私だけのヒーロー
ブローノ・ブチャラティは個室のドアを後ろ手に閉めると「驚いたな」とつぶやいた。
その声に反応したアバッキオとフーゴが戸口の方へと目を向ける。
正午過ぎのリストランテ、奥まった位置にある彼ら専用の個室は静かだった。
「どうしたんです、ブチャラティ」
口に運びかけたカップをテーブルに戻し、フーゴが問いかける。
ブチャラティはどこか釈然としない面持ちで歩み寄って来た。
「いやな、今その先の通りでな」
彼は一度窓外に目をやって、空いている椅子を引く。仲間と同じテーブルにつくと言葉を続けた。
「ナランチャがいたんだ」
「はあ、それがどうしました」
「見かけない娘に呼び止められててな、おそらくアレは愛の告白なんじゃあないか」
彼が言い終わる前に仲間二人の顔色が変わる。
フーゴは身を乗り出して目を丸くしているし、アバッキオに至っては読みかけの新聞を破りそうな勢いだった。
「……聞き間違いじゃあねえのか」
「いや、アレはマジに愛の告白だったぜ」
「どういう状況だったんです?道を聞かれたとかそんなんじゃあないんですか」
ギャング三人が顔を突き合わせ、ああでもないこうでもないと不毛な議論を交わしているまさにその瞬間、当のナランチャ・ギルガは口を半開きにして首を傾げていた。
―遡ること十数分前
「で、ですから……あの、いきなり食事がダメなら、お茶でも、なんでもいいんです」
「だからよォー、なんでオレが喋ったこともねーアンタと食事とかお茶とかしなくっちゃあいけねーんだ?」
「だから、あの……それは」
「あ?そっか、今喋ってるからもう喋ったことねえってのは違うな。で、何だっけ?」
今二人が向かい合っているのは賑やかな目抜き通りで、こんな場所で声をかけたことをは猛烈に後悔していたが、つい、衝動的にかけてしまったのだから仕方ない。今日声をかけなければもう一生かけられなかったかもしれない。
彼女は必死だった。
「あの、食事とかお茶がムリなら、ちょっとお話するだけでも」
「話?なんの話?わりーけどさあー、オレもう行かなくっちゃあいけないんだよ。仕事があるからよォー」
「え、ちょっと待って」
立ち去ろうとする背中をはどうにかして引き止めたかった。これが最初で最後のチャンスかもしれない。
「ナランチャさん、待ってくださいっ、あの、実は私」
そこまで言ったところでナランチャの肩越しにオカッパの男と目が合った。
ブローノ・ブチャラティだ。彼は街の有名人で、面識はないがも彼のことは知っていた。
ブチャラティはを食い入るように見ていたが、はっと視線を逸らし、歩き出したかと思うとまた立ち止まり、気遣わし気な顔を向ける。
「……まだ何かあんのかよ、言いてえことがあんならハッキリ言ってくれよォー」
その声で意識をナランチャに戻す。は慌てて言った。
「はい、あの、実は私以前」
「あッ、そうか、なんか悩みがあんだなッ?」
ナランチャがびしっと指を差し、したり顔で言う。
「えぇ?悩み?」
が素っ頓狂な声を出した。
一瞬視線を逸らした隙にブチャラティの姿は消えている。
「なんか困ってんだろッ、何かあんならオレよかブチャラティに言った方がいいぜッ、スッゲー頼りになる人だからよォー」
「違います!いや、悩みと言えばそうなりますけど、でも違うんです」
「え、違うの?何かよくわかんねーなァ、ま、元気出せよ!」
「だから違うんですってば!私はあなたのことが好きなんですッ!」
口に出した瞬間我に返り、は両手で口元を覆った。
通りがかった通行人が口笛を吹き、ダストボックスの前でゴミの収集をしていた作業員たちも親指を立てる。背中の曲がった老婦人はにこっとウィンクした。
なんてことだ。
こんな大切なことを、勢い余って公衆の面前で言ってしまうなんて。
向かい合うナランチャは、沈黙したまま微動だにしない。
は恥ずかしさで泣きそうになりながら、恐る恐る顔を上げた。そして、ちょっと驚いて動きを止める。
先ほどまで寝すぎた朝のようなぼんやりとした様子だったナランチャが、大きな瞳を忙しなく動かし、何かを言いたげに彼女を見ていた。
「おまえ、オレのこと好きなの?」
彼は意を決したように言う。
は耳まで赤くしてうなずいたが、少年の顔は疑わし気に歪んだ。
「なんで?」
「え?」
「つーかさあ、知ってんの?オレ「ギャング」なんだぜ」
「……知ってます」
「怖くねーのかよ」
「怖くなんかありません」
きっぱりと言い切るを見て、彼の表情は益々困惑する。
大好きな人を困らせている、と気づいたは居たたまれない気持ちになった。
「突然すみませんでした。気持ちを伝えられて、それだけで嬉しいです」
「あッオイ、ちょっと待てって」
さっと会釈して立ち去ろうとするの腕をナランチャがつかむ。
その手はすぐに離れ、彼は深く息を吸い込んだ。
「どうすりゃいいの?付き合ったりすんの?」
「え……?」
「オレ、オンナと付き合ったこととかねえし、何すりゃあいいのかよくわからねーけど、それでもいいなら」
「いいです、もちろんいいですっ」
が食い気味に即答する。つかみかかる勢いで前に出るを唖然と見返していたナランチャだが、ぶはっと笑った。
「おまえ、へんなヤツだなァーッ」
目線は彼女より数センチ高く、まだあどけない、だけど凛々しい顔立ちがそこにある。彼のくっきりとした瞳の虹彩が光を集めて揺れていた。
ずっとずっとずっと眺めるだけだった彼が今目の前にいて、自分を見てくれている。
その事実に改めて気づいたは顔が燃えるように熱くなって、抑えきれない感情があふれ出しそうになった。呼吸を整えるために息を吸って、彼女は言う。声が少し震えた。
「、です。私の名前、・です」
笑いを収めたナランチャが、今度は少し真剣みを帯びた顔で言う。
「な。オレはナランチャ・ギルガ。よろしくなッ」
***
「やっぱピッツァはコレだよなァー、もそう思わねェ?」
言って、ナランチャはボルチーニ茸の乗ったピッツァを大口開けて頬張る。
は曖昧な笑みを返した。とにかく居心地が悪くて仕方ない。
「あの、ナランチャさん」
「なに?便所?」
「いえ、そうじゃあなくて、私そろそろ」
「ちゃんぜんぜん食ってねえじゃあねーの」
彼女は腰を浮かせかけたが、対面に座る帽子の男が声をかけてきた。
彼の名はグイード・ミスタ、ナランチャの仲間だ。
「無理に勧めるもんじゃあない、食欲がない日もあるだろう」
と言ったのはブローノ・ブチャラティで、同じテーブルについて足を組み、上品に紅茶を飲んでいる。
他にも渋面で音楽を聴いているアバッキオや、わりと不躾な視線を向けてくるフーゴ、ここは彼らチームがたまり場とするリストランテだった。
「ナランチャよォー、おまえいつ彼女なんて出来たんだよッ、ヤるじゃあねーかッ」
「いつって、えーっと、今日で一週間くらいかな」
ナランチャが言って、に同意を求める。彼女はこくこくとうなずいた。
想いを告げた日から一週間が過ぎていた。
まずは食事に行こうという話になって、連れられた先がここ、リストランテ・リベッチオだった。ここのピッツァうめえから、というのがナランチャの主張だったが、人目に晒された状態では喋ることも喋れず、はナランチャとまだほとんど会話らしい会話をしていなかった。
出された食事を残す訳にはいかず、は皿の料理を完食して席を立った。
「じゃあ、私はそろそろ失礼します。お邪魔しました」
会釈してから個室を出る。ナランチャが笑顔で「またなァ」と手を振っていた。
受付の店主にも挨拶をして(お代は受け取ってくれなかった)店を出ると、ほんのり海風の匂いがして、夕暮れが迫っていた。
剥がれたポスターや落書きなど、あまり綺麗とは言えない古い街並みを歩いていると、背中から声がする。
「ーッ!」
見ると、ナランチャが息を切らせて駆け寄って来ていた。
「ナランチャさん、どうしたんですか?」
「ブチャラティが送って行けって言うからよォー」
追いつき、立ち止まったナランチャが暮れかけた空を見上げる。
の自宅は彼らのアジトからわりと近い場所にある。日が完全に暮れるまでには充分帰りつける距離で、土地勘もある。送ってもらう必要はないのだが、もちろんそんなことは言わない。は嬉しくて飛び上がりそうだった。
狭い路地の両脇に違法駐車の車列が伸び、その間を車がぎりぎりで行き交っている。クラクションがひっきりなしに鳴っているが、そんなことはどうでもよかった。
「ん家ってよォー、けっこう危ない場所にあんだなァ」
「はい、でも小っちゃい頃から住んでるから」
「なんか困ったことがあったら言えよ」
「はい!」
違法駐車の路地を抜け、更に入り組んだ通りへと入る。隣を歩くナランチャの手がぶつかって、は慌てて距離を取った。
初めてのデート(と呼べるのか)はこうして終わった。
その後、チームでの任務が立て込んだナランチャはなかなかに連絡ができず、二人が再び会ったのは数週間後だった。
学生の彼女が自由になる時間は基本的に放課後から門限までで、その時間帯に働いているナランチャとはなかなか合わず、今日ようやく再会できた。
「今日はけっこうヒマでさー、ブチャラティがもう上がっていいって言ってくれたんだ」
会うなりナランチャは嬉しそうに言った。
彼は上司であるブローノ・ブチャラティを心から尊敬している。
実際には、気をきかせたのはブチャラティではなく、彼にそれとなく進言したアバッキオなのだが、その事実を彼は知らない。
「で、どうする?もうメシ食った?リベッチオ行く?」
「えっと……良かったら、他のお店に」
「あ、そう?いいぜ、どこ行くかなァ~」
二人は少し歩いた先にある、の自宅からもわりと近い老舗のバルに入った。
そこはナランチャがみかじめ料の徴収を担当する店で、の同級生の両親が経営している店でもある。
カウンターがメインの狭い店内だが、店主の計らいで奥まったテーブル席に案内され、二人はあまり人目につかない半個室のような席でひと息ついた。
特別盛り上がるわけでもないが、途切れることもなく会話は続いた。
二人は年が近く、本来であればナランチャも学校に通う年齢だが、様々な事情があってギャングをやっている。学校生活には興味があるようで、ナランチャはに色々な質問をした。
「へえー、夏休みって三か月もあんのかァ、その間何やってんの?」
「けっこう課題が出るし、大学に進学する子は課外活動とかもあってわりと忙しいんです」
「は?大学とか行くの?」
「うーんと、それはまだ悩んでて」
「そっかあ」
どうしてギャングをやっているの、という質問が口から出かかったが、は押しとどめた。それを聞くのはまだ尚早な気がした。いつか、彼の方から話してくれたらいいな、と。
「ガッコにさあ」
ナランチャが言う。注文した料理はあらかた食べ終わり、食後のエスプレッソが届いたところだった。
「男もいんだろ」
「え?男子?普通にいますよ」
「その中で、イイやつとかいねーの?」
彼は目力のある瞳でを見つめる。は店主がサービスで出してくれたチョコレートに伸びかけた手を戻した。
「いいやつって……」
「だからよォ、わざわざオレみてえな「ギャング」より、もっとに合いそうな」
「いません」
は言って、唇を引き結んだ。ナランチャの言わんとすることを察して哀しくなった。彼女はうつむいたまま、目をしばたかせる。
「やっぱり……迷惑でしたか?」
ナランチャはしまった、という顔をしたがうつむくには見えなかった。
カウンターからは賑やかな声が漏れている。時々ナランチャに気づいた大人たちが声をかけてくる。彼は幼く見えてもこの辺り一帯を仕切るギャングの一員で、親の庇護のもと学校に通うとは違い、一人で立派に生計を立てている。
「帰りましょうか」
言って、が立ち上がる。は支払いを申し出たが、ナランチャが頑なに断り、さらには店主も首を振ったので、結局支払いは棚上げとなった。
「ブチャラティさんには世話になっているんです。受け取っちゃあ顔向けできない。ちゃんもまたおいで」
店主や馴染み客に見送られ、二人は店を出た。
すっかり日の落ちた路地に切れかけの街灯がぽつぽつとにじむ。スペイン地区ほど治安は悪くないが、女性の一人歩きには危険な暗さだった。
今日ナランチャに会ったとき、素敵な予感に胸が高鳴った。それが今、膨らんだ期待は空気の抜けた風船のようにしぼんでしまった。
ゴミが散乱する薄汚い路地の先にパステルカラーの集合住宅が建ち並んでいる。その一角にの自宅がある。特別治安が悪いエリアという訳ではなく、観光客が訪れるような通りだけが小ぎれいなだけで、路地裏はだいたいこんなものだった。
「送ってもらってすみません。それと、今日はありがとうございました」
「え?いーっていーって」
もう少し話したい、もう少し一緒にいたい。
言葉にできない感情がの表情にありありと浮かぶ。それでも口には出せなかった。もっと他にいいやつがいないのか、と彼は言った。それは実質フラれたも同然だった。
街路灯がナランチャの丸い頬の輪郭を照らしている。
名残惜しさを感じつつも、アパルトメントの前で別れを告げるとは歩き出した。そのとき、二人の間を一台のスクーターが走り抜けた。
それは一瞬のことで、のショルダーバッグが消えていることに先に気づいたのはナランチャだった。
「てめぇッ!」
次の瞬間、耳を劈くような衝撃音と共にスクーターが横転した。
タイヤがパンクしたらしく、投げ出された男が半身を殴打してうなっている。そこまで駆け寄ったナランチャが男のわき腹を足蹴にした。
「この野郎ッ、よくものバッグをスッたなッ!覚悟はできてんだろーなあァーオラァッ!!」
叫びながら、がつがつと何度も蹴りつけるナランチャをが慌てて止める。
「ナランチャさん、やめてッ」
少しの間があった。
ナランチャは妙な、今のこの場にはそぐわない顔をした。
何かを考えるような、思い出すような仕草をしたあとに、あっと口を開く。
「、おまえあんときの娘かッ」
驚きの目を向けられ、は立ち尽くしたまま、こくっとうなずいた。
男のごつごつとした手が口をふさぎ、息苦しさにの意識は朦朧とした。
レイプなんてわりと日常茶飯事なこの街でも、まさか自分がそのターゲットになるとは思ってもみなかった。
あっと言う間に暗がりに連れ込まれ、気がついたら上に男がかぶさっていた。
生まれ育った町だから、まだ夕暮れだから、そんな少しの油断が招いた結果だった。
耳を塞ぎたくなるような下劣な会話。突きつけられたナイフ。抵抗する気力を削ぐためか、最初に何発か殴られた。口内に広がる血の味と、全身を這う男の手。
助けは来ない。奇跡は起こらない。が絶望しかけたそのとき、声がした。
死肉に群がるハイエナのようだった男たちが一人、また一人と引き剥がされ、吹っ飛ぶ。
その声は、大人の男というよりはまだ少年に近かった。
「テメエらみてえな腐ったヤツらをよォー、ブチャラティはぜってェ許さねえんだッ!!」
自分とさほど変わらない年齢の少年がたった一人で、彼よりもはるかに上背のある男たちをなぎ倒し、蹴り上げ、ねじふせる。
男の一人が銃を取り出したが、なぜか発砲する前にその銃ははじけ飛んだ。男は腕から血を流し、のたうち回っている。完全に戦意喪失した相手に対し少年は尚も蹴りつけ、血と体液を飛び散らせた。
「もうやめてッ、その人死んじゃう!」
殺してしまったら彼が犯罪者になってしまう、は必死に叫んだ。
騒ぎを聞きつけた住民たちが集まって来て、は保護され、その少年がどうなったのかはわからなかったが、彼が口にした「ブチャラティ」という名はもよく知っていた。
ブローノ・ブチャラティ、この辺り一帯を縄張りとしているギャング。助けてくれた少年が彼の部下で、ナランチャ・ギルガという名前なのだと知るのにそう時間はかからなかった。
「……私のこと、覚えてくれてたんですね」
ぽつりとつぶやくを、ナランチャは瞬きもせずに見つめた。
「いや、今思い出した。叫んでる見て」
窃盗犯の男はナランチャの下で気絶している。彼は足を降ろし、腰を屈めてのショルダーバッグを取り上げた。
「あっヤベ、血ィついちゃってる。ごめん……」
は無言で首を振り、ナランチャの元まで歩いた。
「あのとき、ちゃんとお礼言えなくて……ありがとうございました」
すっかり伝えそびれていたお礼を告げ、硬かったの表情が少しだけゆるんだ。
「私、助けてもらった日から、ナランチャさんのこと見てたんです。誰にでも優しくて、いつも一生懸命で、……すごくカッコ良いなって」
そこまで言って、の頬が赤く染まる。一方、視線をさまよわせ、後頭部をがしがしと掻くナランチャの顔も同じくらいに染まっていた。
彼は目線を落とし、きまり悪そうに言う。
「オレさあ、正直言って、がなんでオレなんかがいいのかって疑問だったんだよ。ミスタもからかわれてんじゃねーかァとか言うしよォ」
「えっ、からかってなんか」
「うん。もうわかった」
ナランチャは腰布でバッグについた血を拭きとると、それをに差し出した。受け取ったの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「へっ、なんで泣くの?あッ、怖かった?もう大丈夫だぜッ」
「ちが」
「?」
「私、ナランチャさんが好き。だから、もっと他にいるとか、そういうの」
「……ごめん」
ぽろぽろと零れ落ちる涙を前に、ナランチャは戸惑っていたが、そっと腕を上げ、ぎこちない手つきで彼女の涙をぬぐう。
「オレ……好きとか、そういうのよくわからなかったんだ。告白されたときもさァ、正直ビックリしたし、なんでオレ?って思った。でも、のこと、スゲー可愛い子だなって思った。それで、今は……もっとと一緒にいてえと思う」
その言葉だけで充分だった。
目尻に触れたナランチャの指先はひやっとして心地よく、もうこれ以上ないほど高鳴っていた心拍数がさらに上がり、息が苦しくなるほどドキドキした。
「たぶん、こういうの好きって言うんだよな」
ナランチャがにかっと笑う。の胸がきゅうっと締め付けられた。
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