眠り姫の覚醒



 最初はやけに眠いな、と思ったくらいだった。やけに眠くて、たっぷり10時間睡眠をとって目覚めた朝、シャワーを浴びてテレビを観ているとまた眠くなって、昼寝ならぬ朝寝をしていると、気がついた時には部屋が薄暗くなっていた。
 疲れてるのかな、と思いながらすっかり日が暮れた街をベランダから見下ろす。空腹を感じて軽く食事をして、寝汗を流すためにもう一度シャワーを浴びて、雑誌を読んだりパソコンをしたりしているとまた眠気がやってきて、ソファに軽く横たわるとそのまま寝入っていた。

 こんな日が何日か続くうちに、これは異常ではないだろうかと不安になった。それでも襲い来る眠気には抗えず、日がな一日を眠って過ごした。幸い私は定職についておらず、つく必要もなかったので誰に迷惑をかけることもなく惰眠を貪り続けた。
 いつだったかこれではダメだと倦怠感と食欲不振で動くのすら億劫な身体を引きずって、近所のドラッグストアに行ったことがあった。睡魔打破、と銘打たれた真っ黒い色の小瓶を買って飲んでみたけれど、部屋に戻ると底なし沼に落ちるように眠気がやってきた。恐ろしいので具体的な計算は避けていたけれど、おそらく私は一日24時のうち、20時間近くを眠って過ごしていた。

 人間は一生の三分の一を眠って過ごすと言うけれど、このままいくと私の場合は八割以上をベッドで過ごすことになる。それならせめて快適な時間を送ろうと、寝具を新装した。
 銀細工のベッドフレームが素敵なベッドとバラ柄の布団カバーでさながら眠り姫だわ、なんて考えて笑う。いっそこのまま眠り続けたら、100年後にはイケメン王子が現れて呪いを解いてくれるかも。そっか、これって呪いなんだ、そう思うと少しだけ気が楽になった。一日20時間眠らされてしまう呪い。慢性的な頭痛に悩まされていた頭がなぜか妙にすっきりしていて、ベッドから抜け出ると久しぶりにコーンフレークとビタミン剤以外の食事をする気になった。
 シャワーを浴びてメイクをして、クローゼットからお気に入りのワンピースを出していると、携帯電話が鳴る。出るとクロロからで、それから10分くらい当たり障りのない会話をした。一日のほとんどを睡眠で費やすようになって唯一良かったことは、いつかかってくるかわからないクロロからの連絡を待たなくなったことだ。話し終えると出かける気はすっかり失せていて、その足でベッドに戻った。とても眠い。

「え、それって異常だよ」

 久しぶりに会ったシャルナークが目を丸くして言った。

「私もそう思うけど、とにかく眠いの」

 今日は朝から洗濯と掃除をして、シャワーも浴びたからすでに3時間近くが経過している。残された猶予はあと一時間だ。

って今、働いてないんだよね?」
「働いてたら100回くらいクビになってるわ」
「あはは、確かに」

 可愛らしい顔で笑ったシャルナークの宝石のような瞳が哀し気に伏せられる。

「たぶんね、はそれでも働いた方がいいよ。汗をいっぱい流してくたくたになるまで働いたら、今とは違う眠りが欲しくなる。今って働かなくても生活に困らないだろ?だからダメなんだよ」
「そうなのかな」
「最初は一時間からでもいいし、なんなら俺がこき使ってあげようか?」

 爽やかに笑った顔はいつになく真剣みを帯びていて「そうしなよ」と念押されて断りきれずにうなずいた。
 その日からシャルは私の部屋に住み着くようになった。殺風景だったリビングには彼愛用のパソコンが三台とプリンターが置かれ、用途のわからない周辺機器や配線などが絨毯の上を這う。にわかにサイバー化した部屋で、私は起きている4時間のうち、一時間だったり三時間だったりをシャルナークのために使った。
 コーヒーを淹れたり印刷した書類をクリップ留めしたりの簡単な作業の傍ら、分厚い専門書を何冊も渡されてさまざまなプログラム言語の基礎を覚えるように命じられた。隣に優秀な先生がいるおかげで、半年後にはちょっと複雑なプログラムでも一から組めるようになった。どうやら最終目的は既存のプログラムの書き換えをさせたいらしい。誰かが組んだ内容を理解する方が一から組むよりもずっと難しいのだと知った。

「クセが出るからね、こういうのは」

 シャルナークの言葉も今ではうなずける。無機質なはずのプログラムなのに、ちゃんと作り手のクセがでている。私の生活サイクルは相変わらずだったけれど、起きている4時間は以前よりもずっとずっと生を実感できた。私は生きている。こうして悩んで考えて導き出して、私は確かに生産している。
 働かなくても生きていける状況は、私から気力と向上心を奪った。全ては自分が弱いせいだけど、一生をかけても使い切れないお金があったら誰だって雨の日の満員電車に乗ろうとは思わないし、ストレスの溜まる社会で生きようとも思わない。植物だってもう少し頑張っているのに、私は毎日死んだように生きていた。シャルナークにはとても感謝している。そんな私の生活に新鮮な風を吹き込んでくれた。
 だけど今日、夕方近くに目が覚めて、シャワーを浴びて脱衣所で洗濯機のごうごうという音を聴いていると、ふと、本当にふと、あのシャルナークは私が作り出したまぼろしではないかという不安に襲われた。彼はあまりにも自然に私の生活に馴染んでいた。
 頭がずきずきと痛んで喉がからからに渇いて涙が滲む。あのシャルは、一人きりでいることに耐えられなかった私の脳が作り出した虚像ではないのか。リビングまでの道のりがやけに長く辛いものに感じられた。それでも一歩を踏み出して、立ち止まってはまた踏み出して、リビングの扉に手をかける。「シャルナーク?」かけた声は自分でもわかるほどに弱々しいもので、涙が止め処なく溢れた。

「うわ、なんで泣いてるのさ!」
「シャルナーク、いるの?」
「いるのって……どう見てもいるじゃん、の視力そんなに悪かったっけ」

 見えない?とシャルナークは少し困ったように笑った。

「見える」
「でしょ」
「見えるけど、シャルが本物だって誰が証明してくれるの?」

 この部屋には私と彼しかいない。シャルナークがまぼろしなら全ての権限が私に委ねられるわけで、私の脳がそれをまぼろしだと認めるとは思えない。

「まあ座りなよ 、俺の隣が空いてる」

 シャルナークはそう言って三人掛け用のソファをぽんぽんと叩く。私は恐る恐る近づいた。自分の部屋のリビングで、自分が購入したソファに座るのにちょっと吐きそうなほど緊張している。あ、違う、このソファはクロロがプレゼントしてくれたものだ。彼好みのシックで上品なソファ。

 私が隣に腰かけると、シャルナークは私の耳元に顔を寄せ、子供を寝かしつけるような優しい口調でささやいた。

「俺は本物だよ。俺の声、ちゃんとの鼓膜を震わせてるでしょ?」
「……そうかも」
「半信半疑だね、もっと確かめたいなら俺に触れてみなよ」
「いいの?」
「もちろん」

 シャルナークが私の手をつかみ、自分の方へ誘導する。最初は遠慮がちに、頬っぺたに触れてみた。やわらかくてつるっとしていて、指先が嬉しくなるような滑りのよい肌だった。
 頬から顎にかけて指を滑らせ、そのまま首筋に降りる。肩や腕は驚くほどがっしりとしていて、胸板も服の上からではわからない厚さがあった。胸がどきどきしてきて、シャルナークは幼なじみの男の子である前に、一人の男の人なのだと自覚する。

、そろそろいい?」
「ん、もうちょっと」

 手のひらをぴたりと心臓に当て、とくとくと動く鼓動を感じた。これほどリアルな幻覚なんてあるわけがない。今目の前にいるシャルナークは確かにシャルナークで、苦笑しながら私の髪を撫ぜるその手も実在していて、確かに私の細胞を刺激した。
 まるではじめからそう決まっていたような自然さで、私とシャルナークはキスをした。お互いの唇のやわらかさを確かめ合うようなキスだった。背中にまわった腕の力強さにまた泣きそうになって、どうして私は今この人とキスしてるんだろうと客観的に思う。思うけど、どうでも良かった。
 気持ちいい。ただ触れるだけなのに、こんなに気持ちいいキスははじめてだ。どれくらいそうしていたのか、シャルナークの顔が離れていく。

「……ごめん、
「どうして謝るの?」
「俺、こんなことしたくての傍にいたんじゃないんだ」
「………」
「あ、違う。したかった。ずっとにキスしたかった。けどそうじゃなくて……そういう下心抜きで」

 今度は私がシャルナークの髪に指を埋めた。シャルともう一度キスしたい、もっと触れたい、もっと触れて欲しい。私は浅ましい人間だ。クロロのことが好きだったはずなのに、今はこの人が欲しい。シャルナークの唇が私の名前を呼んだので、私も応えて彼の名をつぶやいた。吸い寄せられるように顔を近づけて、おでこがこつんとぶつかる。鼻先を擦り合わせてキスをして、お互いの服をとても丁寧に、だけど早急に剥ぎ取って裸で抱き合った。
 色んな部分を舐めたり噛んだり食んだり撫でたりしながら体の隅々まで余すところなく感じ尽くす。汗だくになるまで求め合って、意識が飛ぶまで繋がって、最後には二人ともぐったりとソファに倒れ込んだ。それでもまだ足りなくて舌を絡める。キスの合間に妙に真面目な声で「そう言えば」とシャルナークが言った。

、もう4時間以上は起きてるよね」
「本当だ」

 私は衝撃を受けつつもなぜか冷静だった。

「あ、洗濯物がそのままだ」
「後で俺がやっておくよ。ちゃんともう一度洗ってから干してあげるから」
「シャルって優しいよね、クロロだったら絶対そんな事言わないもの」
は清々しいほど空気読めないね。今団長の話出すの反則でしょ」

 シャルナークが私の耳たぶに歯を立てたので、一度鎮まった身体がまた熱を持ち始めた。

「ごめん、ね?」
「んーどうしようかな」
「お詫びにシャルの好きなようにして」
「ぷ、なにそれ」

 ふき出した顔が子供みたいに可愛くて「お詫びじゃなくても好きなようにするけどね」とちょっと可愛くないことを言ってもやっぱり可愛いと思ってしまう。

「そうだ、明日一緒に出掛けようよ」と思い立ったようにシャルが言う。

「いいよ、私も買いたいものがあるの」

 それから私たちはまたお互いの体温を逃がさないよう抱きしめあった。きっと明日には手を繋いで買い物に行く。予測できる明日がこれほどの安らぎと幸福感を与えてくれるのだと私ははじめて知った。
 明日、新しい携帯電話とソファを買って、帰りには求人雑誌も買ってみよう。汗だくになるまで動いて、若しくはへとへとになるまで頭を使って、目を使ってこの両手を使って、歩いて息をして全身全霊で働こう。何でも買える魔法のカードはもういらない。手放す勇気もつき返す勇気もなかったけれど、ハサミを入れて捨ててしまおう。この部屋でただじっとクロロを待つ日々に私はもう疲れ切っていた。いつから言いたいことも言えなくなったのかな。私たちの関係はもうとっくに破綻していたのに。

、俺本気だよ。俺だけを見て欲しいんだ」
「うん」
「……もうちょっとよく考えてから返事した方がよくない?俺よそ見は許さないよ」
「うん。だから返事はうん、なの」

 私が言うとシャルナークは驚いたように息を止めて、それから照れて視線を逸らした。だけどすぐにまた交わって、少し泣きそうな顔で私を抱きしめてくれた。息がかかった耳たぶが燃えるように熱い。

「団長には俺から話す。は何にも心配しないで」
「それなら大丈夫、私が自分から言う。今までずるずるしてた分ちゃんと終わりたいの」
「……わかった、任せるよ」
「私しばらく一人でかんばってみるね。一生懸命働いて、誰にも頼らず誰の手も借りずにやってみる」
「それって……俺にここを出て行けってこと?」
「そうだけど、でもね」

 密着した肌がじんわりと温かくなるのに幸せを感じた。怪訝そうに首を傾げるシャルナークにまたキスをする。

「私を目覚めさせてくれる王子様、シャルだったんだね。100年目がまさかこんなに早く来るなんて」
「えーと、それ毒リンゴのヤツだっけ?」
「違うよ、魔女に糸紡ぎの針を刺されたお姫様よ」

 シャルナークの膝に乗って両腕を首に回した。この綺麗な金髪もエメラルドの瞳も見れば見るほど王子様だ。

「私ちゃんとした職歴もないし不安はあるけど、何でもやってみる。ちゃんと働いて、それでお給料を貰ったらシャルをデートに誘ってもいい?」
「もちろん、喜んで受けるよ」
「嬉しい」
、自分では気づいてないかもだけど、そこらのエンジニアには負けない程度の知識はもうあるんだよ。経験ゼロでも実力主義で雇ってくれる会社はあるだろうし」
「そっか、さすがシャル直伝だね」

 まるで潮が引くように眠気が消えて、今なら10キロくらい全力疾走できそうだった。息が切れても足を止めさえしなければきっと完走できる。ヒールが折れたら裸足で走ればいい。それだけのことなのに、私はずっと気づけないでいた。

「でももしまた眠くなったらいつでも言いなよ。俺が代わりに針でも毒リンゴでも食べてあげるから」
「シャルは優しいね、でも大丈夫」
「ちょっとは頼って欲しいなー、まあでもが元気ならそれでいいけどさ」

 真っ直ぐに目が合って、二人で笑った。笑いながら私は確信していた。眠り続けた日々を遠い昔の物語のように思い出すことはあっても、繰り返すことはない。私はもう大丈夫だ。




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