バミューダガール01



 私の名前は=。年齢は十代だったかもしれないし二十代だったかもしれない。一ケタってことはないと思う。
 私には死んだ人間の知識を吸い取れるというなんともグロテスクな能力があって(ここでいう知識とはただの文字列ではなく、導き出す手法までもだ)葬儀で死に顔を拝んだだけの繋がりの薄い伯父の、理学博士としての知識や彼の特殊な性癖までわかってしまうのだから気味が悪い。

 凡庸だった両親は「娘には虚言癖がある」と誤解して私を頭のゆるい人たちばかりが集まる施設にぶちこんだ。脳みそが膿んでただれるような感覚に我慢ができず、二人きりのカウンセリング中に臨床心理士の先生を突き飛ばしてしまった。彼女は打ちどころ悪く死んでしまい、はからずも彼女の知識をそっくり全部頂くことになる。その日先生が風邪気味で、帽子を目深にかぶりマスクをしていたのはラッキーだった。小柄な彼女に扮して脱走することに成功した。

 知識というのは記憶と似ているけれど違う。私には彼らが知らずに耳にしている言葉や、目にしただけの景色なんかはわからない。だけど身につけたことなら知識となって、どんな下らないものでもあまねく全て吸い取れてしまう。だから臨床心理士の彼女が憂さ晴らしで飼い猫を苛める時の、どうすれば鳴き声をあげさせずに痛めつけられるかという手段までわかってしまう。
 二人の知識を奪って思ったことは、きっと人間は誰しもが後ろ暗い部分を持っていて、清廉潔白などではあり得ないだろうということだった。


 10人以上の知識を奪った頃には、私は私という存在が曖昧になっていた。どの知識が私のものでどの知識が他の誰かのものなのか。私とは何なのか。そんな恐ろしいことにようやく気づいたのは名前を問われた時だった。
 私は”自分の名前”をすぐには思い出せなかった。

「お前がたった今殺った男は言語学者ロイド=バララーエフだ。知った上で殺ったのか」

 どこからか現れた男は憤りを含んだ声で言った。
 私にはまるで聞き覚えのなかった単語が水を吸い上げるように理解できる。

「知らなかったけど、今ならわかる。ロイド=バララーエフ、昨日が74歳の誕生日だったみたい。あなた、ウイグルクルド語って知ってる?とっくに滅んだ民族が使っていた失われた言語なの。このおじいちゃんはそのウイグルクルド語を生涯をかけて研究していたの。どんな志で研究してたのかは知らないけど、私だったらごめんよ。だってウイグルクルド語って同じ単語が接続詞によって100以上のまるで違う意味を持つのよ?考えられる?100以上だよ?」

 断っておくと私は今興奮している。新しい知識を吸収するときはいつもそうだ。知識が恍惚と共に押し寄せてくる。男は腕を組んで注意深く私を見ていた。

「お前はロイド=バララーエフの助手か?」
「私は助手なんかじゃない。ただの泥棒よ」
「泥棒?」
「そう。殺して奪うのは他人の一生分の知識」

 男の目が探るように細められる。私の真価を量っているようだ。一呼吸置いて男の表情がふっと和らぐ。

「なるほどな、念能力者か。自覚はないようだが」
「ねん、能力?何それ」
「それについては後だ。俺の質問に答えろ。17年前にバララーエフ自身がウイグルクルド島の南部から発見した文書の冒頭は?」
「17年前にはないよ。18年前に南部のタロフという廃村から発見した古文書なら、一行目はまだ解読できていなくて彼ら独自の挨拶だろうということしかわかっていないの。あれ、でも公表されていないはずだけど」

 沈黙した男はやがて妖艶な笑みを浮かべた。「お前、名は?」と訊ねてくる。
 私は”自分の名前”が思い出せないという非常事態に打ちのめされ、必死で思い出そうとした。奪った知識の中から男性名を外す。だって私は女で、だから女性名のどれかだ。
 浮かぶ名前は五つある。そのどれかが自分の名前で残りの四つが奪った誰かの名前だ。すでにそれらは同化して手がかりすら見つけられない。
 うろたえる私を男は辛抱強く待ち続け、何日後かにようやくという自分の名前を思い出した。なぜか私は男の私宅に連れ去られていて、男はクロロ=ルシルフルと名乗った。


***


 いつもいつもソファで貪欲に活字を貪る男のために、私は日々頭を悩ませてコーヒーを淹れて掃除までさせられている。外出は許可されず軟禁状態。いったいなぜこんなことになったのだろうかと悔やむ毎日だ。

「翻訳はできたか」

 男はまるで教育ママのように繰り返す。私は敢えて苦めに淹れたコーヒーをテーブルに置いた。男はそれに口をつけたが無表情だった。

 与えられた自室に戻ると、堆く積み上げられたウイグルクルド語の古書を一冊手に取って、うんざりした気分でパソコンデスクについた。
 あの男、クロロ=ルシルフルはかなりの読書家で、どこから見つけてきたのかウイグルクルド語で綴られたきったない古本を私に訳せと言う。もし私がロイド=バララーエフを殺してなかったらあのおじいちゃんが同じ役目をさせられたのだ。男が男を軟禁なんて痛い状態にならなかったことに感謝して欲しい。
 ぽちぽちとキーボードを叩くものの五分で飽きて、電脳ページを立ち上げる。芸能のお笑いページをクリックすると、即座に小窓のメッセージが現れた。昨日までは大丈夫だったのに。

 このジャンルは許可できないよ。ゴメンね^^一日100ページを達成したら許可してあげるから。byシャルナーク

 このシャルナークという謎の人物はまるでサイバーポリスのように現れる。
 以前に奪ったハッカーの知識を駆使しても、この謎のポリスには敵わない。私は諦めて翻訳作業に戻った。一日100ページを翻訳して、好きなお笑い番組くらい自由に観られるように。


***


 目の前にごろりと置かれた死体をぼんやりと見ていると、クロロ=ルシルフルがきんきんに凍ったドライアイスみたいな声で言った。

「この男の知識を吸い取れ、

 一瞬って誰?と思ったけれどすぐに思い出した。私の名だ。
 フローリングの床を血みどろにしているのは、あごに髭をはやした人相の悪い男。どう見ても死体だ。生きてる?死んでる?と疑う余地さえない正真正銘の死体だ。

「あのね、簡単に言うけど他人の一生分の知識って天文学的データなんだよ。ただでさえもうごっちゃになってるのに」
「そうだな、お前が正気を保っていられることが不思議だ」
「この悪魔」
「さっさとやれ」
「ロイド=バララーエフの知識が薄れても知らないからね」
「それは困るが、こっちも急務だ」

 どうせ宝の有りかを示す地図や鍵を見つけたいだけなのだ。
 死体の前で膝をつき、変色した男の顔を眺める。あご鬚は血が凝固しておかしな形に固まっている。
 こんないかにもロクデナシの知識なんてロクデモナイものに決まってる。胃もたれ決定だ。

「じゃあキスしてくれたらやる。してくれなきゃ殺されてもやらない」

 嫌がらせのつもりで口走ったのだけど、男は表情も変えずに唇を重ねてきた。この男の頭を一度覗いてみたいと思った。だけど知識はいらない。胃もたれなんて可愛いもんじゃないはずだからだ。




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