」
と言って耳たぶを丸め、グニグニと耳を穴に押し込んでいく。現実的にはあり得ないが、耳が全て穴に収まってしまった。
ミスタが大げさなほど驚いた。
「うげ~~~、キモチわるぅ~ッ!おまえなんでそんなコトできんのぉ?」
「とても人間業とは思えないですね」
言いながら、フーゴもぷっと吹きだす。
隣のボックス席の客たちも顔を覗かせて声を上げて笑う。そんな中席に戻ったは、ジョルノ・ジョバァーナのその奇妙な芸をじっと見つめた。
凛々しく整った顔つきがゆがみ、彼女はたまりかねたように吹きだした。
「えぇっ、ボス、それ、どうなって……っ、やだっ」
口元を隠すこともせず、は声を上げて笑った。
彼女はやだ、とか信じられない、などと漏らしながら涙目で笑っている。
信じられないのは三人のギャングの方で、特にジョルノ・ジョバァーナは完全に思考が停止していた。
屈託なく笑う彼女を見た瞬間、まるで感電したような痺れが全身を駆け抜けた。
彼は立ち上がっていた。怪訝な顔で見つめる二人の仲間の間を通り抜け、の真正面で足を止める。
「こんなことでいいんですか」
「え?」
笑いを収めたが涙目で聞き返す。
「こんなことで笑ってくれるのなら……いくらだって」
言いながら、ジョルノは何かが堪え切れなくなった。抑えつけていた感情が暴れ出す。抗っても飲み込まれてしまうような力強さで。
もうずっと、自分はこの・という女性の笑顔が見たかった。笑って欲しかった。思い返せば最初から、執務室で振り返った彼女の姿を一目見たあの瞬間から、きっともう彼女に惹かれていたのだ。
「お兄さん、面白いことできるねえ」
カウンターの客が感心したように声をかける。
普段は落ち着いた雰囲気の高級なバーだが今は和やかな笑い声につつまれていた。
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