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 の父親は優しく子煩悩な男ではあったが、心が弱く、だらしないところがあった。
 職場を転々としているせいで生活は貧しく、愛想を尽かした母親が家を出たのはが7歳の冬だった。
 食べるものさえ事欠く日々だったが、父子二人なんとか食いつないできた。
 が中等部に進級した際はとても喜び、苦しい中でも学費を工面した。暴力を振るったことは一度もなく、は父親が声を荒げた姿を見たことさえなかった。

 その日のことを彼女はあまり覚えていない。
 まだほんの数週間前の出来事なのだが、窓から差し込む光が高い位置にあったのか、それとももう沈みかけていたのかすら思い出せない。
 物音がして、が教科書を閉じて廊下に出ると、普段温厚な父親が顔をゆがめて激高していた。彼の怒声の先にはやせ細った一匹の猫。どこからか入り込んできたらしかった。

 どうしてくれるんだ、もうおしまいだ、そんな言葉を吐いて父親はくずおれる。彼は手に持っていた小さなものを取り落とした。かつん、と甲高い音が響く。
 が恐々近づいて拾い上げると、それは複雑な装飾がほどこされたライターだった。
 壊れたのだろうか。彼女が再点火をすると、炎は驚くほど高く立ち上った。




「ブチャラティさん、お電話です」

 その日ブチャラティがリストランテリベッチオでエスプレッソを飲んでいると、店主が声をかけてきた。
 ブチャラティは礼を告げ、受話器を取る。電話口の男は口早に言った。

「今すぐネアポリス刑務所へ行け」

 了承して通話を終える。詳細を問わないのはいつものことで、この声の主は何も知らない。
 ネアポリス刑務所にはブチャラティの上司である男が収容されており、そこへ行けということは何かしらの指令があるということだ。
 客で賑わうフロアを横断して奥の個室に戻る。そこには彼の仲間が集まっていた。

「急ぎの用か?」

 読みかけの雑誌から目を上げて、長髪の男、アバッキオが声をかける。ブチャラティは目顔でうなずいた。

「ああ。ポルポのところだ」
「何か指令でしょうか」
「それ以外にゃねえだろ」

 鋭い眼をした少年、フーゴが身を乗り出すと、対面のアバッキオが答える。

「ポルポって誰?」

 次に口を開けたのは、頭に三連のヘアバンドをした少年だった。まだあどけない顔立ちの少年は、口を半開きにしたままだ。フーゴが気色ばむ。

「おまえ、何を聞いていたんだ!昨日説明しただろうがッ」
「へ?そうだっけ?」
「そうだ!」
「ごめんよ、なんか覚えることが多くってよォ~」
「ナランチャ、組織のことはキチッと覚えるんだ。お前が担当する地区についてもな。間違ったでは済まないぞ」

 ブチャラティが苦言を呈す。ナランチャは慌てて背筋を伸ばした。

「ブチャラティ、こいつにはぼくがよく言って聞かせますんで、あなたは行ってください」

 呆れ顔のフーゴに促され、ブチャラティは嘆息しつつ店を出た。




 港へ向かって10分ほど車を走らせると周囲を高い塀で囲まれたネアポリス刑務所が見えてくる。
 分厚い鉄の扉を開けて中に入り、ブチャラティは慣れた様子で面会の申し込みをする。
 荷物、腕時計、さらにはポケットの中身を全て出し、ボディチェックを済ませてポルポのいる監房へと向かう。看守たちは現れた男がポルポの部下であることは知っており、これらのチェックは形式上行っているだけだ。

 ゲートを潜り抜けると殺風景な通路があり、しばらく進むと突き当たる。そこには強化ガラスで仕切られた部屋があった。

「……待っていたよ、ブチャラティ君」

 拡声器を通したような声がして、床に寝そべっていたポルポがのっそりと上体を起こす。ベッドと見間違えるほどの巨体だ。

「こんにちは、ポルポさん」

 ブチャラティは慇懃な動作で会釈をする。
 ポルポが手に持ったリモコンを操作すると、壁の一部が持ち上がり、テレビ台や雑貨類が姿を現した。
 ポルポはイタリア全土に影響力を持つ巨大マフィア、パッショーネの幹部だ。ここへは自らの意思で収監されている。牢にいながらその権力を振るい、望めば何でも手に入れることができる。

「今日君をここへ呼んだのは、ブフゥー……君に預けたい人間がいるからだよ」

 時折苦し気に息を吐きながらポルポは話を続ける。

「先週、だったか、いや、先々週だったかな。まあいい。とある男の入団試験をしたのだよ」

 ブチャラティは無言でうなずく。それは彼自身も経験のあることだった。

「その男は死んだ。選ばれるべき魂ではなかったのだ。だが生き延びた者がいる。その場に居合わせた男の娘だよ」
「居合わせた?それは……つまり」
「その通りだブチャラティ君。娘はスタンド能力を手に入れた。しかし、娘自身はまだその能力に目覚めてはいない」
「……」
「ブフゥー……。今ここへ、呼ぼう」

 ポルポが煩わしそうに片腕を上げる。ブチャラティが目を向けると通路の先の暗がりから人影が現れた。

 一人はアッシュグレーの短髪のガッシリとした体つきの男。ブチャラティも知るポルポの側近の一人で、スカッチと呼ばれている。深く落ちくぼんだ目をしているが、その眼光は鋭い。その男に肩を押されて一歩前に出たのは14、5歳くらいの少女だった。
 うつむいているせいで表情まではわからない。髪の間から覗いた口元の、固く結ばれた唇の端が変色している。

 男に背中を小突かれ、少女が緩慢な動作で顔を上げる。

、です」
「……ブローノ・ブチャラティだ」

 ブチャラティは怒りが全身を駆け抜けるのを感じた。奥歯をきつく噛み、両手の拳を握りしめてそれに耐える。
 少女は口元だけでなく、目尻や頬にも殴打のあとがあり、皮膚が青紫色に変色していた。真っ直ぐに伸びた白い腕、その先にある指先には数本爪がない。

「この娘にゃあスタンド能力がある。そいつは間違いねえ。だが未だに発現しねえ。チョッピリ痛めつけてやったがダメだ。普通よォ、本体を追い詰めりゃあ出てくるモンだろ」

 なあブチャラティ、と側近の男が肩をすくめる。

「……チョッピリ、だとッ?」
「ブチャラティ君」

 語気を強めるブチャラティに、ポルポは小粒のアーモンドのような目を向ける。彼の手には小さすぎるグラスにワインを注ぎ入れると、それをゆっくりと揺らした。

「その娘は君に預けよう。ブフゥー……何か役に立つ能力を持っているならば、君のチームに迎え入れたまえ。なければ、処遇は君に任せよう」

 君には期待しているよ、と付け加えると巨漢の男はグラスの中の液体を一息に飲み干した。



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