Romanzaになるまで02



 きっと疲れているんだわ。最初の一週間はそう思った。だけど二週間が経ち、三週間が過ぎたあたりからもう不安しかなくなった。

「私、彼に愛されてないのかな」
「ここでオレに訊いたところで答えは出ねえ、そうだろ?オレはソイツじゃあねえからなッ。聞いてんのか
「聞いてるわよ、じゃああんただったらどうなの?」
「あ?」
「同じ状況だとして、キスもしないなんてありえる?」

 一緒に暮らしてもうすぐ一か月、ほぼ毎日同じベッドで眠ってるのに!と若干声が大きくなる。
 旧市街のうらぶれた路地にあるバルには常連客しかいない。皆自分のお喋りに夢中でこちらに気を配る者はおらず、私は話を続けた。

「ねえ、どうなの?私ってそんなに色気ない?」
「オメーも落ちたもんだなァ、三つも四つも下のガキに振り回されてよォー」
「そんなに離れてないわよ!それに彼はガキじゃあないわ」
「ノロケてえなら他所でやれ」

 隣のテーブルでエスプレッソ片手に新聞を読むこの男は元同僚だ。彼はブロンドの髪を今日も綺麗に結い上げて上品なスーツに身を包んでいる。絵になるという点ではブチャラティと同じだけどまとう空気がまるで違う。
 見るとはなしに眺めていると、彼は新聞を閉じて傍らに放り、間にある椅子が邪魔だと言わんばかりに足で押しのけた。身を乗り出して私の首根っこを乱暴につかむ。

「なによ?キスでもするの?」
「……相変わらずムードのねェ女だな」

 彼はハン、と息を吐いて椅子に座りなおす。咥えたタバコに火をつけて、紫煙をくゆらせるとそれを長い指に持ち替えた。

、オメーに一つだけ忠告してやるぜ。横で女が寝てりゃあ、抱くだろ、普通の男ならよ」
「それは私もそう思う」
「オメーの男はたぶん、ゲイか不能だ」
「……」
「オイ冗談だ睨むな、実際の所本人に訊くしかねーんじゃあねえか?オメーのことがマジに大事ならよォ、キッチリ答えてくれんだろ」

 結局何の収穫も得られないまま席を立つ。
 元同僚で過去に二度だけキスしたことのある男は手を振る代わりに長い足を組み替えて私を見送った。


 マーケットでイノシシ肉のブロックとトマトを買い、アパルトメントに戻った頃には豪雨だった。急な雨でも皆ちゃんと傘をさしていたので降水確率は高かったものと思われる。
 エレベータが開くのを待っていると背後から胸を弾ませる声がした。

「おいおい、ずぶ濡れじゃあないか

 前髪から滴った水が目に入って瞬きをした。ブチャラティが取り出したハンカチで私の顔をぬぐってくれる。

「このままじゃあ風邪をひいちまう。早く戻ってシャワーを浴びるんだ」

 チン、と音がしてエレベーターが両側にスライドした。


 濡れ雑巾みたいになったスカートとブラウスを洗濯機に押し込んで、さっとシャワーを浴びた。
 お肉とトマトは冷蔵庫に入れてくれたかしら?
 夕食はイノシシ肉と赤ワインとトマトを煮込んだラヴィオリの予定だ。マードレがよく作ってくれた料理で、私の数少ないレパートリーでもある。

 熱めのお湯を浴びたおかげで指先までぽかぽかで、髪をタオルでふきながらリビングに戻った。

「ブチャラティー」

 ソファに座る横顔に声をかけると彼は手元の書類から顔を上げた。

「あなたも浴びて来たら?私夕食作っておくから」
「ああ、そうだな」

 彼は手にしていた書類をテーブルに置き、立ち上がる。
 なんだかんだと多忙な日々が続いているのにまた何か厄介ごとだろうか、と気が気じゃない。
 ブチャラティはネアポリスで起こる刑事事件を全て把握している。街の皆も何かと彼を頼るのでそのうち心労で倒れやしないかと心配だ。

 冷蔵庫から炭酸水を取り出していると背後から呼ばれた。


「んー?」

 振り返る前に私は動けなくなった。背中に触れる彼の体温。背後からまわった腕が私を包み、彼の中にすっぽり収まる形で抱きしめられていた。

「ど……どうしたの」
「同じシャンプーでも君が使うと印象が違うな」
「え?シャンプー?」

 後頭部に彼の鼻先が押し当てられ、まるで犬が匂いを嗅ぐようにすんすんとする。
 心臓が裏返るような、天井が落ちてくるような、天変地異でも起こったような、極度の緊張状態になる。


「は、はい」
「今日、ソーレ通りの方に行かなかったか」
「え?」

 ソーレ通り。そこは旧市街を横断する大通りから一本入った狭い路地で、観光客はあまり訪れないうらぶれた通りだ。確かに今日、その通りにある小さなバルで元同僚で古い友人でもある男に会った。

「行った、けど」

 彼と触れ合った部分の肌がぴりぴりと痺れていくような錯覚と、後頭部にかかる息遣いに全神経が集中する。私のお腹の前で組み合わさった彼の手に目を落とす。細くてきれいなのに関節部分は骨ばっていて、力を入れたときに甲に筋が浮き上がる。自分とは違う男性の手だ。目眩のしそうな長くて短い時間だった。

「いや、いいんだ」

 声と共に腕がまるで引き潮のようにすっと引き抜かれ、背中からぬくもりが消える。

 いいんだ?
 何がいいの?
 もう少しで口をついて出そうだった。このタイミングで問えばきっと責めるような口調になっていたはずだ。せっかく近づいた距離があっけなく離れて私は絶望的な気分になる。

「……シャワー、浴びてきたら?」
「そうだな」

 なるべく自然な笑みを浮かべてバスルームに向かう彼を見送った。
 どうして?その問いだけがぐるぐるとまわる。

 あなたって不能なの?(もしそうだった時に激しく傷つけてしまう)
 あなたってゲイなの?(もしそうだった時の私のショックは計り知れない)
 バイなら許せるか、も。ああだけど私の中のブチャラティ像がちょっとだけ崩れる。

 握りつぶしてしまいそうだったペットボトルのキャップを捻り、お風呂上がりの渇いた喉を水分で潤す。

 ラヴィオリ、作らなきゃ。頭ではわかっても腕も足も言うことをきかない。まるで心と身体が分離してしまったようだ。結局シャワーを浴び終えた彼が再び現れるまで私はその場に立ち尽くしていた。

 私の異変を察したのか、彼が静かに近づいて来る。おそろいの室内シューズが視界の端に映り込んだ。

「いったいどういうつもりなの」

 ああもう無理。もうダメだ。流れる水が上から下に落ちるように私の声も止まらない。目頭が熱くなる。

「私はブチャラティが好きよ……ブチャラティは私を好き?」

 ぽたぽたと落ちた涙がキッチンの床を濡らす。頬に彼の指先が触れた。
 どうしてそんなに優しく触れるの?

「君を、不安にさせている自覚はある。中途半端なマネをしてすまなかった」

 座らないか、と言って彼がソファを指す。微妙な距離を空けて私とブチャラティは座った。

 ローテーブルの上にはさっき彼が目を通していたクリップ留めされた分厚い資料。ポルポからの新しい任務だろうか。
 沈黙が気まずい。私は彼が話し出すのを口をぎゅっと引き結んで待った。

「実を言うと、オレはもうずいぶん前から君に惹かれていたんだ」

 耳を疑う告白に思わず顔を上げた。視線が交わることはなく、ブチャラティは組み合わせた自分の手をじっと見ている。

「……今、何て?」
「オレは君をとても大切に思っているし、君の事が好きなんだ」
「……」
「だが、君は部下だ。公私混同するワケにはいかない」
「待って……それならなぜ一緒に暮らそうなんて言ったの」

 ブチャラティが厳しい顔つきになった。それから細く息を吐き、伏し目がちに言う。

「それは……オレの弱さだ。拒絶することができなかった。案外、うまくやっていけるんじゃあないかとも思ったんだ」
「うまくやっていけるわ」

 彼は視線を落としたまま薄く笑った。

「オレたちはギャングだ。時には死ぬ覚悟も必要だ。君だけ特別扱いはできないし、オレはおそらく君よりも任務を優先する」
「ええ……それでいいわ。何の問題もない」
「しかしな、。オレだって一人の男なんだ。本当は、好きな女に死ぬ覚悟を持てとは言いたくない。君を抱いちまったらもう……オレは冷静な判断を下せる自信がないんだ」

 ああ、そうか。
 私は悟る。これは別れ話なのだ。
 私は自分の愚かさを呪った。生真面目な彼ならこんなふうに考えるのは容易に想像がつく。
 彼と暮らし始めて私が浮かれている間、ブチャラティは一人葛藤していたのだ。なんてことだ。誰よりも大切なこの人を、他でもない私が苦しめていただなんて。

 今ここで私ができるのは彼の申し出を受け入れ、速やかに部屋を去ることだ。これ以上彼を苦しめないように。

 わかっているのに。わかっているはずなのに。

「…………ナメてんじゃあないわよ」

 私の口から出たのはまったく別の言葉だった。立ち上がり、テーブルにどんと足を乗せるとブチャラティが目をまん丸くする。

「誰が特別扱いしろなんて言った?死ぬ覚悟ですって……?そんなのねぇ──とっくにしてんのよッ!私が前にどのチームにいたと思ってんのッ!言われなくったって任務は最優先!例え腕を飛ばされようが脚をもがれようが、目の前で好きな男が死のうともッ!ナメてんじゃあないわッ!!」

 やってしまった、と頭のどこかで声がする。別れを告げられるまでもなく、これで全ては終わった。私は荒くなった呼吸を整え、テーブルに乗せた足をそろりと下す。息の詰まるような沈黙が続いた。

「驚いたな」とつぶやいたブチャラティがソファから腰を上げる。私はうつむいたまま身を硬くする。叫んだせいで体温が上がっていて、だからなのか、頬に触れるブチャラティの手のひらを少し冷たく感じた。

「君にこんな一面があったとはな。隠していたのか?」
「そういう訳じゃ……」

 ただちょっと、昔から怒ると性格が変わる。以前所属していたチームにもキレやすい男がいて、私たちはよくフラテッロ(姉弟)だとからかわれていた。

 私の頬を撫でていた手がふいに顎をつかみ、ぐっと持ち上げる。必然的に視線が交わった。意外なことに、ブチャラティは微笑んでいた。

「覚悟が足りなかったのは、オレの方か」

 まるで自問するように言う。見つめる瞳の真剣さに気圧されて私は何も言えなくなった。

、君の気持ちはよくわかった。オレも今、覚悟を決めたぜ」

 ブチャラティが私の腰骨に両手をかけて、軽々と抱き上げたかと思うと次の瞬間にはソファに押し倒されていた。その底なしに澄んだ瞳に危うげな色が見えて、私は小さく息を呑む。

「もう、遠慮はいらねえな」

 ブチャラティは自分の唇を舐めると、普段の彼らしくない早急さでぶつかるようなキスをした。




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