―手紙―

「これ、受け取ってください」

 やや早口にそう言うと、少年は白い封筒を差し出してきた。ポストカードが入りそうな横長タイプの封筒で、つるっとした上質紙で作られている。よくよく見ると色は純白ではなく淡い水色だった。

「返事はいつでもいいです」
「え、あっ」

 私が封筒の観察をしていると、少年が小さくお辞儀をして歩き出す。引きとめるために咄嗟に腕をつかんだ。
 彼が驚いた顔で振り向いて、私も慌てて手を放す。背は私より10センチは高い。だけど長い手足が大人の男性と比べると華奢だ。

「ごめんね、これ受け取れない」
「読んでもらうだけでも無理ですか」
「一緒に住んでる男の人がいるの」
「そう、ですか……。彼氏いるのにすみませんでした」
「え?彼氏?」
「え?違うんですか?」
「彼氏……かあ、どうかなぁ、違う気がするなあ」

 女の子にも見える整った顔立ちに戸惑いが浮かぶ。しまった、とは思った。ここは嘘でも彼氏と言っておくべきだった。
 あたふたする私を少年がじっと見つめてくる。綺麗なものはまだこの世界にあふれていると信じているような澄んだ目だった。

「彼氏、じゃないのに、一緒に住んでいるんですか」
「へんかな?」
「あの、その相手、どんな人ですか」
「どんな……うーん。本とコーヒーをこよなく愛している人、かな」
「本と、コーヒーですか」
「四六時中本ばっかり読んでるの。コーヒーは豆にこだわりはないみたいだけど淹れ方には煩いの」
「その人……ちゃんと働いている人ですか?」

 遠慮がちに発せられた遠慮のない質問。つまり、その男はヒモなのかと少年は訊いている。否定しないと私がクロロに殴られそうだ。

「ちゃんと(ではないけど)働いてるよ。それに彼、女の収入をあてにするような人じゃないの」
「その人のこと、好きなんですか」
「うん。でも長い付き合いだから友達みたいでもあるかな。一緒にいて楽しいの、楽だし」
「……わかりました」
「ごめんね、ありがとう」

 少年ははっと顔を上げ、それから小さくうなずいた。封筒はようやく私の手から持ち主へと戻り、彼はそれをスクール鞄に押し込む。紺のブレザーとマドラスチェックの制服はこの辺りではよく目にする。この先の丘にある公立高校の制服だ。

「また、店に行きます」

 気まずそうにそう言うと、少年は礼儀正しく頭を下げた。私もつられてお辞儀する。彼は雨で濡れた路面を駆けて人波に紛れた。
 淡いブルーの封筒にしたためられた言葉も、いつも同じパンを買いに来る少し緊張した横顔も、きっともう見ることはない。そういうものを繰り返して人生は続く。


―ミルキーウェイ―

 寝転がってパンのミミをかじっていると、突然部屋の照明が消えた。腕や足の感覚さえもなくなる突然の真っ暗闇に数秒かたまる。それでも徐々に目が慣れて、パイプベッドから下りた。
 手探りで部屋を歩き、引き戸を開ける。そこにはキッチンがある。と言っても玄関から四畳半に続く通路に無理やり備え付けられたミニキッチンだ。最寄りの駅から徒歩21分・南西向き・ミニ冷蔵庫つき1Kというのがこのオンボロアパートの売りだ。ちなみにミニ冷蔵庫は二リットルペットボトルがぎりぎり入らないサイズだ。
 安っぽいクッション床を移動して、ワゴンからろうそくとライターを取り出す。鼻をつく臭いと共に手元がぼうっと浮かび上がった。普段使う機会のないアイテムがなぜ常備されているのかと言えば、前居住者の忘れものだ。敷金・礼金ゼロのお値打ち物件だけあってハウスクリーニングも甘い。
 小皿にろうを垂らしてろうそくを固定していると、聴こえていたシャワー音が止まった。すり板ガラスの戸が開いて、髪から水を滴らせながらクロロが現れた。

「停電か?」
「ちょっとっシャワーカーテンが何のためにあると思ってんの!」

 私の息で火が消える。慌ててもう一度点火した。クロロは狭いユニットバスを水浸しにして平然と髪を拭いている。本来浴槽の内側に入れて水跳ねを防ぐはずのポリエステルカーテンは全開で、トイレの蓋までびしょ濡れだ。

「ほんと狭いな、この風呂は。トイレと洗面台を浴室に突っ込む自体が間違ってるだろ」
「バストイレ別だと相場が五千ジェニーは上がるの」
「いい加減引っ越さないか?四畳半の1Kに大人二人は無理がある」
「あのね、クロロが転がり込んできたから狭いんでしょ。ここ一人暮らし用よ」
「だから転居しようと提案してるんじゃないか。おい、買い置きのビールは?」
「全部飲んだ。私のいちごオレあげるからゆるして」

 ミニ冷蔵庫の前でうな垂れるクロロにろうそくを託してTシャツを脱ぐ。テクノロジーの恩恵に頼り切っている私たちは、夜は明るいものだと思っている。本当はただ歩くだけでも困難だ。

「私も浴びてくる。どうせやることないし」

 水分を含んでしっとりと濡れたバスマットの上で短パンも脱ぐ。つま先に引っかかったそれを蹴って洗濯かごにシュートした。ブラのホックに手をまわすと、背後の気配が慣れた手つきで代りに外す。肩甲骨に唇が触れた。脇の下から滑り込んだ腕が私を抱え込んで下腹を無遠慮に撫でる。濡れたままのクロロの髪の毛からはほんのりフルーティな香りがした。
 煌々と燃えるろうそくの火が照明器具よりもあたたかみのある光で室内を灯す。壁に映しだされた影がゆらめいていた。

「シャワー浴びれない」
「そうだな」
「私が浴びてる間にコンビニ行って来て。お茶とカルピスお願い」
「お前だって風呂上りにいちごオレは嫌なんだろ?」

 黒い瞳が横から覗き込んでくる。うっかりかわいいと思ってしまったけど、ハタチも過ぎた男には褒め言葉じゃないので言わない。耳を引っ張って大きな耳飾りにキスをした。

「そうなの、だからお願い」
「たまには外に食事に行かないか」
「クロロお腹空いたの?私けっこう満腹だけど」
「お前がパンのミミ食うからだろ」
「だってカビたらもったいないじゃない。ラズベリージャムつけたら美味しいよ」
「揚げて粉砂糖まぶすのも美味いよな」

 涼しい顔で手だけがいやらしく動く。私の身体をまさぐる手を心持ち強めに叩くと背中で笑い声。吐息の触れた首の後ろがドキドキした。案外素っ気なく解放されて、ちょっとさみしく浴室に入る。ドアを閉めると何にも見えないので、数センチ開けてシャワーヘッドに手を伸ばした。

「なかなか点かないな、近くで断線でもしたのか」

 ただのお飾りとなったシーリングライトを見上げてクロロがぼやく。私は洗顔せっけんをネットで泡立てながら、ふと思い出した。温かいお湯を浴びているのに背筋がすうっと寒くなる。

「そう言えば電力会社からなんか手紙が来てた……。中身見てないけど」

 ついでに言えば停電する数分前に、誰かがしつこくノックしていた気がする。てっきり宗教の勧誘だと思って無視した。以前わけのわからない冊子を5千ジェニーで買わされたのが悔しすぎたのだ。
 ばらばらと物が落ちる音がして、テレビの下のカゴがひっくり返されたのだとわかる。足音もなくやってきたクロロがきっちり三つ折りになった紙を上下に引っ張った。そこには供給停止期日の連絡と題された短い文句が綴られている。

、俺がやったカードはどうした」
「ある、サイフに」
「それならなぜこんな事態になる」
「だって引き落とし口座私のやつだもん。えー……いつから落ちてなかったんだろ」

 クロロが額に手を当てる。水道とガスはどうだっけ。少なくとも今日はまだ大丈夫だ。あたたかいお湯に感謝しつつほとんど行水状態でシャワーを終えると、ろうそくの火を頼りにたまった郵便物を開封した。終始呆れ顔の同居人は呆れつつも手伝ってくれる。今が暑くも寒くもない季節で良かった。これがうだるような熱帯夜なら、満足に読書もできないと悪態づかれたはずだ。
 全てを開封し終わると、散らばった請求書兼領収書を手に首を傾げる。

「水道もガスも大丈夫なのになんで電気だけ……」
「電気料の引き落とし日が給料日前なんじゃないか?お前通帳記帳してないだろ」
「それだ。絶対それだ。たしか10日くらいよ、電気代は」

 私の給料日は毎月15日と20日だ。きっと給料前の死亡寸前の時に残高見てまだあるじゃん!と意気揚々と引き出してるに違いない。納得したところでクロロが深いため息をつく。

「明日にはきっちり払って来いよ。ついでに引き落とし口座も変えてこい」
「クロロのやつに?」
「ああ。あれは俺の分の生活費だと思ってくれ」
「何百年居座る気なの。それなら毎月ちょうだいよ、家賃と光熱費きっちり折半で」
「それが手間でカードをやったんだろ。お前、もしかして使ってないのか?」
「使ってない、かも」

 べち、とおでこに衝撃がくる。それが二度、三度と続いて非難の目を向けると、クロロはいかにも不服そうに眉根を寄せた。ろうそくの火が顔の輪郭を濃くさせるのでよけいに怖い。そうこうする間に四発目がきた。

「ちょっと、なんなのっ」
「叩かれた意味がわからないか?そうか、わからないんだな」
「わかる、けど四回も叩かなくってもいいでしょ」
「俺の金を使うのはそれほど嫌か」
「……それは違う、そういうことじゃないの」

 じゃあなんだと黒い目がすごむ。説明したところでクロロにはうまく伝わらない。
 時給850ジェニーのパン屋と時給1,100ジェニーのコールセンターをかけもちバイトしつつ、貧乏ながらもなんとか生活してる私がぽんとおそろしい預金額のカードを手に入れたところでやっぱりおそろしくて使えるわけがない。

「ここへ無理やり押しかけたのは俺だ。お前に金銭的な負担をかけたくはないんだ」

 ふっとろうそくの火が消えた。どうやら燃え尽きたらしい。
 二本目のろうそくを取りに立ち上がるとクロロの気配も動く。窓辺のカーテンがばっと開き、パイプベッドが大部分を占める狭い室内が月明りで満たされた。目を凝らせばなんとか見えるクロロの横顔が少しさみしそうで、ちょっとだけ胸が痛む。

「これでもわりと明るいな」
「うん……」
「ろうそくはもういい。月明かりで過ごすのも悪くない」
「子供の頃はそれが普通だったもんね」

 二人で窓辺に立った。腰にまわった手に自分の手を重ねて、真っ暗な空ににじんだ月を見上げる。

「クロロ、ここにいたければいていいからね。ちゃんと貰ったカードも使うから」

 私が言うと、固く引き結ばれていた口元がゆるんだ。続いて口角が上がる。

「いて欲しいとは言えないのか?」
「どうせかわいくないって思ってるんでしょ」
「いや、かわいいよお前は昔から」
「そんな事言うのクロロくらいよ」
「そうか?お前けっこうモテてただろ」
「あ、そう言えばこの前パン屋のお客さんに手紙もらった」
「どんなヤツだ」
「綺麗な男の子だったよ」

 パート仲間たちはあの少年がぴたりと来なくなったのを本気で残念がっていた。申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、どうにもならない。私は彼の想いには応えられない。
 ベランダの戸を開けようと、クロロの腕から抜け出すとすぐさま引き戻された。今度は後ろから腕がまわって、すっぽり収まる状態で抱きしめられる。

「で?なんて答えたんだ、返事はしたんだろ」
「ねえ、力強い。痛いよ」
「当然断ったよな、
「ごめんねって言ったよ。手紙も返したから読んでないの」

 クロロが満足げな笑みを浮かべて、私はようやく解放された。

 真っ暗ですることもないので二人でベランダに出た。遠くに都心のビル群が、見上げた空には地球から最も近い天体が浮かぶ。幻想的な白い光を放つ月は、実際には1億キロ以上も離れた太陽光を反射しているだけだ。その太陽でさえ天の川銀河の中心部からはおよそ2万5千光年も離れている。そしてその天の川銀河も無数にある銀河の中の一つだ。バカバカしいほど壮大な世界に今自分が生きている不思議を噛みしめながら、あれ、と思う。宇宙の神秘よりも重大なことにようやく今気づいた。

「………クロロ、もしかしてさっきの、嫉妬してた……?」
「喉が渇いたな。俺のビールだけ買って来るか」
「待って、行く。やっぱり一緒に行く」

 クロロがさっさと部屋に戻る。私もベランダ用のサンダルを脱いで後を追った。途中、ベッドの角で脛を豪快に打って、悶絶しつつもキッチンを走り抜けてすでに靴を履き終わったクロロの腕をつかむ。声が震えそうになった。

「クロロって、もしかして私のこと……好きなの?」

 普段は何事にも動じない顔が唖然とする。
 なにやら思案顔で腕を組んでいたクロロが、今度はちょっとたじろぐくらいまっすぐに見つめてきた。

「あのな、。俺は俺なりにお前を大切にしてきたつもりだ」
「え?う、うん」
「お前がそれほど鈍い女だとは思わなかったな。俺がなぜわざわざこんな小汚いアパートに住む必要がある、お前がいるからだろ?お前がかたくなに転居を拒むからだろ?お前が」
「あーもうわかった!わかったから」
「何がわかったんだ、何もわかってないだろ」
「な、何よその言い方……クロロだって悪いじゃない、何にも言ってくれないから」
「俺にはお前が必要だ、好きなんだよ。お前も同じ気持ちだと思っていた」

 言葉が途切れると急に静まり返った。冷蔵庫のモーター音ももちろんテレビの音もない。私たちは思春期の子供みたいに急に上手く喋れなくなった。普段は騒がしいお隣さんも、今日は留守なのか沈黙している。

「私も、クロロが好き。ずっと好きだった……けど、クロロそういうの重いかなぁって思ってたの」

 細かな表情の変化まではわからない暗闇の中で、クロロが私の唇を指でなぞった。その指が頬をたどって髪に絡まる。次にほんの少し意地悪な手つきで耳たぶを引っ張った。
 流星街を出てからまったく会ってなかったクロロがふらりとやって来て、そのまま居ついてしまってからもう半年は経つ。途中留守にすることはあっても必ず戻って来た。私の部屋にクロロの好むような貴重な物なんてない。女を抱きたいだけならわざわざ私じゃなくてもいいはずで、ずっと不思議だった。
 クロロが私の側頭部に顔を寄せる。すんすんと犬みたいに鼻を動かした。

「お前の髪、良い匂いがするな」
「クロロも同じ香りがするよ。洋ナシとキウイのフルーツシャンプーなの」
「へえ、自分じゃわからないもんだな」
「うん」
「知ってるか?髪だけじゃない、お前の身体はどこもかしこも良い匂いがするんだよ」

 指と指を絡めてしっかりと手を繋ぐと、私とクロロは唇を重ねた。はじめてキスした日と同じくらい胸が高鳴る。うっすら汗がにじむのは空気がむしむししているせいだ。明日は雨かもしれない。クロロはもう靴を脱ぎ捨てていて、私の服を手際よく肌蹴させる。キッチンとバスルームの間の狭い通路でとろけるように抱き合った。ベッドまでのわずかな距離さえ煩わしい瞬間は、きっと誰にだってある。

 二人で汗まみれになって、狭いユニットバスでもう一度シャワーを浴びて、結局コンビニには行かず、半分ずついちごオレを飲んだ。ちなみに電力会社の窓口がなんと24時間営業だと知ったのは翌朝で、最寄りの営業所を調べるために電話したカスタマーセンターのお姉さんが素っ気なく告げた。


―ファインな日常―

「おはよーちゃん!」

 くるくる巻き毛が愛らしいバイト仲間がハイテンションで更衣室に現れた。勤務開始時間五分前なのに彼女はのんびり上機嫌で着替えをはじめる。

「大丈夫?あと五分しかないよ」
「え?もうそんな時間!?」
「うん、私先行ってるね」
「わかったわ。ねえちゃん、あたし昨日あの子に会ったの」

 彼女は慌ててスカートのファスナーを上げている。私は思わず戸口で立ち止まった。

「……あの子?」
「ほら、あの高校生の男の子。最近お店に来ないね~って声かけたら部活が忙しいって言っててね。また来るって」

 ふわ、と春風が吹き抜けたような気がした。うつむきがちに手紙を差し出してきた、綺麗な少年が頭に浮かぶ。まだ成長途中の瑞々しさにあふれた、子供と大人の中間にいる男の子。クロロも流星街に捨てられさえしなければ、あんなふうに育ったかもしれない、と少しだけ思った。

「そっか、じゃあ店長にクルミパン増やしてもらわなきゃね」

 カチ、と秒針が動いて年代物の置き時計が勤務時間の開始を報せる。全力疾走でフロアへ急ぎ、バイト仲間の彼女も二分遅れで朝礼に参加した。今日も余ったパンのミミを持って帰るかと店長に声をかけられたので、もちろんお願いする。今夜は夜間バイトのコールセンターがない。もらったミミで揚げパンを作ってシナモンを混ぜたお砂糖をまぶそう。きっとクロロが喜ぶから。




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