泣き虫ジャック



 夜明け前だった。昼間は蟻の行列のように隙間なく渋滞する市道も、たまに車のライトが行き交う程度で閑散としている。とっくに最終が出て表示灯すら消えたバス停のベンチにその女は膝をかかえて座っていた。
 素足にパンプスを履ける季節はとっくに過ぎている。そもそもパンプスって素足で履くもんじゃない気がする。
 女は俺の気配に気づいて振り返り、笑うでもなく話しかけてきた。

「お兄さんもバス待ってるの?」
「お兄さんって、君俺と同じくらいでしょ」
「そうかも、座る?」

 女は尻を浮かせて端に寄る。断るタイミングをなぜか逸して隣に腰掛けた。
 最初はジャンキーかと思った。
 女はこの肌寒い季節に、下着と薄いスリップ一枚にパンプスというネジの緩んだ格好をしている。だけどそのわりには目が飛んでない。じゃあ客待ちの売春婦?レースのついたスリップをちらりと見て、それも微妙だと思いなおす。手足の長さは認めるけど、男を誘う色気がまるでない。

「君さ、その格好寒くないの」
「平気」
「でもそれ……下着だよね?」
「お兄さんは寒くないの?」
「俺?俺は平気だよ鍛えてるし」

 それに仕事はこの格好じゃないと締まらない。願掛けってほど確かなものじゃないけど、クモで動く時は必ずこれを着る。
 女は抱えた膝に顎を乗せてふふと笑った。その笑みの意味は俺には理解できない。ただ、季節外れに剥き出しの肌がやたら白くて雪みたいだと思った。
 通り過ぎる車のテールランプを目で追っていると、背中で奇声が上がる。見ると酩酊したサラリーマンが二人、呂律のまわらない声で取っ組み合いのケンカをしていた。よほどストレスが溜まっているんだろう。隣の女は身を捩って肘を背凭れにかけ、感情のない声で言う。

「煩いね、殺しちゃおうかな」

 あれ、と思った。冗談にしては陰惨な湿り気を感じる。この女はこっち側の人間かもしれない。だけどその割にはオーラはダダ漏れ、基本の四大行すらできてない。
 そこで気づいた。女のスリップには血染みができていた。模様と見間違える程度のものとはいえ、普段の俺ならさすがにもっと早く気づいたはずだ。今日はなにぶん殺りすぎて、感覚も嗅覚も麻痺している。

「私ね、逃亡中の連続殺人鬼なんだ」

 女が緊張感のない顔で笑う。れんぞくさつじんき、と頭で繰り返してみた。

「へえ、君が殺人鬼なら俺はさしずめ殺人マシンかな」
「面白いこと言うね、お兄さん人殺したことあるの?」
「そのお兄さんってやめてよ。俺はシャルナーク、君は?」

、俺はたぶん君よりずっとたくさん殺してるよ」
「見えないね」
「君だって見えないよ」

 割増料金のタクシーが目の前を徐行で通り過ぎ、五メートル先で速度を上げた。あの運転手はラッキーだ。殺人鬼と殺人マシンなんて乗せたら行き着く先は地獄しかない。
 今日も数え切れないほど殺った。殺して殺して奪う。いつものことだ。だけどたまに溢れた脳内伝達物質が、時間が経っても消えない時がある。

「私、好きな人は殺しちゃうの」

 その声で我に返る。隣に女がいたことすら忘れていた。いつの間にか酔っ払いの姿は消えている。
 濁った水が徐々にクリアになるように夜が明け始めていた。

「なんで?愛情が憎悪に変わるってやつ?それとも好きな男の全部を自分のものにしたいから?」
「わからない、ただ殺さなきゃって思うの」
「それって病気の一種かもね、治療したら治るんじゃない?」
「……どうかな、前に優しくしてくれたカウンセラーの先生も殺しちゃったし」

 いつの間にか脱げ落ちたパンプスが片方地面に転がっていた。女は居心地が悪そうに足の爪を撫でている。白い肌に真紅のペディキュアが不釣合いで、妙に艶かしかった。こうやって男は彼女に心を奪われるのかもしれない。

「君、今までに何人殺ったの?」
「……12、と、今日の彼で13人かな」

 女は過去を思い出しながら両手の指を折る。その手は小刻みに震えていた。アル中の禁断症状ってわけでもなさそうだ。

「その人数なら神様の前で土下座すればぎりぎり天国に行けるよ」
「そうかな」
「ごめん嘘、たぶんムリだと思う」
「お兄さん可愛い顔してけっこう性格悪いね」
「シャルナークね。よく言われるよ」
「いいもん、天国に行きたいなんて都合のいいこと考えてないから」
「殺したやつらに悪いとか思ってたりするの?」
「シャルナーク、は悪いと思わないの?」
「思わない、もっとも俺は君みたいに好きな人間を殺ったことはないけどさ」

 彼女だった女を殺すときも、その瞬間はただの他人に成り下がっている。もしかしたら最初から他人でしかなかったのかもしれない。俺はきっと、仲間かそれ以外かでしか人間を区別できない。だから罪悪感なんて微塵も沸かないし、翌日には綺麗さっぱり忘れている。
 ” 好きな人間”を殺るってどんな気分なんだろう。つまり俺にしたら仲間を殺るってことだ。そう考えるとこの女の苦悩が少しは理解できる気もする。
 ふとバス停の時刻表に目をやると、1番線の経路に中央警察署前というのがあった。あと数時間もすれば始発が出る。この女は案外自首するつもりでこのベンチにいたのかもしれない、と思った。

「好きなのに殺したいなんて、そんなやっかいな嗜好持ってたら生きるのが辛いだろうね」

 それ以上かける言葉もなく、俺はベンチから腰を上げる。
 去り際に、女の目から大粒の涙が零れたのがわかった。
 狂った人間なんて探せばいくらでもいる。この女もそんな中の一人だ。珍しくもないし、一日中街を歩いていれば数人は異常者とすれ違う。そんな世の中だ。
 数メートル歩いたところで青白い空からぽつぽつと雨が落ちてくる。雨はあっという間に豪雨に変わり、早朝ジョギングの途中だったらしい青年も慌てて雨宿りの場所を探す。
 足が止まったのはつまり、雨のせいだ。
 朝と夜の間にちょっと言葉を交わしただけの女に付き合って俺まで濡れる義理はない。だけどベンチで膝を抱えて泣きじゃくる女を放って帰るのも、何かが違う気がする。フェミニストじゃないんだけどな、俺。
 ベンチまで引き戻して女の隣に腰を落とすと、濡れ鼠の女が顔を上げた。俺だってもうびしょ濡れだ。そっと手を握ると弱々しい力で握り返してくる。泣き声はしばらくすると嗚咽に変わってそれから止んだ。


***


「驚いた、シャルナークってあの幻影旅団だったんだ」
こそあの首切りジャックとはね。知ってる?君にいくらの懸賞金がかかってるか」
「A級首には負けるよ、桁が違うもん」

 全裸に近い格好でベッドに寝転がるは、無邪気に笑う傍らで常にナイフを携帯している。
 団長は俺を物好きと笑い、フェイは飽きたらくれと言う。もちろん拷問の材料として。
 みんなわかってない。俺は慈善事業で彼女と一緒にいるわけでもないし、そう易々と殺されてやるほど優しくもない。

さあ、いつまでそんな格好してんの」
「あっ!返して」
「ダメに決まってるじゃん、俺だって頚動脈をざくりとやられたくないからね」

 容易く奪ったナイフを部屋の隅っこに放り投げて彼女を抱き上げる。捨てても捨てても新しいナイフを調達してくるので最近ではもう諦めた。全体重を俺に預けてだらりとしていたが渋々起き上がる。

「ほら服着て、俺すげーお腹すいてんの。それともが何か作ってくれる?」
「……仕度する」
「うんじゃ待ってる、5分ね」

 洗面所に走る彼女を見送ってから明日会う女にメールを打つ。
 と違って美人でグラマーで料理も上手くて女らしい子。ついでに言えば異常な嗜好も前科もない。
 だけどそんな女たちは大抵右ならえですぐに飽きる。俺は自分を正常だと思うほど図々しくもないし、だからと言って悲観するほど真っ当にも生きてない。
 気配が忍び足で戻って来るのを感じつつ、面白いので放置した。痺れを切らせた彼女が顔を出す。

「シャルのバカ、また女にメールしてるでしょ」
「いいの?5分経つよ」
「シャルみたいな女たらし殺してやるんだから!」
「ムリだって、懲りないなあ」

 俺がさっき放り投げたナイフを拾い上げ、は口にハブラシを咥えたまま突進してくる。
 動きに無駄がないのはさすがだ。だてに13人殺ってない。だけど所詮は素人の動き、難なく避けてサバイバルナイフを奪い取った。

「はい仕度して、特別に10分待ってあげるから」
「うっ、う……」
「あっズルイ!泣くのはなしでしょ」

 彼女の涙はある意味ナイフよりも凶器だ。ほんのちょっとだけ殺されてあげてもいいかな、なんて気分になる。
 せいぜい14番目の男にならないようにしないとな。先人たちが鼻で笑っている気がした。



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