Romanzaになるまで01
ブチャラティに一緒に暮らそうと言われた。
このまま気絶して意識が戻らなくっても私の人生は上々だったと断言できるくらいに嬉しい。
だって私はもうずっとずっと彼が好きだったのだ。
仲間としても上司としても彼は尊敬に値する素晴らしい人だけど、私の好きは異性としての好きだ。付き合いたいとかキスしたいとかぎゅっと抱きしめて欲しいとか。
ずっとずっと気持ちを隠していて、だけどもう抑えられなくなって想いを伝えたのが一週間前。
ブチャラティは最初、「オレもの事は好きだが」と取り違えた返事をした。
「鈍感なあなたにハッキリ言ってあげる。私はブチャラティの一番大切な人になりたいの」
老若男女から慕われているのは別として、彼を男として意識する女の子たちは多い。だから過去に付き合った女性がゼロって事はあり得ないし、場数を踏んでないと醸し出せない余裕が彼にはある。
私がじっと答えを待っているとブチャラティはしばらく考えてから、
「少し、時間をくれないか」と言った。
この切り返しは予想外だった。
彼はこういった事に関して言葉を濁すだとか先延ばしにするタイプには見えなかったのだ。
「……わかったわ、待ってる」
「すまない」
ブチャラティが部屋を出て、リストランテの個室には私一人が残された。
一週間が経ち、あのやり取りは夢だったのかな、なんて思い始めた頃にブチャラティから呼び止められた。
少しいいか?、といつもと変わらない調子で。
顔がこわばる私とは対照的に彼はいたって平静で、繊細な手つきでポットから紅茶を注いだ。その光景が一枚の絵画にでもなりそうで、思わず見とれてしまう。
「返事を、聞かせてくれるの?」
手の中で紅茶がたぷんと揺れる。
胃が痛くて痛くて誰かが私の胃を素手でぎりぎりと捻っているとしか思えない。新手のスタンド使いか!と叫びたくなっているとブチャラティが「一緒に暮らそう」と言った。
え、と聞き返すと彼は紅茶の入ったカップを口元に寄せ、一口飲んでからもう一度同じ言葉を口にする。
「一緒に暮らそう、」
告白に対する返事はなくもちろん愛の言葉もなく色っぽいムードすらなく何がなんだかわからない。もしかしたら同棲じゃあなく同居なのかしら。
腑に落ちないことや疑問は山のようにあったけれど私は何一つ訊ねなかった。
だってこの降って沸いたような幸運を下手な質問でみすみす逃したくはなかったからだ。
「荷物はそれだけか、ずいぶん少ないんだな」
機内持ち込みサイズの小さなキャリーケースだけを手にやって来た私にブチャラティが言う。
「とりあえず、着替えとかだけ持ってきたの」
「そうか。まあ入れよ」
室内シューズに履き替えるため、パンプスのストラップを外していると、ブチャラティがごく自然なやり方で私の手からキャリーケースを受け取る。首のあたりがむず痒くって仕方なかった。
「今日は髪を下ろしているんだな、そっちも良い」
「そんなリップサービスいらないわブチャラティ」
「リップサービスなもんか」
これはあれだ、彼は今私を女の子扱いしているのだ。
仕事場だとレディーファーストなにそれみたいな世界で任務中怒鳴られることも少なくない。それが突然優しくされれば戸惑うのは当然だ。
「何か飲むか?カッフェでも」
「待って待ってそんなの私やりますやらせて!」
キッチンに向かったブチャラティを慌てて追いかけた。
これは同居なの?同棲なの?この人私のこと好きなの?いったい何なの!?
使い込まれた青色のマキネッタを半ばパニックになりながら見下ろした。
ブチャラティがカッフェの粉をくれたのでそれを入れてスプーンで平たくする。ポット部分にお湯を入れてガスコンロにかけると湧き上がるのを待った。
「ミルクとチョコレートはどっちがいい?グラッパもあるぜ」
「ええと、ミルクで」
私が言うとブチャラティは冷蔵庫からミルクを取り出してミルクパンで温め始める。しばらくするとふつふつと気泡がたち、カチリと火が止められた。私の方も芳ばしい香りが漂い、それを予め温めていたカップに注ぎ入れる。その間ブチャラティはミルクフォーマーでスチームドミルクを作っていた。
ちょっと待って。これってまるで恋人同士みたいじゃない。
古いけど手入れの行き届いたキッチン、使い込まれたマキネッタ、カップが二つ、隣にはブチャラティ。
「夕食はどうする?何か作ろうか」
「作れるのか?」
「あ、当たり前じゃない、作れるわよ」
「そりゃあ楽しみだ」
「……スパゲッティくらいなら、作れるかな」
「ちょうどパンチェッタがあるぞ」
「あ、カルボナーラは、作れない、かも」
結局夕食は近所のリストランテに行った。
慣れないキッチンだと作りづらいからというバレバレの言い訳をブチャラティは笑ってすませてくれた。お料理勉強しなくっちゃ。
だけどこれは、同棲の方だと思ってもいいんじゃないだろうか。そんな期待が引っ込めても引っ込めても顔を出す。
夜も更け、交代でシャワーを浴びた。
先に浴びた私は自分の身の置き所がわからず取りあえずリビングでテレビを見て過ごした。15分ほどでブチャラティがまだ少し濡れ髪のまま現れる。私はいよいよ緊張して彼の出方を待った。
部屋は寝室ともう一室小さな部屋(ちらりとのぞくと書斎のようだった)とこのリビングだけ。
寝具といえば寝室のベッドのみでエキストラベッドはなさそうだった。まさかどちらかがソファで寝るなんて事はないはず。
私の内なる葛藤をブチャラティはまるで気づかずペリエを飲みながら雑誌を読み始めてしまう。おかげで私は興味もクソもないテレビ番組を観続ける羽目になった。
「そろそろ寝るか」
ブチャラティが口を開いたのは半時ほど経った頃だった。
騒ぎ出す心臓をなんとか落ち着かせつつ、努めて静かな声を出す。
「私はどこで、寝ればいいかしら」
声が震えたかもしれない。こほんこほんと咳払いで誤魔化す。
ブチャラティは事も無げに、いやむしろ何の含みもない清らかな声で言った。
「ベッドは一つしかないんだ。オレと一緒に寝るのはイヤか?」
「い、やじゃない、大丈夫、イヤじゃあないわ」
脳内ではスロットがスリーセブンを連発する。だけど表面上は静かに淑やかにを意識して寝室に向かうブチャラティに続いた。
これは同居じゃない、同棲だ、きっと口数の少ない彼なりの返事なのよ!
頬の筋肉が緩むのを、過去一番過酷だった任務を思い出して緊張させた。
もぐり込んだシーツや肌掛けからはブチャラティの匂いがして、そこではじめて実感した。
ここは彼の部屋で、一緒にカッフェを飲んで、同じシャンプーを使って、これから彼と一緒に眠る。ふわふわと無重力空間にいるようだった時間が急に現実味を帯びた。
部屋の照明が落ちてベッドのスプリングがブチャラティの重さ分沈む。
過去にはもちろん恋人もいたし、当然初めてでもないのにまるでティーンの女の子みたいに胸が高鳴る。
私とブチャラティはクッションを背もたれにして横並びになった。
ナイトランプが灯るだけの室内は暗く、ブチャラティの濃紺の髪や瞳はそれととても相性が良い。
「寒くはないか」
「少し。抱きついてもいい?」
「もちろんだ」
彼は長いまつ毛を瞬かせて、それは反則だと言いたくなるような優しい眼差しを私に向けた。
この日をどれだけ夢見たことか。
ブチャラティが小首をかしげ、おいで、と言わんばかりに軽く両手を広げるので、私は脇の下から手を差し込んでぎゅうっと抱きついた。厚い胸板に鼻先を擦りつけて、それから顔をうずめる。
ああ、心臓がつぶれそう。
彼の体温は私に心からの安らぎを与えてくれる。私は全身で、細胞の全てで彼を感じようとしている。武骨な手が私の後頭部を撫でる。その手に自分の手を重ねた。
「あのね、ブチャラティ」
「ん」
「私、もしかしてブチャラティの事が好きなのかも、って思った最初はあなたの指なの」
「残念だな、指だけか」
「よくそんな事言うわ、わかってるくせに」
いつからかキーボードを打つ指先がカップを持つそれが組んだ指の形がとんでもなくセクシーに見えはじめた。
次は広くも狭くもない肩幅、その次は純度の高い瞳、心地よく響く声、意外に厚い胸板。だけどもちろん外見だけじゃない。言ってしまえば外見は後付けだ。
「ブチャラティはね、冬の寒い日に皆が自然と集まる暖かい場所のような人だと思うの。だからきっと私はあなたに惹かれたの」
「暖かい場所?オレがか?」
「そう。少なくとも私にとってはそうなのよ」
ブチャラティは目を細めて微笑んだ。
「冗談でも嬉しいよ。君にそう言われると」
「私は本気よ、冗談にしないで」
「ああ、そうだな」
「私はブチャラティが好き、軽い気持ちじゃあないの」
「見えないかもしれないが、オレだってマジなんだぜ」
それから取り留めもない会話を続けた。そのうち彼の口調がやけにゆっくりになって、私の髪を一房つかんだままの手がぱたりと死んだように動きをとめる。
首を伸ばして見上げると、彼は穏やかな顔で眠っていた。すう、すう、と控えめな寝息と時々小さく揺れるまつ毛。
鼻を摘んでみようかしら。一瞬思ったけれど神の眠りを妨げるような背徳感があってやめた。ブチャラティの艶やかな髪が彼の頬を隠すようにさらりと落ちている。
ここのところ激務続きだった。きっとそのせいよ。この時はまだそう思っていた。
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