バミューダガール02



「少し出て来る。手を抜くと殺すぞ」

 ノックもなしにドアを開けたクロロは、いつもの脅し文句と殺気を残して出て行った。
 どうせ夜明け前に甘ったるい匂いをつけて帰ってくるのだ。せめてチョコレートやケーキの匂いならいいのに。
 ご丁寧に玄関や窓という窓全てが密封されてここは完全密室なので、私は逃げられない。わかっているから余裕綽々と出て行くのだ。
 常に私を圧迫する古書の山にちらりと目をやって、はあとため息をつく。
 このマンションにはキッチンと言わずバスルームと言わず本がある。どれも古ぼけた小難しそうな本だ。だけど実はいくつか内容がわかるものがある。以前に知識を奪ったセレーナというストリッパーの女性が、意外にも無類の本好きだったからだ。

 私はこれからどうなるんだろう。ロイド=バララーエフの知識を搾り出すだけ出したら殺されるのかな。解放されるというのは考えにくい。クロロ=ルシルフルはたぶん悪党だ。私だって殺人犯だけど、きっとレベルが違う。最後は口封じで殺られると考えるのが妥当だ。死ぬ前に美味しいものが食べたい。
 うな垂れたまま電脳ネットを立ち上げる。せめて映像だけでも、と思ってグルメページをクリックしたらぴこんと小窓が現れた。またヤツか!グルメは大丈夫だったはずなのに……!
 腹がたってフテ寝した。あてがわれた部屋にはベッドすらなく、毛布一枚を与えられているだけなので包まって床に転がるしかない。今時刑務所だってもう少し受刑囚に優しいはずだ。

「いい度胸だな」

 悪寒を感じて飛び起きる。明るかった室内が薄暗くなっていた。
 出て行ったはずのクロロが戸口で美形も台無しの形相で仁王立ちしている。
 この部屋には時計もないのに条件反射できょろきょろしていると、クロロが「7時だ」と冷ややかに言い放った。
 殺される前にデスクにつき、大慌てで作業をはじめる。キーボードを少々大げさにぱちぱち弾いた。

「昼寝した分今夜は徹夜でやれ。だがその前にまずそのよだれのついた顔を洗って来い。それからコーヒーを淹れろ」

 それだけ言うとさっさと廊下に消える。反論をする勇気はないのでとぼとぼと洗面所に向かった。
 顔を洗ってリビングに行くと、ふわりと甘い匂いがする。頭が痛くなるような甘ったるい香水じゃない。
 ダイニングチェアに足を組んで座ったクロロがスプーンを口に咥えてページを捲っている。手元にあるのは可愛らしいケースに入ったプリンだ。

「わ、私のはっ!?」

 思わず叫んだ。ここに来てからというもの甘味とはまるで無縁の生活だったのだ。

「がっつくな、お前のもちゃんとある。だがまずコーヒーを淹れろ」

 美味くな、と付け加えてプリンを一匙すくう。意外にも黒尽くめの悪党とプリンという図は似合っていた。
 コーヒーメーカーをセットして、いつもより粉の量を減らす。敢えて不味く淹れているのはきっとあの男にはお見通しだ。
 食器棚の中には誰が選んだのかセンスのよい食器が控えめに佇んでいる。白磁のカップを二組出して、芳醇な香りをたてるコーヒーを注いだ。
 どうぞ、と置くと、ん、と返事ともただの息遣いとも取れるような反応をする。カップが口元に運ばれるさまをじっと見ていると目が合ったので慌てて逸らした。

 クロロが買って来たプリンは飾り気のない、たまごと牛乳の味がしっかりする素朴なプリンだった。それに苦めのカラメルソースがよく合って、なんだか懐かしい味がした。感想はというと◎だ。
 ちら、とクロロを見ると、相も変わらず難しい顔で活字を追っている。
 一瞬忘れそうになったけど、クロロは人攫いで私は人攫いに攫われたかわいそうな女の子。しかも今夜は徹夜だ。


***


 クロロに連れ去られて一ヶ月、私の翻訳作業は頭止めになった。そもそもウイグルクルド語が解読途中の未開発言語であったこと、顎ひげ男の知識を吸い取ったせいでロイド=バララーエフの知識の一部が散逸してしまったこと、この二つの要因によって。

 最初はごまかしごまかしやっていたけれど、クロロが「これでは意味が通じない、やはり手を抜いているんじゃないのか」と仏性面で言ったので頭にきて現実をぶちまけた。

「手なんか抜いてないわよ!あのおじいちゃんだって全部は解読できてなかったんだから!だいたい毎日毎日のたくった古代文字相手に格闘してる私の身にもなってみなさいよ!」
「わかった、解放してやるよ。これ以上の翻訳が不可能ならお前をここに置く意味はない」
「……え?解放?」
「ああ」
「殺さない……の?」
「殺して欲しいのか」
「そういうワケじゃないけど……」

 私が中途半端に翻訳した用紙を捲りながら、クロロ=ルシルフルがじゃあなと言う。びっくりするほど呆気ない幕切れだ。
 本当に殺されないんだろうか。背中を向けた瞬間グサリなんてありそうだ。だけどクロロは動かない。私は数歩歩いて立ち止まり、それからくるりと向き直った。
 ソファから一ミリも動こうとしないクロロの前までつかつかと戻り、彼の太腿に手を乗せる。その手を腰骨の辺りまで滑らせた。

「一ヶ月もタダ働きさせて、それだけ?」
「命は取らないんだ。ラッキーだろ」
「報酬を、ちょうだいよ」

 活字を追っていた目線が止まる。それがゆっくりと上昇した。
 心臓がどくんと鳴る。緊張しているのが自分でもわかった。

「いくら欲しいんだ」
「お金はいらない、クロロでいいよ」

 セレーナっぽく喋ってみたけど失敗した。はたしてこれは私の意思なんだろうか。
 私は多重人格者じゃない。だけどもうぐちゃぐちゃになって、どれが私の意思でどれが誰かの意思なのか曖昧だ。
 クロロは無表情のまま紙の束を傍らに放り、それから私の腰を抱いた。引き寄せられて膝の上に乗り、照明が室内を煌々と照らす中するりとニットを脱がされる。

「……っ、待って」
「俺が欲しいんだろ?」

 ショートパンツのホックが外されて、片足ずつゆっくりと抜き取られる。キャミソールと下着だけになって恥ずかしくなった。
 いくらたくさんの知識があっても違う。知識はあくまで知識であって実践には敵わない。
 はじめて真正面からしっかりと捉えたクロロの顔立ちは、とても綺麗で目が合っているだけで胸が高鳴った。人攫いがこんなに綺麗ならきっと被害者はみんな恋してしまう。
 ひんやりと冷たい指先が私の剥き出しの下腹に触れる。それがつうっと下降した。全神経がその動きに集中する。
 いつかのように唇が重なって、目をぎゅっとつぶった。唇が離れてまた軽く触れる。それからなぜか指の動きがぴたりと止まった。恐る恐る目を開けると至近距離に、今にも笑い出しそうな顔があった。

「ここまでだ、。俺はガキを抱く趣味はない」

 私が唖然としていると、クロロは喉を鳴らして笑った。まだ身体の芯が痺れている。

「震えながら誘われたのは初めてだ。案外良いもんだな」
「……な、なによ、バカにしないでよ!」
「バカにしたわけじゃないさ、なかなか可愛かったしな」

 顔が燃えるように熱い。クロロの上から飛び退いて落ちた服を拾い集める。鼻の奥がつんと痛くて泣きそうになった。

「ちがう、今のは……私じゃないんだから!色んな人の知識がごっちゃになってるから」
「複数の人間の知識が混ざって出来上がったのが今のお前の人格なら、それがお前だ。”お前の”意思だろ?」
「……ちがっ」
「素直に認めるなら、続きをしてやってもいいぞ」

 服を抱えたまま振り返らずに部屋を出た。悔しさと羞恥で目眩がする。エレベータに乗り込むと、震える手でショートパンツとニットを身に着けた。マンションを出ると外は黄昏時で、じわりと潤む目を拭って通行人の間に紛れ込む。
 確かにそうだ。わかってる。誰かじゃなくて”私が”クロロに触れたかった。触れて欲しかった。
 だけど嫌だ。そんなの認めたくない。
 息が切れて足がもつれる。ハッとして立ち止まった。
 ショーウィンドウに映っていたのはまぎれもなく私で、中学生くらいの小生意気そうな「私」が泣きながらこっちを睨みつけていた。


***


 その後私とクロロがどこかでばったり再会したのかと言うと、していない。
 クロロは驚くほど上手く足取りを消していたし、私は私で忙しかった。
 私はロイド=バララーエフの遺志を勝手に継いで、彼が教鞭を取っていた大学に入学し、ウイグルクルド語の解読に心血を注いでいた。
 指名手配されている私が大手を振って勉学に励めるのは、最後に知識を奪ったあのあご髭くんのおかけだ。あの男は情報屋で、彼の手練手管で安く戸籍を手に入れることができた。

 クロロと別れたあの日以来、私は私というあやふやな存在に対してもう悩まなくなった。どの知識が誰のものかなんてどうでもいいし、色んな人間の知識が綯い交ぜになってできたのが今の私なら、きっとそれが私なのだ。
 まあ、クロロの受け売りなんだけど。だけど感謝なんてしていない。あの人絶対大人として難ありだ。


 研究室に戻ると人の気配があった。珍しいな、と思う。休日のこの時間はいつも私くらいだ。
 窓を開け放っているせいで教室には朝の光が満ちている。ドアを開けると同じ研究室の仲間が机について雑談していた。一人が私に向かって手を振ってくる。

、おはよー。ねえ知ってる?昨日の図書館襲撃したのって幻影旅団なんだって」
「幻影旅団って、あの?」
「そう、あの」
「スゲーよな、A級首だぜ?どんなヤツらなんだろうな」
「強面マッチョだろ、腕とか俺の脚ぐらいあってさあ」
「ねえ、現場に行ってみない?」
「バッカ、まだいたらどうすんだよ。犯人は現場に戻るってのが鉄則だろ」

 あまり興味もないので適当に相槌を打っておく。私だって立派な連続殺人犯で、できれば警官がうじょうじょいるエリアはうろつきたくない。だけど、大学くらいしかないこんな僻地に犯罪者とはいえ有名人が来たのだから、皆の浮かれようは理解できなくはない。まあ、私には関係のない話だけど。
 並んだ窓からは眠気を誘うような穏やかな風が吹き込んでいて、その向こうに見えた人影がなんとなくクロロに似て見えたので少しだけ胸が騒ぐ。それから何度か瞬きをした。




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