忘れられない人



 3月は雨の季節だ。きちがいの季節とも呼ばれ、空模様が目まぐるしく変わる。
 通り雨に打たれ、たまたま飛び込んだ軒下で彼と出会った。

 彼はちょっと着崩した(だけど上質そうな)スーツを着ていて、降りたシャッターにもたれ、紫煙を燻らせていた。彼の外見がとても美しいと気づいたのはもう少し後で、まずその目つきの鋭さにたじろいだ。

「びしょ濡れだなァ、シニョリーナ」

 目が合った彼の瞳は透き通ったブルーアイで、形の良い口元の片側をちょっとだけ上げる。

「あなたもびしょ濡れだけど」

 私が言うと、彼は視線を濡れた街並みに戻して肩をすくめた。

「ったくまいっちまうよなァ、これからオンナと会うってのにこのザマだ。戻って着替えなくっちゃあならねえ」
「私も、これからデートなのに」
「へえ、あんたもか」
「約束の時間まであと20分しかないの」
「気にするこたァねえ。この国の人間は時間なんざ守らねえし、あんたみてえなベッラなら男はいくらでも待ってるぜ」

 私が黙っていると、彼は断定的な口調で言った。

「ジャッポネーゼだろ?イタリア語上手いな」
「こっちに住んで長いから」

 その風貌や佇まいから、彼はギャングだろうと思った。口調もどちらかと言えば粗暴で、本来であれば関わりたくない相手だ。
 だけど彼の声にはなぜか不思議な心地よさがって、耳にすんなり入ってきた。

 スカートからしたたる滴が石敷きの地面を濡らす。
 叩きつけるような雨脚が弱まった頃、彼が言った。

「オレの家来るか?着替えくらいなら貸してやるぜ」

 往来に目を向けたまま、カフェテリアにでも誘うような調子で。
 咥えたタバコの先がかすかに赤く光る。彼は長い指に持ち替えてもう一度吸うと、足元に投げてレザーの靴先で消した。

 部屋に招き入れたあと、彼は肌触りの良いタオルを貸してくれた。
 私は自分の取った行動に少なからず驚いていて、手渡されたタオルをじっと見つめていた。

「使えよ、ヤベェ菌とかついてねーからよ」
「なにそれ」
「そんな顔してただろ」

 思わず笑うと彼も軽く笑った。
 濡れたパンプスを脱いで、バスルームで着替え、濡れた服は浴室に干す。借りたパーカーとスウェットパンツは袖と裾を何回も折ることになった。

 リビングに戻るとカッフェの香りがした。彼は淹れたてのエスプレッソをまるで親しい友人にでもするような気安さで手渡してくる。
 緑のタイルのキッチンはよく片付いていて、家具は必要最低限しかなく、座り心地の良いソファと開放的な窓があった。
 私が窓辺に立ってカッフェを飲んでいると、彼が言った。

「なんで着いてきたんだよ」

 彼はダイニングのチェアに腰かけて、足を組み、手にしたカップを傾けた。

「なんでって、あなたが来いって言ったから」
「警戒すんだろ、フツウはよォ」

 探るような眼差しを向けられる。本心を口にするのはためらわれた。
 雨はもう止んでいて、窓の向こうには晴れ間がのぞいている。

 彼が無言で立ち上がり、歩み寄って来る。私の手からカップを奪い取ってそれを出窓に置いた。それから手首をつかまれる。強い力で、拘束に近い。
 私はそこでようやく彼を直視した。息が止まるほど美しい人だと思った。

「ジャッポネーゼは身持ちが固ぇって聞いたがよォ、違うのか?」

 言って、顔を寄せてくる。唇が触れそうな距離だった。

「あのね」
「あ?」
「頭のおかしい女だって思わないでね」

 彼はうろんそうに目を細めた。

「あなたを見たときね、忘れられない人になるような気がしたの」

 長い長い沈黙があった。
 彼は引き結んでいた口元をゆるめ、「すげェ殺し文句だな」と笑う。

 軽く唇が触れた。挨拶のような軽いキスで、意外なことに、彼はその日それ以上のことはしなかった。
 服が乾くまでの間、私たちはソファに並んで座り、色んなことを喋った。

 彼はプロシュートと名乗った。ファミリーネームは教えてもらえなかったし、核心に触れる話題はなかった。ただ、好きな食べ物やよく立ち寄る場所、好きな映画や音楽、意外に本を読むこと、それと価値観や考え方がわりと近いことを知った。
 人と長く会話をするのは疲れる。だけど彼とはいくらでも喋っていられた。


 二人でお気に入りのバルを見つけた。ソレンティーナ半島を車を飛ばしてドライブをした。夕暮れのサンタ・ルチア港を腕を組んで歩いた。毛布にくるまって再放送の映画を観た。お揃いのカップを買った。夏には長めのヴァカンスにも出かけた。それでも私は彼の素性を知らなかったし、血のついたシャツを隠すようにダストボックスに押し込む彼に何も聞けなかった。
 彼の部屋には写真立てがなかった。私たちには一緒に写った写真がない。

 彼と出会って、誰かを深く愛するということは、同じ分だけ傷つく覚悟が必要なのだと知った。


***


 冷たい雨が降る夜だった。
 エレベータのボタンを押す動作さえ億劫だと感じるほどに疲れていた。

 今夜は久方ぶりに胸糞悪い殺しをした。この化け物が、と誰かが叫んだ。悪魔、と罵ったのはまだ年端もいかないガキだった。

 取り出した鍵を鍵穴に差し込んで捻る。ドアノブに手をかけたとき、背後から声がした。

「プロシュート」

 振り返るとが立っていた。手にした傘はすっかり乾いている。どれくらいの時間そこで待っていたんだろうかと考えかけたが、それすら億劫だった。

「どうした。来るなら連絡寄越せっていつも言ってんだろ」
「うん、ごめん」
「冷えてんな」

 触れた指先は温度を失っている。の肩を抱き、部屋へと招き入れた。
 漠然とした予感を感じていたが、思考能力が低下していて考えることが困難だった。

 ヤカンから吹き出す蒸気をぼんやりと眺め、しばらくして火を止める。
 コーヒープレスに粉を入れ、熱湯を注ぎ、プレスのつまみを引き上げた状態で蓋をする。
 ここから二分待つ。
 この時間は厳守で、オレとしては多少薄めだが好みの濃さになる。
 その間、雨で湿った上着を脱ぎ、解いたスカーフをチェアに放り投げた。

 はソファに姿勢よく掛けて、膝の上で拳を握っている。リラックスしているとは言い難く、思い詰めた横顔だった。

「言いてぇことがあんだろ、

 声をかけるとの肩が揺れた。彼女は一度瞬きをして、表情のない顔を向ける。

「うん。あのね……プロシュート、別れたいの」
「他に男ができたのか?」
「………」
「否定はしねえのか」

 いつからか、は笑わなくなった。香水の趣味が変わった。見覚えのないジュエリーも増えた。
 空のままの二組のカップに目を落とす。どこかの露店でと買ったもので、細かな模様が入ったデザインだ。
 眩しい午後で、もっとシンプルなデザインを勧めるオレに、はこれが良いのだと言い張った。帰り道は強い風が吹いていて、がオレの腕にしがみついてきた。

 止められない喪失感に戸惑った。オレは今、何よりも大切な存在を永遠に失おうとしている。

「一人で帰れるか」

 返事はなかった。うつむいたままのの傍に行き、傍らに置いたままのショルダーバッグに手をかける。
 それをに差し出すと、彼女は黙って受け取った。それからゆっくりと立ち上がる。

「……聞かないの?どうして、心変わりしたんだって」
「聞いてどうなる。それで決意が変わったりすんのか?」

 は目尻に手をやって、泣き出しそうな顔で笑った。口元が何かを言いかけて動くが、小さく震えたあとに閉じられた。その感触を覚えている。この世で最も愛おしい柔らかさだ。

 初めて出会った日のは、怯えたような目でオレを見た。そのくせすんなりと着いてきて、イタリア男も顔負けの口説き文句でオレを笑わせた。
 アジア人特有の黒目と黒髪が美しく、綺麗なものだけを集めてつくったような女だ。
 住む世界が違い過ぎることはわかっていた。いつかこんな日が来ることも知っていた。
 今のオレにできる唯一のことは、立ち去るを引き留めないことだ。

 交わっていた視線が逸れ、が目を伏せる。身を翻して歩き出す。ぎり、と奥歯を噛んだ。

 の新しい男を思い浮かべた。
 これからそいつに会いに行くんだろうか。
 誰かが気安くに触れているのかと思うと怒りで震えた。胸元に手をやって、シャツをぐっとつかむ。掻きむしりたい衝動に耐えた。

 ダイニングテーブルの手前でが立ち止まり、つぶやくような声で言う。

「……プロシュート、私のこと愛してた?」

 その瞬間、何かが弾けた。の前まで詰め寄ると、腕をつかんで向きを変え、の上半身をテーブルに押し付ける。

「愛してたぜェ、心からな。けどオメーは他の男を選んだ。なァ、もうそいつに抱かれたんだろ」

 が何かを喋っているが、耳に入ってこなかった。尻を突き出すような体勢にさせ、スカートを捲り上げて下着をずらす。
 やめて、とが叫んだ。ひ弱な女のどこにこんな力が、と思うような抵抗を見せるが、力の差でねじ伏せた。

「なあ、どんなふうに抱かれた?言ってみろよ、え?いつもみてえによがったのかよ」
「いや、やめてよ」
「行かせねえよ……他の野郎のところなんかよォ」

 ベルトのバックルに手をかけるオレを見て、の顔が青ざめる。

「待って、いやっ」
「逃がさねえ、オメーはよォー、オレのッ、モンなんだよッ」
「痛いっ、やめて、プロシュート」
「あ?すぐに良くなんだろ」

 あなたを見たときね、忘れられない人になるような気がしたの

 そう言ってはにかんだの顔が脳裏にちらついた。


***


 私には勇気がなかった。どれだけ傷ついてもいいから彼の傍にいるという覚悟がなかった。

 逃がさない、と言ったくせに彼は姿を消した。
 アパートは引き払われ、彼の痕跡はどこにも見つけられなかった。

 彼はギャングで、おそらく人を殺していた。彼にまとわりつく死臭は濃く、私には取り払ってあげることができなかった。完全にそっち側にいく勇気もなく、曖昧なままで彼と過ごした。曖昧なまま一緒に居続けることなんてできないのに。

 春が来て、夏が来て、寒さに震える冬が来て、また雨の季節がやってきた。
 イタリアの3月は雨の季節で、傘なんて意味をなさないような豪雨になる。そのくせすぐに止んで、虹がかかる。その繰り返しだ。

 誰かが駆け足で通り過ぎる。突然降り出した空を見上げ、屋根のある場所へと急ぐ。こんなとき、今も胸に焼き付いたあのシーンを思い出す。

 ちょっと気崩したスーツを着てスマートに立ち、鋭い眼光でタバコを吸う彼の姿を。

 びしょ濡れだなァ、シニョリーナ

 あのとき感じた予感通り、彼は忘れられない人になった。
 濡れたパンプスに目を落とし、雨音に耳を傾ける。吹く風は徐々に暖かくなっていて、もうすぐ春がやってくる。
 今ならもっとうまくやれるのに。彼を失う以上に怖いことなんて何もなかった。仕事も、友人も、平穏な生活も、愛している家族も、ぜんぶ捨てていい。ぜんぶ捨ててもいいから傍にいたいのに。


 小さな楽器屋の軒下で雨宿りをしていた。そこは出張で訪れた地で、土地勘のない場所だった。
 なかなか降りやまない雨にため息をついていると、男が一人飛び込んできた。
 ブロンドの髪を後頭部で結って、大ぶりなヘリンボーン柄のスーツを着ている。

「こう雨ばっかりじゃあまいっちまうなァ」

 その横顔を身動きもせずに見入っていた。私が凝視したせいなのか、彼は濡れた前髪を撫でつけていた手を止めて、怪訝そうな目を向ける。その瞳が大きく見開かれた。

 私たちはしばらくの間、言葉もなく見詰め合っていた。



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