ユートピア



 お世辞にも器量良しとは言えない七つ年上のその女は、夜明け前によく同じ話を繰り返した。

「あたしらみたいな売女がパイオリ地区の高級コンドミニアムに住む方法は一つだけ、力のある男をつかまえることよ」

 女はけらけらと笑いながらマニキュアの剥がれた人差し指を立てる。
 青紫色に変色した目尻の殴打痕が痛々しいが、彼女は不思議と悲壮感も憐憫さも感じさせないタイプだった。

「わかったわ、わかったからもう寝かせて」
「ダメよ、、よくお聞き。あたしの話はそこらの牧師の説経よりも価値があるのよ」
「明日早いんだって……寝坊したら殴られるから」
「何事もはじまりが肝心なのよバンビーナ、この世界じゃあ最初の客がミソッカスなら最後の客もミソッカスよ。あんたはべっぴんだしオツムも悪くない」
「だったら私の初めては幹部のカンデローロさんに捧げるわ。もういいでしょ」

 肌かけ布団を肩まで引っ張り上げ、これ以上会話を続ける気はないとばかりに背を向ける。
 幹部のカンデローロに捧げる?まだ店にも立てない下働きのガキが?と自分でも呆れた。
 カンデローロはあのパッショーネの幹部で私が身を置く娼館でも一番の売れっ子トレーシーの上客だ。トレーシーは意地悪でいけ好かない女だけど顔だけ見ればハリウッド映画に出ても見劣りしないほどの美女だ。

「いいじゃない、いいじゃないよ。トレーシーから奪ってみせな。あんたにならきっとできるわ」

 今となってはもう名前さえ思い出せないその女は、迷惑なことに夜が明けるまで枕元で喋り続けた。けれどその日が最後だった。女は三日後に全身を切り刻まれた惨殺死体で発見された。
 店ではなくプラーティ・フィスカーリの外れの安宿で発見されたあたり、ケチな小遣い稼ぎがアダとなったようだ。




「おや、じゃないか。元気だったかい」

 耳に届いた声ではっとした。
 その瞬間周囲の喧騒が戻ってくる。声の主を探して振り返ると、テントの陳列棚の奥から懐かしい顔がのぞいた。

「うちの野菜はメルカートいちさ。ほら、一個食いな」

 くしゃっとしわを濃くして笑う老婆は房から赤々としたトマトを一つ引きちぎると投げて寄越した。やや小ぶりな、けれど弾力と艶のある瑞々しいトマトだった。一口かじると糖度の高い果肉が口の中で広がる。

「美味しい」
「そうだろ?それよりいいのかい、一人歩きなんて」

 私の肩ほどの背丈の老婆は身を寄せてくると、声をひそめてささやいた。私も同じ程度の音量で耳打ちする。

「たまにはね。あのビルの中じゃあ息も出来ないもの」
「めったなことを言うもんじゃあないよ、
「わかってる、もう一つ頂戴」

 私がトマトを指さすと、老婆はよく吟味して、やや大きめなものを引きちぎってくれた。
 彼女は私がこの地にやって来た10歳の頃からすでに生き字引のように露店を構えている。まだ店の下働きの小汚いガキだった私にも今日と同じ親しみを向けてくれた。

 料金を支払い、雑談を続けていると遮るような声がした。

「おい、勝手に歩き回ってどういうつもりだ」

 ああ、もう見つかっちゃったか、と忌々しい思いで振り返る。
 背後に立つのは一見そうとはわからない、けれど明らかにカタギではない威圧感のある二人の男。彼らはギャングだ。

「私にはお散歩する権利もないの?」
「幹部が部屋でお待ちだ」
「悪いけど、メイクにあと30分はかかるわ。良い男は女を待つ時間だって楽しめるものでしょう?」
「……調子に乗りやがって」

”この世界じゃあ最初の客がミソッカスなら最後の客もミソッカスよ”

 あの脅し文句は凄惨な死を目の当たりにして現実味を増した。店に立つまでの数年間で私はストイックに自分を磨き上げ、上品な所作や巧みな話術を覚え、結果カンデローロを落とした。ちょうどトレーシーがお肌の曲がり角だったのも功を奏した。
 しかもトレーシーのような娼婦としてではない。カンデローロは後ろ暗い噂は絶えないがこのローマで最大権力を持つと言っても過言ではない男で、私をすえた臭いの充満する魔窟から救い出してくれた。もちろん本妻じゃなくただの愛人だ。だけどそれで良かった。こっちだってあの男を愛してはいないのだから。

「きっかり30分だぞ」
「あの人はオンナを甘やかしすぎる。いつか身を滅ぼすぜ」
「オイやめとけ、幹部の耳に入ったらただじゃあ済まねえぞ」

 溜まった不満を吐露する仲間をもう一人がいさめ、男たちが立ち去る。私は逆方向に足を進めた。
 鮮やかな色のテントが所狭しと軒を連ねるメルカートには、洋服やバッグ、靴や雑貨、生鮮食品といったありとあらゆるものが売られている。

 特別見るものもなく、さっき買ったトマトをかじりながらメルカートを通り過ぎ、テヴェレ川沿いを歩いた。
 進行方向にはカンデローロが所有するオフィスビルがある。一階に外資系の証券会社がテナントで入った近代的な建物だ。
 自由に歩いているようで結局そこに向かっているし、きっかり30分で戻れるよう頭で計算している。あの男に対する無意識の怯えが自分の行動を制限しているのだ。

 ぽつ、と冷たい滴が頬にあたった。
 厚い雲に覆われた空から雨粒が落ちて来て、あっという間に本降りになる。慌てて街路樹の下に隠れるものの、一向に降りやまない空を眺めるのにも段々飽きてきて、ほとんど衝動的に一歩を踏み出した。

 目も開けていられないほどの強い雨を全身に浴び、あっという間にびしょ濡れになる。煩いくらいの雨音が全ての音を飲み込んで逆に妙な静けさがあった。
 雨の勢いは全てを押し流すほど凄まじく、こうしていればいつか私もどこかに流されていけるんじゃないかと思えた。だけどものの数分で雨は勢いを落とし、やがて見事な虹がかかった。

 アスファルトの歩道にいくつもの水たまりを作り、どこか懐かしさを感じさせる匂いがした。それは一瞬の逃避で、雨はもう上がってしまった。
 私は絶望的な気持ちで歩き出す。ぼんやり歩いていたせいで靴が泥水に絡まって前のめりに倒れた。とっさに膝をつき、スカートが泥だらけになった。

「そこのベッラ、大丈夫か?」

 視界に入ったのは、よく磨かれた革靴と差し出されたハンカチだ。
 顔を上げるとヘリンボーン柄のスーツの男がこちらを見下ろしていた。カンデローロの手下だろうかと一瞬警戒したのは、男の雰囲気がどう見てもカタギではなかったからだ。だけどどうやら面識はない。男は一度見たら決して忘れないだろう美しい顔立ちをしていた。

「使えよ、遠慮はいらねえ」
「結構よ。そのハンカチはあなたが自分のために使ったらいいわ」
「ハッ、可愛げのねェ女だな」

 言葉のわりに男は楽し気に笑った。
 濡れた服が肌にまとわりついていて不快だ。私は立ち上がると再び歩き出した。パンプスの中でストッキングのつま先が泳ぐ。

「なァバンビーナ、パンツのラインが丸見えだぜ?」

 振り返ると、男は口角を上げてにやりと笑った。
 自分に絶対的な自信があって、常にイニシアティブを取ることに慣れているような余裕さがあった。七つ上のあの女も私のことをよくバンビーナと呼んだ。この男とは似ても似つかないのに不思議と面影が重なる。

「……そう思うなら、上着くらい貸してよ」
「ハンカチは断るくせに上着は借りんのか」
「じゃあいらないわ」

 男はクックッと喉の奥で笑うと、ばさりと上着を脱ぐ。
 嘘でしょ、と内心驚きを隠せずにいると、取るに足らないことだとでも言いたげな態度で広げた上着を私の肩にかけた。

「いいの?濡れちゃうわよ。それに返せるかどうかもわからない」
「構わねぇーよ」

 肌蹴たシャツの胸ポケットから覗く黒と白のパッケージに目がいって、なぜかどきりとした。あれはカンデローロも愛煙している銘柄だ。
 男の全身からはにじみ出るような色気があって、とても同じシガレッタだとは思えなかった。

「あなた、この街の人?……じゃあないわよね」
「観光客にでも見えるか」
「まさか」
「オメーは、ここが好きじゃあねえってツラだな」
「嫌いよ、こんな街。でも結局どこだって同じよ。ユートピアなんてないんだから」
「違いねーな」

 顔を上げると鋭い瞳とかちあう。男の瞳は深みのあるブルーアイで、じっと見つめられると逸らせなくなるような強い吸引力があった。

「あなた、何者なの……?カンデローロの関係者なの?」

その名が出たとたん、男は眉間に刻んだしわを更に深めた。

「やっぱりそうか。どっかで見たツラだと思ったが……オメー、あの野郎の情婦か」
「知っているのなら、気安く声なんてかけないで」

 上着を脱いで男に突き返した。
 どっちみち、こんなものを羽織って戻れば即捨てられるだろうし、この男もただでは済まない。

 産み落とされた瞬間から搾取され続けて生きてきた。
 売春婦なんて最下層の人種だ。客の機嫌で殴られて、言われればなんだってやって、そんな女たちからすれば私はまるでチェネレントラ(シンデレラ)だ。
 カンデローロは私に分不相応の環境を与え、沢山の贈り物を寄越し、執着と言う名の愛情を押し付けてきた。
 あの男は確かに私に甘いけれど、少しの変化も見逃さない鋭さがあって、数少ない友人からも遠ざけられたし、逃げ出すことも許されない。あの男以外からの安らぎはそれがほんの些細なものでも徹底的に排除された。

「ほら、受け取って。あなたも命が惜しいなら」

 男は黙っていた。川向うにはサンタンジェロ城が見える。手前にかかる橋を身なりの良い人々が行き交っている。川の袂の遊歩道では先ほどの雨など物ともせずジョギングする姿があった。
 私はあっち側の人間にはなれない。気がつくと男をきつく睨みつけていた。

「バンビーナだなんて言って悪かったな」
「……え?」
「その目で誘われりゃあ男は一発で落ちる。失礼なことを言ったな」

 男はそう言うと上着に手を伸ばした。が、そうではなく、まわった腕が私の腰を抱いた。そのまま強く抱き寄せられる。
 男は見た目以上に体格が良く、先ほど感じた色気はどんなものでも着こなせてしまう体格の良さにあったのだと気づいた。

「あなた、正気なの……?殺されるわよ」
「その心配はねえな。ヤツはもうこの世にはいねえし、オメーはとっくに自由の身だ」
「……何言ってるの?」
「なァ、名前はなんて言うんだ。オレはプロシュートだ」

 にわかには信じられない話なのに、この男の直截的な物言いがそれを事実だと思わせる。彼の声には気まぐれさとか気取りだとかは微塵もなく、ただ事実をありのままに伝えるシンプルさと、それからぞっとするような非情な目をしていた。

、よ」
、か。良い名だ」
「ありがとう……」
「オレと来いよ。ユートピアなんてイイモンじゃあねえが、一緒にいてやるぜ」

 私はちょっと笑ってしまった。本当にすごい自信だ。
 プロシュートは気を悪くしたふうもなく、上着を再び私の肩にかけると手を取って歩き出した。新しい服買わねえとな、とつぶやきながら。




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