Un miracolo di Roma03



 空が白み始めた頃、ジョルノはふらつく足で宿泊先のホテルへと戻った。
 室内はしんとしていた。耳を澄ませば空調がたてるかすかな低音が耳に届くが、意識しなければ気づかない程度だ。そんな中、背後から聞こえたドアの開閉音は静かなリビングによく響いた。

「……すみません、起こしてしまいましたか」

 ジョルノは簡易キッチンから言った。
 寝室から現れたは、寝起きにしてはしっかりとした足取りで近づいて来る。

「平気。どうせ眠れなかったの」
「何か飲みます?アルコール以外はペリエとソーダ、あとはトマトジュースくらいですが」
「ありがとう。でも結構よ」

 は途中で足を止め、窓辺に設置された一人掛けソファに腰かけた。
 ゆるくカーブした全面ガラス張りの窓はカーテンが開け放たれたままで、そこに広がるローマの街並みは淡い海に沈んでいるようだった。東の空はすでに白んでいるが、夜が明けきるにはもう少しかかりそうだ。

 ジョルノは冷蔵庫から取り出した水を一気に飲み干すと、窓際まで歩いての対面の、L字型のソファに腰かけた。彼はそこでようやく彼女がノーメイクであることに気づく。室内はまだ薄暗く、この距離でようやく互いの表情がわかった。

 普段よりもやや鋭さの欠けた瞳がジョルノを真っ直ぐに捉える。
 大抵の女性がそうであるように、素顔の彼女は実年齢よりも若く見えた。優し気な目元も、頬の柔らかな輪郭も、自然な色味の唇も、どこを取っても魅力的だった。
 無防備なルームウェア姿というのも相まって、ジョルノは彼女を直視することができずに目線を落とした。自分自身はというと、ベストは着ているが、襟元のボタンは外し、ネクタイもゆるんでいる。
 は羽織った大判のストールを胸の前で重ね合わせた。

「いったいどれだけ飲んだの?ジョルノの身体からワインの香りがするわ」
「どれくらい飲んだか……正直覚えてないですね」
「呆れた」
「そう言えば、隣で飲んでいた女性にワインを零されてしまって、そのせいですね」

 ジョルノは軽く足を上げ、スラックスに触れる。生地を濡らすほど染み込んだワインの香りはきつく、悪酔いしそうだった。

 ふと目を上げたジョルノは、の表情に違和感を覚える。
 彼女の澄んだ眼差しに、ともすれば見逃してしまう程度の微量さで非難が含まれていることに気づいた。

「どうかしましたか、
「……何?」
「何って、怒っていますよね」
「怒ってなんてないわ。なぜ私が怒らなくっちゃあいけないの」

 どう考えても機嫌を損ねている。ジョルノは急いでその原因を探す。

「一人でタクシーに乗せたからですか」

 考えられる理由はそれくらいだった。運転が乱暴だったんだろうかと想像するが、少なくともネアポリスのドライバーよりは丁寧なはずだ。

「子供じゃないんだから、タクシーくらい一人で乗れるわよ」

 は言って、足を組み替える。

「だったら何ですか、理由くらい教えてください」
「だから、本当に怒ってなんかないの」
「その言い方がスデに怒っているじゃあないですか」
「何でもないって言ってるでしょ、しつこいわねッ」

 ジョルノは驚いた。声を荒げる彼女を見るのは初めてだった。しかし酔いも手伝って、彼の口調も強くなる。

「何でもないようには見えないから言っているんです。わからない人ですね」
「うるさいわね!そのべったりついた香水にムカッ腹がたつのよッ!」

 ジョルノはしばらくの間を置いてから「え?」と聞き返した。
 本人に自覚はないが、彼の身体からはワインに混じってミモザやチュベローズといった深みのある香りがしている。気品や知性の備わった、ひとくせある大人の女性を思わせるような香りだ。

「ええと……、実はさっきまでミスタと飲んでいたんです。店には女性もいましたから、そのうちの誰かの移り香でしょう。ぼくは香水をつけませんから」
「ミスタさん……?同行を断ったって言ったじゃない」
「それはそうなんですが、ちょっと事情が変わって」
「信じられないわ」

 が冷たく言い放つ。ジョルノは無言で彼女を見つめた。

 言いたいことは理解できた。ただ、それを口にする彼女の心中がジョルノにはわからなかった。
 これが恋人同士の会話なら成り立つが、二人はただの友人で、少なくともの方には嫉妬の感情などないはずだった。
 そう、これは「嫉妬」だった。

「ごめん、何でもないわ」
「待ってください」

 立ち上がりかけた腕をつかみ、ジョルノが引き留める。力の加減ができずに強く握り締めた。

「ぼくがどこで何をしようが、には関係ないはずでしょう」
「……そうね、関係ないわ」
「ですよね。が大切に思っているのはブチャラティただ一人だ。それ以外の男の行動なんてどうでもいいでしょうから」

 あの墓苑でジョルノが彼女に出会ってからすでに五年近く経つ。
 美人で気立ての良いが未だに一人なのは、彼女の中にまだブチャラティが生き続けているからであり、他の男が入り込む余地などない。そう言い聞かせ、彼は自分を納得させてきた。しかし今、限界まで抑え続けた想いが苛立ちに変わっていく。

「一生そうやって一人でいる気ですか。それでブチャラティが喜ぶとでも?」
「そんなこと誰も言ってないじゃない」
「言わなくてもわかります。あなたは彼以外愛さない」
「知ったようなことを言わないで!あなたは何もわかってないわ」
「わかっていますよ」

 は顔をしかめた。

「じゃあなぜ私がローマに来たと思うの?私はジョルノに誘われたから来たの。そりゃあ不安もあったわ……ブローノが亡くなった場所だもの。だけど……ジョルノが一緒だから大丈夫だと思えたの」

 がジョルノの腕を振り払う。背を向けた彼女は声を落として言った。

「私はね、ジョルノ。何とも思っていない男と一緒のホテルに泊まるほどバカな女じゃあないわ」

 彼女の姿が遠ざかり、寝室の扉が閉まるのを、ジョルノはほとんど上の空で見ていた。普段気丈なの声が震えていた。そのことにジョルノの胸は締め付けられた。耐えがたいほどの痛みだった。

 彼は力が抜けたようにソファに沈み込むと、両手で顔を覆った。長い息が漏れる。

「……バカは、ぼくだ」

 声に出すとますます愚かしく思えた。
 自分がどれだけまぬけだったのか。酔っぱらって、感情的になって、まるで癇癪を起した子供のような理不尽な言葉をぶつけた。

 ジョルノはブチャラティという絶対に超えられない壁を自ら作り上げ、敵うはずがないと最初から諦めていた。
 玉砕覚悟でぶつかることもせずに、あれこれと理由をつけて結論を先送りした。想いを告げて彼女を失うことがただただ怖かった。

 どれくらいそうしていたのか、朝の眩しい光がジョルノのつま先を照らす。
 彼は緩んでいたネクタイを引き抜き、静かに立ち上がった。
 リビングスペースを通り抜けての寝室の前に着くと、扉の前で小さく深呼吸をする。ノックをしても反応がなく、レバーを下げても扉は動かなかった。

、開けてくれませんか」

 返事はなく、もう一度同じ言葉を繰り返すと「嫌よ」と短く返ってきた。

「ぼくは、あなたに幸せになって欲しかった。あなたがブチャラティを忘れられないと言うなら、忘れられないあなたを想い続けていこうと誓った日もありました。やっぱり無理だと考えを変えた日もありました。その繰り返しで今日まできたんです」

「ゴールド・エクスペリエンス」ジョルノが唱えると、二人を隔てていた扉は一瞬でその形状を失い、ぐんぐんと成長する木立バラとなって天井まで伸びた。枝の先でいくつもの可憐な花が咲く。
 は目を丸くした。

「えっ、ちょっと、なんなの……っ」
「ジャマだったので」
「やだ、こっち来ないで」
「嫌です」

 クイーンサイズのベッドが二台並んでいる。そのうちの一つに口を半開きにしたまま固まるの姿があった。

「あなたが好きなんです、もうずっと前から」

 ジョルノは耳の先が燃えるように熱くなっていくのを感じた。この胸の高鳴りがどうか聞こえませんように、と願う。

 は目をぎゅっとつぶった。再び開けたときにはもう、彼女の顔からは怒りは消えていた。
 代わりに、口元に手をやったり目線を彷徨わせたりと落ち着かない様子で、やがて吐露するように言う。

「……知ってる、ごめん、知ってたの」
「そうですか。まあ隠すつもりもなかったですが」
「ごめんねジョルノ、だけど酷い女だと思わないで。私だって気持ちの整理をつける時間が必要だったの」

 彼女は一度言葉を切り、力なく言った。

「こんな中途半端なことをしておいて、あなたを責めるなんて身勝手だったわ。今夜ジョルノが誰と過ごしていたとしても、私に責める権利なんてなかったのに」

 ジョルノはベッドサイドまで歩み寄ると、片膝をマットレスに乗せる。腕を伸ばせばもう届く距離だった。

「ぼくがさっきした説明は嘘偽りなく事実です。ミスタと飲んでいただけです」

 なんなら確認してもらっても構いません、とジョルノが言うと、は慌てて首を振る。

「その必要はないわ」
「それなら、この話はもう終わりにしましょう。それより聞かせてくれませんか?あなたの気持ちを」
「……」
「ブチャラティが忘れられないのはわかっています。だけどもし少しでもぼくに可能性があるのなら」

 は身を乗り出し、彼のシャツをつかんで引き寄せると顎を上げて短いキスをした。重なった唇が離れてもジョルノは動けないでいた。

「好きよジョルノ、私だってずっと前から好きだったの。ようやく」

 彼女は言葉に詰まりながら言った。

「ようやく素直に言えたわ」

 ジョルノは腕をまわし、ほっそりとした背を抱いた。そのままベッドに腰を下ろす。

「夢……じゃあ、ないんですね」

 腕の中の彼女が身じろぎをして、涙声で笑う。そこには確かに現実のぬくもりがあった。決して手の届かない場所にいたはずの彼女が今自分の腕の中にいる。それは奇跡のようだった。

 二人は長い間そうしていた。寝室はカーテンを閉め切っているので日差しは遮られている。それでも透過する白い光がのまつ毛の先を輝かせた。

「今日、一緒にスペイン広場に行かない?」

 何の前触れもなく、が言った。

「それは、構いませんが」
「一緒にジェラートが食べたいの。ナッツもフィオルディラッテもいいわ」
「……ラムショコラもいいですよ」
「デートしようって誘ってるの。わかってる……?」

 ジョルノは体勢を変え、彼女と目線を合わせた。

「とても嬉しいお誘いです。あなたと一緒ならどこへでも行きます。でもその前に、シャワーを浴びてもいいですか」
「もちろんよ。そのべったりついた香り、やっぱりちょっと不快だもの」

 が意地悪っぽく笑う。これから先、どれだけたくさんの彼女を見られるんだろうか。そんな幸福感に浸りながら、ジョルノは身を離した。

 彼はシャワーを浴び、髪を整えて、どうにか徹夜明けだと見えないように最善を尽くした。



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