ボスと笑わない秘書12
口に含んだエスプレッソが沁みわたる。ジョルノはプレジデントチェアに背を沈め、ゆっくりと息を吐いた。
絶妙な濃さで抽出されたエスプレッソ、マルセイユのリーフ皿には見た目にも鮮やかなプラリネチョコレート。
彼はそれを一つつまみ、事務的な口調で朝の報告を始める秘書の声に耳をかたむけた。
「同盟組織のパガーノファミリーのボス、チーロ・アゴスティ様から面会の申し入れがあります。できれば夕食も共にしたいと仰っていますが、いかがなさいますか」
「構いませんよ。確か彼はオペラが好きだから、今の演目を調べてくれませんか。席の確保も」
「かしこまりました。席はロイヤルボックスでよろしいですか」
「いや、一階中央のプラテアを。彼はその方が喜ぶんだ」
「かしこまりました」
は手帳に書き込み、次の伝達事項に移る。
「来月の幹部会についてですが、参加者への通知は全て終わりました。ヴァル・ドルチャの幹部から一件確認事項が届いています。メールを転送しましたのでご確認お願いします」
「あの偏屈ジイさんか……」
ジョルノのつぶやきにが反応する。
「面倒な人物なんですか」
「いや、サッパリしていて心根はいいジイさんだ。ただ、ぼくを困らせるのが好きなんだ」
よくわからない、という顔でが首をかしげる。
「まあ、あまり気にしないで。会えば君もわかる。他に報告は?」
「いえ、以上です」
は軽く会釈してデスクに戻りかけたが、途中で足を止めた。「さん」とジョルノが呼び止めたからだ。
「何でしょうか、ボス」
振り返った顔は今日も凛としていて隙がない。
服装も相変わらずのブラックスーツで、歩きやすそうなローヒールパンプスを履いている。
ジョルノは一度深く息を吸うとひと息に言った。
「さん、今夜良かったら食事にでも行きませんか」
「お食事ですか」
「ええ」
「はい。わかりました」
上司の誘いには無難な返事をした。好意的なのか義理なのかは判断がつかない。どちらにも受け取れるような口調だ。
「お洒落してきてくださいね」
「このままではいけませんか」
「せっかくの食事だ。それでは少し味気ない。─いや、否定をしているつもりはないんだ。仕事着としてなら動きやすそうでいいと思います」
「ありがとうございます」
「それで、どうなんです。ダメですか?」
は顔を上げた。ちょっと意外そうな顔だった。
「いえ、ダメという訳では……。では一度自宅に戻って着替えてきます」
「でしたら迎えに行きます。七時ごろでいいですか」
「え、ボスがですか?」
「仕事が終わればぼくは君のボスじゃあない。対等に、友人として、食事がしたいと言っているんだ」
わかりました、とはこたえた。「お店はどうなさいますか」
「まだ、特には」
「それでしたらどこか予約します。どういったお店がいいですか」
「そうだな、」
と言いかけて、ジョルノは気づいた。これではいつものやり取りだ。
それでは意味がないのだ。彼ははぐらかすように笑った。
「お店は、特に決めなくてもいいでしょう。ふらっと歩いて、気になった店があればそこにすればいい」
ジョルノはを何気なく誘っているように見えるが、実はそうではない。
ここ数日、彼はタイミングを見計らっていた。
ボス失踪事件─と組織の一部でウワサされている─以降、ジョルノを取り巻く環境は変わった。公務の際はこれまで通りボス専用車でSPや親衛隊に警護される毎日だが、プライベートは完全に自由になった。県外に遠出する場合はこの限りではないが、このネアポリスで過ごす分には所在も明かさず、ふらっと本屋に寄って好きなフランス文学コーナーで立ち読みしたり、カフェテリアで午後のひと時を楽しんだりしている。これほどの開放感を味わったのは久しぶりだった。
こうなって初めて、彼は自分がいかに無理をしていたのかを痛感した。もうずっと息が詰まるような閉塞感を感じていたのに、それに気づく余裕すらなかった。
あの日、の言葉がそれを解き放ってくれた。ジョルノは彼女に感謝していた。
夕方、を先に帰宅させたジョルノはさっそくミスタの携帯を鳴らした。
外の喧噪と共に陽気な声が耳に届いた。
『よっ!マイボス、何か用かァ』
「外ですか。今話せます?」
『いいぜ、何の用だよ』
電話の向こうで賑やかな声がする。手短に済ませるべく、ジョルノはさっそく切り出した。
「今夜さんを食事に誘いました。約束通り、教えてください」
『あ?教えるって何をだよ』
「さんを食事に誘ったら教えてくれると言ったでしょう、忘れたんですか」
執務室にはジョルノ一人で、今はカメのココもいない。誰が見ているわけでもないのに自然とささやき口調になってしまう。
一拍置いてミスタは声を上げた。
『あ~~ッ!アレかッ、どうやったらが笑うかってヤツね!』
「声が大きいです」
ジョルノは淡々と、努めて冷静に続けた。
「最近のさんは以前よりも表情が柔らかくなった。時々、微笑んでいるように見えることもある。けれど、ミスタが言ったような「最ッ高にキュート」な笑顔とは少し違うんだ。どうやったら彼女はそんなふうに笑うんですか」
以前、ミスタからそう聞かされたとき、興味はあったものの聞き流していた。
別に笑わずとも仕事はできる。彼女は秘書なのだから。
だが、ジョルノはもうすでに一度見てしまったのだ。あの夜、ネアポリス中等部寮の裏手の非常階段で、口許をほころばせ、泣き笑いする彼女の姿を。
自分なりに工夫して、ジョークなどを飛ばしてみたものの、あのクールな瞳で見つめられるだけだ。意を決してミスタに尋ねたら、前述のことを言われた。「あいつをデートに誘えたら教えてやるぜ」とからかうような口調で。モヤモヤするが、他に知る手立てがないのだからここは折れるしかない。
『そーかそーか、ようやく誘ったんだな。いいぜいいぜ、教えてやるぜーケケケ、その代わりどうなったかちゃーんと教えろよォ』
午後七時。ジョルノはのアパートメントを前に落ち着かない様子だった。
ボス専用車で帰りがけに何度か送ったことがあるので場所は知っている。ごく普通の集合住宅だ。
もっと事務所に近い立地に好物件がある。ヴォメロ地区は比較的安全なエリアで裕福層が暮らす。もっとセキュリティのしっかりしたコンドミニアムもあるのだが、勧めたところで彼女は首を縦には振らないだろう。その姿がありありと浮かぶので、ジョルノはその提案を最初から諦めている。
・は他人に対しては細やかな気遣いができる女性だが、自分のこととなると案外無頓着だ。
「すみません、ボス、遅くなってしまって」
が現れたのは午後七時を五分ほどまわった頃だった。
何事にもキッチリした彼女らしくないな、と思いながら振り返ったジョルノははっと息を飲んだ。
エントランスに現れたは鮮やかなネイビーブルーのワンピースを着ていた。ミニ丈だが襟元がやや詰まった上品なデザインだ。
「ボス、車で来られたんですか。運転は私がしましょうか」
ジョルノの背後に目を向けてが言う。
そこに停まっているのは高級なイタリア車だが、ボス専属車ではなく、運転手もいない。ジョルノ・ジョバァーナの私有車だ。
「その靴で運転はさせられない」と彼は助手席のドアを開けた。
「大丈夫ですよ、これけっこうヒールが太いので。いざとなれば走れますし」
「君はいつもそうですね」
ジョルノは思わず笑った。
は相変わらず自分に厳しく、毎朝のジョギングで体力作りに励み、たまの休日には銃の腕を磨いている。
話し合った末、彼女が銃を携帯することをジョルノは許可した。彼女の覚悟を受け入れたのだ。
スカートに隠れた太ももには今もホルスターに収まった彼女の愛銃があるのだろう。
「安心してください。さんが全力疾走しなくてもいいようにぼくがちゃんとエスコートしますから」
は沈黙した。二秒ほどして彼女は頭を下げた。「よろしくお願いします」と。
「それ、さんのクセなんですか」
「え?」
「その、妙な間というか、いつもキッカリ二秒ですよね」
「いえ、そんなつもりは」
無自覚なのか、とジョルノは思う。彼女の頭にはスーパーコンピュータが仕込まれていて、その二秒で最適解を導き出しているのかと彼は冗談交じりに考えていた。
初めて会った頃、彼はをロボットのようだと例えた。しかし、今はもう彼女の感情の変化を読み取れる。酷くわかりづらくはあるが、はきちんと意思表示をしている。
ジョルノは暮れかけた空を見上げた。
「良かったら、車はここに置いて少し歩きませんか」
ジョルノの提案をは快諾した。その顔つきはどこか嬉しそうでもあって、ジョルノも自然と口元が緩んだ。
二人はキアイア地区まで足を伸ばし、海岸沿いのリストランテで夕食をとった。
嗜む程度のワインを飲み、食事を楽しむ。店主お勧めのメニューにしたので、コースにジョルノの苦手なカモ肉の料理があった。
「鶏肉はどうも食感というか、こう、噛んだ感触が苦手で」
「ボスの嗜好は把握しています。すみません、今夜は業務外でしたので」
「せめてカモ肉じゃあなければ多少は食べられるんですが、これだけはどうしてもダメなんだ」
「そうですか」
「さんにだって苦手な食べ物の一つや二つはあるでしょう?」
「ありますが、我慢して食べることはできます」
「我慢してまで食べることに意義を見いだせない。だいたい、なぜ海鮮系の店でカモ肉が出るんだ」
「それは私も同感です。でも、とても美味しいです」
と言っては切り分けたカモ肉を口に運んだ。
艶のある唇、動くたびに揺れる耳元のピアス。濃紺のワンピースの襟元には金糸の刺繍がある。清楚だが華やかさもあって、テーブル横を通り過ぎる男性客がさりげなく視線を寄越している。
そういった目にはジョルノ自身も慣れているが、彼女に向けられる好意にはなぜか受け入れ難いものがあった。
ジョルノはワインボトルを傾けて、残り少なくなったのグラスに注ぎ足そうとするが、彼女はそれをやんわりと断った。
彼は驚いて言った。
「え、もういいんですか、まだ全然飲んでないじゃあないですか」
「明日に差し支えますので」
「明日って……まだ九時にもなってないですよ」
「ええ、ですがもう」
ジョルノは沈黙して、同席の女性のグラスをただじっと見つめた。
ジョルノ・ジョバァーナは中学の頃からよくモテる少年だった。黙っていても女の子たちの方から寄ってくる。
興味本位で交際したことはあるが、それが恋かと問われれば首をひねってしまう。誰か一人に執着することなど彼にはなかった。
人心掌握術に長け、イニシアティブを取ることにも慣れているジョルノだが、お代わりを断った女性にもう一杯飲ませる口説き文句は知らなかった。
(まいったな……これじゃあもう今夜が終わってしまう)
グイード・ミスタは電話口でこう告げた。
─を笑わせたけりゃあ酔わせろ。あいつは笑い上戸だ、面白れーぜェー
内心、ジョルノはがっくりしていた。いったいどんな方法なのかと思えばこれだ。それでは本当の意味で笑っているとは言えない。しかし、好奇心が勝った。どうにかもう一杯呑ませる手段はないだろうかと彼は画策していた。
「食べないんですか、ボス。このドルチェとても美味しいですよ」
「ミスタから」
ジョルノはの声など耳に入らない様子で口を開いた。
「ミスタから訊いたんだけれど、さんは渋みのあるワインよりも甘味の強いものの方が好みだそうですね。それなら、ワインカクテルはどうです。あれなら口当たりも軽くて飲みやすい。この前フーゴと行ったワインバーの雰囲気がとても良かったんだ。君さえ良ければこの後ぜひ……」
向かいの席のがぽかんとジョルノを見ていた。
淡い色のネイルが塗られた指をドルチェのスプーンを添えたまま。
何か不自然だっただろうか、ジョルノは内心動揺した。そもそも、もう酒はいらないと断った相手をワインバーに誘うこと自体がもうすでに不自然なのだ。そのことに今さら気づいた。どうにかして彼女を引き止めたかった。その思いが先走ってしまった。
「──いえ、あの、何でもありません。食べましょう」
ジョルノもスプーンを手に取り、ラズベリーソースのかかったパンナコッタを口にする。酸味と甘みが口の中で溶けた。
・という女性をもっと知りたい。それはもう、ジョルノの中で疑いようのない事実となっていた。
だが、どうすればもっと彼女に近づけるのか。物理的な距離は近い。だけれど、彼女の心に触れるまでの距離はとてつもなく遠い。
「連れて行ってください」
が言った。
「え?何ですって」
ジョルノが顔を上げると視線が真っ直ぐに交わった。はドルチェを食べる手を休めたまま、ジョルノをじっと見つめていた。
「そのワインバー、良かったら連れて行ってください」
不意を衝かれ、ジョルノは返答に手間取った。服装のせいなのか、耳元で揺れるピアスのせいなのか、の雰囲気はいつもより柔らかい。
ジョルノは胸に抱いている感情が加速していくのを感じた。やはりまだ彼女を帰したくはない、彼は今はっきりとそう自覚した。
「ここからだと少し……距離があるんです。タクシーを呼びましょう」
彼は腕を上げてカメリエーレを呼び寄せた。
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