彼女が世界を愛した理由



 完璧な人間、というものがいるならそれはきっと兄のような人だ、とは思う。彼女は兄がまともに勉強しているところを見たことがない。それでも常に学年トップで、運動神経もずば抜け、おまけに外見も美形な父の遺伝子を色濃く受け継いでいる。の目の形は母ゆずりで、父と兄は形の良いアーモンド型だ。

 彼女の兄、クロロ=ルシルフルは社交的でも目立ちたがりでもないが、他人を惹きつけるカリスマ性を持っていて、周囲には自然と人が集まった。
 教師からの信頼も厚く、中二、中三と生徒会長を務め、今春には両手両足でも足りないほどの愛の告白を受けて中学を卒業した。他校からも集まっていたらしいから驚きだ。



 下校前のホームルームが終わり、が席を立つとクラスメイトの男子が声をかけてきた。真面目なとはあまり接点のない、目立つグループの男子だ。

「何?」
「お前の兄ちゃん、今年卒業したルシルフル先輩だってマジ?」

 とクロロは姓が違う。そういう微妙な問題を飛び越えて無神経に訊ねてくる人間は実はわりと多い。

「そうだけど……」
「頼む!サインもらってくれね?ルシルフル先輩、何とかって雑誌のモデルやってんだろ?」

 確かに以前クロロはティーン向けのファッション誌に大きく写真が載ったが、それは彼の望むところではなく、高校のクラスメイトが勝手に応募したものだ。
 が尾ひれのついた誤解を解くと、男子生徒はがっくりと肩を落とす。

「うーそっかあ、わかった。じゃサインはいいや。ラインとか教えてくれねえ?」
「え?」
「塾で一緒の子が先輩のファンでさぁ。あ、その子先輩と同じ付属高校狙ってる子なんだけどさ」
「ムリだよ、お兄ちゃんの許可なく勝手に教えるなんて」

 正論をぴしゃりと言われ、相手はしぶしぶといった様子で諦めた。こういったやり取りは過去に何度もあり、は「妹」としての正しい対応をしている。中にはしつこく食い下がり、無理やり連絡先を押し付けてくる女子もいたが、どうせクロロは見もせずに捨てるのだ。

 制服の上に学校指定のコートを羽織り、は足早に教室を出た。今日は兄が家に来る日だ。クロロは妹のために週二日の家庭教師をしており、その夜は母も料理の腕をふるう。

 正面玄関を出て正門に向かうとなにやら人だかりができていて、は大きく膨らんだ集団を迂回して避けた。



 ふいに飛び込んできた、自分を呼ぶ声に足を止める。が目を向けると学ランとセーラー服の一団の中にブレザー姿を見つけた。

「お兄ちゃん!?」

 が驚いて駆け寄るとクロロは口元をほころばせた。これはよそ行き用の顔で、本当の彼はもう少し甘くてほんの少し投げやりに笑う。

「今日は午前授業だったんだ。ちょっと寄ってみたんだが、こいつら煩くて」
「そりゃそうだよ、元生徒会長が顔出したんだから」

 別れを惜しむ集団に手を振ってクロロとは歩き出す。「兄」としてのクロロもは愛しているが、二人きりのときに見せる余裕のない表情の方が好きだった。切羽詰った声で名前を呼ばれると、胸が昂って、どうしようもなく欲情した。

「危ないぞ」

 つるつるに凍った雪でローファーが滑り、転ぶ寸前でクロロがの腰を抱いた。妹が体勢を持ち直すと彼は素早く腕を退き、彼女の方も急いで適度な距離を取る。
 今は下校時間中で、そこかしこに見慣れた制服姿が目についた。家路を急ぐばかりに早足になっていたことを反省し、少女はゆっくりと地面を踏みしめる。

「晩ごはん、何だろうね」

 取り繕うような彼女の言葉に、クロロは曖昧に首をかしげた。

 自宅に帰りつくとすでに午後4時を過ぎていて、二人はの部屋で服も脱がずに繋がった。母親の帰宅時間が早まったことを受けて、二人で話し合った結果だ。
 本心を言えば、もっとゆっくり触れて欲しい。何度もキスをして、お互いの体温を確かめ合うようなつながり方をしたいし、クロロの方もそう思っているが、勉強の時間も確保しなければならない。急場凌ぎのセックスならいっそしなければいいのだが、二人にその選択肢はない。二人は一つになって、その持て余した熱を擦り合わせることによって、普段抑えつけている感情をぎりぎりのところでコントロールできている。

……」

 苦しげな声が少女の鼓膜を焼く。擦れた肌から発散される熱のせいで汗がにじんだ。
 は兄を心から愛しており、彼の全てを受け入れている。彼が触れてくれるなら、それがどんなやり方だとしても愛おしかった。
 どんな犠牲を払ってでも守りたい。たとえ最後に何も残らないとしても。
 は目に涙をにじませ、唇を噛んだ。




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