暗黒童話
むかしむかしおおきなもりに、きこりのふうふとヘンゼルとグレーテルというふたりのきょうだいがすんでいました。
たべるものがなくなってしまったあるよるのこと。ふうふはこどもたちにわからないように、ひそひそばなしをしていました。
あすのあさこどもたちをもりのおくにつれていこう。
みちなんかないうーんとふかいところにね、こどもたちをおきざりにしちまうのさ。
どこかノスタルジックな気分になりながらはページをめくった。彼女の幼少期は童話を読み聞かせてもらえるような境遇ではなかったけれど、なんとなく内容に覚えがある。それにしてもこの母親のイラストは底意地が悪そうだ、と彼女は思う。
ヘンゼル、グレーテル、なにしてるんだいはやくおし。
よくあさことりのさえずりをききながら、ふたりはもりにつれていかれました。
ヘンゼルはふうふにばれないようにこいしをおとしました。
こいしはよるになればかがやき、いえまでのみちをおしえてくれるはずです。
「あれ」
次のページを捲ろうとして見事に破れてしまった。この先は水濡れがひどく、まるでジレッラ(バウムクーヘン)のようにくっついている。たとえきれいに乾かしたとしても読めるとは思えなかった。
「はい、これ返すよ」
は膝を折り、少女と同じ目線まで下がって絵本を差し出す。少女は受け取る代わりにガラス玉のような瞳で彼女を見返した。ビスクドールみたいに可憐で儚げな少女。
ブロンドの巻き毛や雪のように白い肌、丁寧な縫製のふんわりとしたワンピース、ぺたんと伸びた細い足、それらに飛び散った鮮血は組み合わせの妙でアート作品のようにも見える。
「さて、任務完了ね」
短く息をつき、生きとし生ける者が全て死に絶えた惨状の中、彼女はゆっくりと立ち上がる。むせかえる血臭が少し不快だけれど、それだけだ。人の死が恐ろしく、おぞましく、自責の念に苦しんだ時期はもうとっくに過ぎた。どちらかと言えば今は、自分の在り方の変化の方が恐ろしい。そこで足元に滑る様に流れ込む冷気。
「おい、そっち終わったか?」
が振り返ると蝶番のゆるんだドアを乱暴に押し開けて、ギアッチョが顔を出した。彼はの姿を見るや否や、いつものしかめっ面を更に歪ませる。
「うん。終わった」と、彼女が微笑むのとギアッチョが目尻を痙攣させて怒鳴ったのはほぼ同時だった。
「遊んでんじゃあねえッ、なんだそのカッコは!」
「別に遊んでないよ。でもこれじゃあ帰れないね。ギアッチョの上着貸して」
「貸すかボケ!オレは帰るぜッ」
手の甲で頬をぬぐうと擦れたような赤い筋が伸びる。の全身はまるで霧吹きで吹き付けたような返り血を浴び、いくらぬぐったところで血で血を洗うようなものだ。スカートは重みを増し、裾からぽたり、と滴が落ちる。
「だって、ギアッチョみたいに凍死させるとかきれいな技はないんだもの」
「そういう問題じゃあねえッ、てめーはイカれてるぜ」
付き合いきれない、とばかりに彼は戸口へと向かう。はその様子をぼうっと眺めていたが、姿が消えたのではっとして追いかけた。毛足の長い絨毯が靴音を飲み込む。
ギアッチョが歩いた後にはかすかに冷気が残る。特に今日のような大量虐殺のあとは。
世の中の不条理全てに苛立っているように見えて実は誰よりも冷静沈着な彼ですら、全開になった脳内物質がなかなかおさまらないのだ。のむき出しの二の腕には鳥肌がたち、ブーツのつま先が冷えていく。
彼女は途中途中で部屋をのぞき、拝借できそうな服を探す。けれどどれも血濡れで、自分でやっておきながら触るのも躊躇する有様だった。
まるで迷宮のような屋敷内を冷気をたどりながら進む。やがて長い廊下が現れた。
廊下には暗色の照明が転々と灯り、いかにも高価そうな絵画が華美な額縁に収まって並んでいる。これ全部売り払ったら一生遊んで暮らせそう、なんて考えながら気もそぞろに歩くは、廊下の突き当りで佇む人影に気づき、口元をほころばせた。
壁にもたれ、ズボンのポケットに両手を差し込んだ仏頂面がやがて鮮明になる。彼女は駆け寄った。
「待っててくれたの?ありが」
「遅ぇッ!」
言い終わる前にげんこつが落ちる。は頭を抑え抗議の目を向けるが実はそれほど痛くはない。
「ねえ……これってあれでしょう?ほんとは愛情の裏返し的なヤツなんでしょ」
「脳みそくさってんのか!?あァ?」
「腐ってません。それよりこの服どうしよう、このままじゃあギアッチョの車汚しちゃうね」
「なんで乗れる前提なんだクソがッ!」
転がっていた死体を豪快に蹴り上げて、それでも怒りが収まらない様子だ。
「おめーが遊んで返り血なんぞあびてっからだろーがッ!」
彼は怒鳴りながら暗がりに消える。少しやり過ぎちゃったかなとも口をつぐんだ。屋敷のエントランスを出るとそこは庭園で、方々に警備員の躯が点在している。水の止まった噴水と悪趣味な彫刻が並ぶ。
「」
声と共に何かが飛んできて、彼女はそれを慌ててキャッチした。
「それでも着てろ」
投げるように言い捨ててから、ギアッチョは最短距離で門扉へと向かう。
彼女の手には今、誰のものとも知れないジャケットが何着かあった。その辺の死体から引っ剥がしたものなのだろう。
「ギアッチョのは貸してくれないのね」
こっそりつぶやいたつもりだが、耳の良い彼には届いたようで、前方から罵声が飛ぶ。はなぜだかおかしくなって笑った。
二人の行く先には二メートルをゆうに超える堅牢な門扉があったが、すでに門番は死に、門扉は開いたままだ。彼はそこから悠々と出る。深い杉林の中にぽつんと建つ豪邸の周囲には音もなかった。
はまだかすかに冷気の残った黒いジャケットに袖を通す。残りは座席シートに敷こう、と決めた。元の持ち主が誰だろうと、それがギアッチョのくれたものならうれしい。
素肌に触れる生地の感触が冷たい。ギアッチョの殺し方はとてもきれいだ。
「ありがとう」
「てめーのためじゃあねえ。オレの車のシートが汚れるからだ」
「うん」
「、おまえよォ」
「うん?」
迫りくる森林とほとんど同化する黒い空。今夜は月もない。杉林に隠すように止めた彼の愛車まではあと数十メートルだ。
「オレたちが殺しをやるのは「仕事」だからだ。オレも、他のヤツらだってそうだ。そこんトコ忘れんな」
が珍しく神妙な顔でうなずくと、ギアッチョはふん、と鼻を鳴らす。それきり会話もなくなった。
遠目に車のボンネットが見えた辺りで、は街路灯に反射して光る小さな石をみつけた。拾い上げるとそれは本当にどこにでもあるような鉱石で、今は手のひらで死んだように転がっている。彼女はもうすっかり忘れていた先ほどの童話を思い出した。
こいしはよるになればかがやき、いえまでのみちをおしえてくれるはずです。
指を折り、小石をぎゅっと握り締めてみた。それを指の隙間から無造作に落とすと、編み上げブーツの横にころんと転がる。
「何とろとろしてんだ、置いてくぞッ!」
やや猫背で歩く背中を追いながら、彼女は声をひそめて言う。
「そんなこと言ったって、ちゃんと待っててくれるんだから」
彼女はギアッチョの気を引きたくて間の抜けたことや、煽るようなことをついつい言ってしまう。気の短い彼は面白いくらいに反応して、は少し幸せな気分になる。本当は怒らせたいわけではないのだ。たまに淹れてくれる苦めのエスプレッソも、気まぐれで交わす短いキスも、本当はぜんぶが愛おしい。
どうか、私より先には死なないで
あなたは私のヘンゼルなんでしょう?
はつぶやいて、祈る様にまぶたを閉じ、また開くと小さくなる背を追って再び歩き出した。
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