彼が世界を憎んだ理由
いつの間にかエアコンが切れていた。
クロロは寝起きの気だるさの中で身体を起こし、布団を剥ぎ取ってベッドサイドに足を下ろした。シャツには寝じわが寄っている。室内には夜になる一歩手前くらいの薄暗さが満ちていた。
「、寒い」
彼は窓辺に立つ少女に向かって声を投げた。カーテンの隙間から外の様子をうかがっていたが機嫌よく振り返る。
「クロロ、雪降ってる」
だから?と聞き返すと少女は頬を膨らませた。は薄手のインナーと、下半身は下着だけをつけている。まだ発達途中の華奢な尻を覆う下着と、そこから伸びた白い脚は細く、性的な魅力はあまりない。にもかかわらず、もう一度触りたいという抑えがたい情動が彼の中で沸き起こった。
そこにいるのは自分の女で、隅々まで知り尽くした身体だ。
「クロロって寒がりだよね」
はリモコンで暖房をつけ、床に散らばっていた制服を拾い集めた。紺色のセーラー服をすぽっと被り、プリーツスカートも履くと腰を捻ってホックを止める。クロロは目を細めてその様子を眺めた。
ワインレッドのラインが二本入ったセーラー服は、彼も今春まで日常的に目にしていた制服だ。は最後に丸まっていたハイソックスに手を伸ばした。
「今、何時?」
「んーと、6時前」
「一時間以上も寝てたのか、俺」
「そろそろ起こそうかなって思ってたんだよ。7時にはママも帰って来るし」
片足ずつハイソックスを穿きながらが返す。のん気な口調だが、もしも二人とも寝入ってしまえば大変なことになる。予想される面倒事をいくつも思い浮かべながら、クロロは身の引き締まる思いでベッドから降りた。
「げ、寝グゼ」
ドレッサーをのぞき込み、クロロは跳ねた後頭部を面倒くさそうに掻く。背後にの楽しげな顔が映った。
「あ、ほんとだーかわいい」
「かわいいって……お前な」
「ドライヤー使う?」
「いや、いい。今日は母さんが戻って来る前に帰るよ」
シャツもしわくちゃだしな、と付け加えると少女も納得してうなずいた。シャツ程ではないがスラックスもだいぶくたびれている。クロロはシャツの上にグレーのカーディガンを着てブレザーを羽織ると、放り投げていたスクール鞄とヘッドフォンを引っつかんだ。
「忘れてる」
がベッド脇に転がっていたマフラーを慌てて渡す。ざっくりとしたリブ編みのマフラーで、去年のクリスマスにがクロロにプレゼントしたものだ。
「もう、忘れないでよね」
「今取ろうと思ってた」
「ふうん」
「お前ってさ、結婚記念日とか忘れたら激怒するタイプだよな」
「結婚記念日って、私まだ中学生よ」
「たとえ話だろ」
言い合いながら部屋を出て、二人でもつれるように冷えた廊下を歩く。が玄関先まで見送り、クロロはスニーカーを穿いた。そこで玄関扉のサムターンがガチャ、と動いてぎくりとする。
「あらクロロ、もう帰るの?夕飯食べて行きなさいよ」
現れた母親は、数日ぶりに会う息子に嬉しそうに声をかけた。いつもより一時間早い帰宅だ。
彼は動揺を一瞬で隠し、よく抑制された笑顔を浮かべた。
「今日は早いんだね、母さん」
「そうなのよ、最近シフト減らされちゃって。どこも景気が悪いわね」
「へえ、には言ってなかったんだ?」
「そう言えば伝えてなかったわね、ママ今週から17時30分上がりになったから」
そうなんだ、と少女が引きつった笑みで応える。仕事疲れの残る母親は、娘の不自然な笑顔も跳ねた髪を気にする息子の様子にも気づかない。
「このまま仕事が減ったらあの人に養育費上げてもらわなきゃね」
パンプスを脱ぎながら冗談めかして(半分本気で)ぼやくと母親はさっさとリビングへ消えた。慌ただしく夕食の支度に取り掛かる。クロロとは無言で視線を交わし、胸を撫で下ろした。
三人で食卓を囲み、テレビから流れる不穏なニュースに眉根を寄せ、お笑い番組では声を上げて笑ったりしながら夕食を終えた。
「の勉強どう?あの子ちゃんとやってる?」
娘がトイレに立った隙に母親が探りを入れる。クロロはデザートのプリンを食べる手を止めた。
「やってるよ。今のままじゃ第一志望はキツイけど、まだ一年ちょっとあるし」
「悪いわねクロロ、でも下手な塾に入れるよりあなたに頼んだ方が母さん安心なのよ」
「いいよ、俺のことは気にしないで」
「特進クラスはどう?忙しいんじゃないの?」
「普通だよ。一般とはカリキュラムが違うだけで授業数はそう変わらないし」
「ちょっとママ、お兄ちゃんにへんなこと言ってない!?」
席に戻ったが唇を尖らせる。「言ってないわよ、へんなことなんて」娘とよく似た形の目を細めて母親が笑った。
彼女に「お兄ちゃん」と呼ばれるとクロロはいつも少しだけ違和感を覚える。本来とは違う場所に違うものがある、といった違和感だ。
クロロは「よくできた兄」を完璧に演じ、優しく親しみのある笑みで妹と母親の会話を見守った。
彼は二人に見送られて、かつての自宅を後にした。
両親の離婚によって家族は割かれたが、とこういった関係になった今、むしろ都合が良いと彼は考えていた。
クロロが父親と暮らすマンションはバスで三駅ほどの距離にある。まだバスは通っている時間帯だが、歩くことにして、雪がうっすら積もった歩道をニルヴァーナのsmells like teen spiritを大音量で聴きながら歩いた。
今もぱらぱらと小雪が舞っていて、よく冷えた空気を吸い込んだ。無意識に肩をすくめる。
クロロが両手をブレザーのポケットに差し込んで歩いていると、ふいにスクール鞄が後ろに引っ張られた。振り向くと鼻を真っ赤にさせたが口をぱくぱく動かしている。クロロはヘッドフォンをずらした。
「お前、何やってんだ」
「コンビニ行くって出て来たの。シャーペンの芯切れたってウソついちゃった」
がべっと舌を出す。態度に反してその瞳は真剣そのものだ。
その目を見た瞬間、何の前触れもなく、クロロは泣き出しそうなった。耐えがたいほどの痛みが胸を締め付けるが、けなげに後を追いかけてきた妹に無駄な心配をさせないため、彼は死ぬほど不条理な世の中を憎むことで辛うじて押しとどめた。
「……怒ってる?ママ絶対気づいてないよ?」
沈黙を違う意味に取った妹が不安げに訊ねた。
「だとしても、こんな夜更けに危ないだろ」
「じゃあ家まで送ってよ」
言われなくてもそのつもりだが、クロロは苦笑してみせた。二人はコンビニに向かって歩き出すが、歩く速度はどちらからともなく落ちている。
隣に寄り添ってちょこちょこ歩く妹を、彼はどうしようもなく愛している。彼女もそれを受け入れて、彼らはタブーを犯した。
が寒そうに手をすり合わせ、白い息を吹きつける。クロロがその手を取ると少女は目を丸くした。
「お兄ちゃん、外だよ?」
「二人のときはクロロ、だろ。すぐ離す」
彼は無表情に言って、握った指先に力をこめた。この関係がいずれ破たんすることを彼は知っている。ぞっとするほど冷たいものが彼の背筋を駆け上った。
無垢な少女は永遠を信じ、兄は終わりを知っている。
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