カムパネルラの憂鬱
月明りの中、出窓の天板に腰かけて本を読むその男の目は血を垂らしたような赤だった。
何度か瞬きを繰り返していると、男の深紅の瞳がこちらを向く。艶やかな唇が動いた。
「きさま、わたしが見えているな」
それはもはや問いではなく、確信に満ちた声だった。
「見えてます、確かに、しっかりと見えてます」
隆起した筋肉や引き締まった腹筋、それらが何とも言えずセクシーで目のやり場に困る。
彼の全身からはほとばしるほどの色気があって、あてられてぼうっとしてしまった。
「きさま名は何と言う、ハルノの部下か?」
「え?」
「この国では、ジョルノと呼ばれているようだな」
「あ、ボスの事ですか?なぜ、あなたが知っているのですか」
刺し向けられた刺客だろうかと一瞬身構える。だけどすぐに気づいた。
今彼が口にした名はおそらくボスの本名だ。そしてこの人はスタンド使いではなく間違いなく霊体。
生きてはいないもの、私には昔からそれを見ることができた。
「ちょうど退屈していた所だ、女、このDIOを楽しませてみよ」
「何ですかその無茶ぶり!?私はコメディアンじゃあないんです」
「フン、どうせ期待などしておらん」
「あの、あなたは本当にどなたですか?ここで自縛霊とかにはならないで欲しいんですが……」
男の視線はすでに手元の本に落ちている。
悪意、は感じられない。恨みつらみの関係でここにいるとは思えない。
むしろどちらかと言えば穏やかな、そういった世俗的なことからは遠く離れた場所にいるような気がする。
無意識に近づいていると、
「そこで止まれ女、それ以上このDIOに近づくことはゆるさん」
と人差し指を突きつけられた。
「教えてくれませんか?あなたが誰で、なんのためにここにいるのか」
「ハルノは」
言いかけて男が口をつぐむ。
ほぼ同じタイミングでドアが開き、そこから少し疲れた顔のボス─ジョルノ・ジョバァーナが姿を現した。
「?そこで何をしているんですか、電気もつけずに」
カチ、と音がして部屋の照明が灯る。
ボスは長いマフラーをするりと解いてコートを脱ぐと、それをソファに放り投げた。
大きなプレジデントチェアに倒れるように座り、ネクタイを指でゆるめてシャツの第一ボタンを外す。
私はソファに投げられたコートとマフラーをハンガーにかけてクローゼットに収めた。
「あなたが顔を出すなんて珍しいですね。何の用です?」
ボスはいつの間にか立ち上げたノートパソコンに向かっている。
「あの、ボス」
今も窓辺で静かに読書を続ける霊体の存在を、言うべきか言わないべきか悩んだ。ボスにはおそらく見えていない。
生命エネルギーであるスタンドと生命エネルギーのない魂だけの霊体は似ているようで全く別の存在だ。
パチパチとキーボードを弾く音が静かな室内に響く。
ボスの顔色はあまりよくない。おそらくあまり眠っていないのだろう。
あの霊体に悪意はない。
もしも見えていないのならよけいな心配事を増やさない方がいいのかもしれない、と判断した。
「幹部から話は伺っていると思いますが、今日から一週間幹部に代わり私のチームがボスの護衛にあたらせて頂きます」
その挨拶に伺いました、と頭を下げる。
上級幹部のグイード・ミスタは今日から約一年ぶりの休暇だ。
「ぼくは自分の身くらいは自分で護れるんですが」
「ダメですよボス、幹部にもキツク言われているんです。彼の留守中は私のチームが命に代えてもあなたをお護りします」
「そう簡単に命などと口にしない方がいい」
「良いではないか息子よ、上に立つのならば使える人間は多い方が良い」
「え!?むすっ」
「?」
霊体の男が発した言葉に驚いて声を出してしまった。ボスが怪訝そうに眉を寄せる。
「いえ、何でもありません、すみません」
反応してはダメだ。見えないものと喋っていたら、また奇異な視線を向けられてしまう。昔からそれで嫌な思いを散々してきたのだ。え、でも息子って何!?
うろたえる私にボスは驚くべきことを言った。
「……ひょっとして、見えているのですか?にも」
忙しなく動いていた指は完全に止まっている。私の動きも止まった。
「え?ボスにも、……見えるんですか?その、赤い目の」
「まいったな」
ボスがひたいに手をあてる。
「今聞いたと思いますが、彼はぼくのパードレです。一応言いますが、死んでいます」
*
私のボスは若干19歳にしてイタリアマフィア界に君臨する巨大組織、パッショーネのボスだ。
組織は前ボス時代よりも確実に躍進を遂げ、その勢力はイタリア全土を網羅するまでとなった。
街からは麻薬が消え、危険で貧しいイメージの強かった南イタリアもずいぶんと変わった。
もちろん犯罪が根絶されるわけではないけれど、それでも以前と比べれば激減したのだ。
全てはジョルノ・ジョバァーナという若きリーダーの元、一丸となって街を導いているからだ。
私の直属の上司は上級幹部のグイード・ミスタで、私のチームは主に幹部クラスの護衛をしている。
幹部の休暇中、通常の護衛は別チームに任せてうちのチームはボス専任となった。
「にわかには信じられないでしょう、ぼくも未だによくわかりません」
ボスはデスクに肘をついて手を組み合わせた。まるで祈りをささげる人のような神聖さがあって、思わず背筋を伸ばしてしまう。
ボスの説明はこうだった。
ある日窓から開けてくれ、と声がした。
許可を出すと窓から男が入ってきた。それは写真でしか知らないボスの父親だった(ちなみにこの執務室は8階だ)
紆余曲折はあったが、彼らは父子であることを認めあった。
「ミスタやフーゴには見えませんでした、と言うよりも、見えたのはアンタがはじめてですよ」
「私、ちっちゃい頃から霊が見えていたんです。それでだと思いますが、ボスもそうなのですか?」
「いえ、ぼくは別に霊なんて見た事がない。それに彼は霊とも少し違う気がするんです」
「どういう意味ですか」
ボスが伏せていた目を上げる。瞬きするたびに小さな風が起こりそうな束感のあるまつ毛だ。
「決してパードレには触れないでください。彼から触れる分にはいいらしいんですが、コッチから触ると消えてしまうんだそうです」
そう言えばさっき彼自身も言っていた。近づくことはゆるさん、と。
ボスのパードレ、ディオさんは今デスクに座って私とボスのやり取りを興味深そうに見ている。
「とにかく、そう言うことなので、この事は決して他言しないでください」
「それは、もちろんですボス」
「濃いめのカッフェでも淹れてくれません?キッチンは、わかりますよね」
「はい、ええと」
「一杯で結構です、君が飲むなら二杯で」
当たり前だ。霊体が飲むはずがない。
かしこまりました、と頭を下げてから執務室を出た。
パッショーネの本部事務所には月に数回の頻度で訪れている。
月一のリーダー会議と、それ以外はだいたいが直属の上司である幹部に呼びつけられるパターンだ。
用件はピッツァを買って来いだのカプチーノを淹れろだののパシリだ。
だけどそれは幹部なりの私への気遣いであり、たまには息を抜けと言ってくれているのだ。
「久しぶりですね、」
すでに勝手知るキッチンでカッフェを淹れていると背後から声をかけられた。
「フーゴ様、お久しぶりです」
「良い香りだ、ぼくにも一杯淹れて頂けます?」
「はい、もちろん」
彼の名はパンナコッタ・フーゴ、パッショーネの経営管理を一任されている参謀だ。
フーゴ様は組織の表立った代表としてイタリア全土を飛び回っているので出張が多い。
「淹れたらお持ちしますね。フーゴ様のお部屋でいいですか」
「ボスの執務室に寄るので、そっちにお願いできますか」
「かしこまりました」
普通のカッフェと濃いめに淹れたカッフェを持って、ボスの執務室に戻る。
やはり、と言うか、窓辺に座るディオさんにフーゴ様が気づいている様子はなかった。
ボスとフーゴ様はソファに向かい合い、なにやら話し込んでいる。
邪魔にならないようそっとカップを置き、部屋全体が見渡せるドア付近に立った。
それまで窓辺で静かに読書をしていたディオさんが、何を思ったのか突然歩み寄って来る。目の前まで来るとぐっと顔を寄せてきた。
「な、なんですか、あまり近づかないでください」
不審に思われないよう小さな声で訴えた。
彼はその端正な顔を傾げて私を覗き込み、キスされるんじゃないかと勘違いするほど顔を寄せてくる。
「きさま、よく見ると美味そうだな」
「近いです、ちょっ」
「む、肌が荒れているぞ、ここに吹き出物があるではないか」
ここ、でディオさんが私の顎をつつく。
間違って私から触れてしまったら確実にボスに殺される。
直立不動で指先一本動かさずに反論した。
「仕事柄徹夜も多いから仕方ないんです。ビタミン剤じゃあもう効かないし」
「よく見れば目の下に隈もある、訂正しよう、きさまの血はちとマズそうだ」
「血?血液にうまいまずいがあるんですか」
「、アンタさっきから何ブツブツ言ってるんだ」
フーゴさまが私を睨む。普段紳士な彼はキレるとスゴク怖いので慌てて黙った。
ディオさんは私から興味をなくしたようで、元いた位地に戻り本を読み始めている。
ボスと彼を交互に見て、改めて気づく。チョッピリ似ているとかそんなレベルじゃない。
ブロンドの髪や肌の色以前に、切れ長の瞳やシャープな顎や鼻の形や顔の輪郭、それらがそっくりなのだ。
半時ほどでフーゴ様が執務室を出ると、とたんに室内が静まり返る。
父子は何を喋るでもなく、ボスは雑務をこなし、ディオさんは本を読んでいる。
決してお互いを嫌っているふうでもなく、必要以上の関心もない、けれど認めている、そんな感じだ。
「いつまでそこに立っている気ですか」
唐突にボスが言った。私に向けられた言葉なのだと遅れて気づいた。
「私はボスの護衛ですから、幹部がいない間はずっといます」
「そうじゃあなく、座ったらどうです」
「あ、いえ、お気遣いには及びません」
気遣いと言うよりは、ちょうど正面に私が立っているのが目障りだったのかもしれない。
ボスは疲れた顔で分厚いファイルに目を通している。
「ボス、少し、休まれたほうが良いのではないでしょうか」
「ぼくは大丈夫ですよ、君こそ隈が目立ちますね」
「……すみません」
さっきディオさんにも言われた。
思わず頬に手を添えると、心なしか肌もかさついている気がした。
「君も休暇を取った方がいい、ぼくに警護は本当に必要ありませんから」
「ダメですボス、私のチームはなんと言われようとあなたの護衛につきます」
「ミスタに言われたから、ですか」
「そうです、幹部は私に任せてくれました。絶対に護りますからどうかお任せください」
「わかりました、では、せめて座っていてください」
ボスがソファに座るよう手で促す。
あまり目障りになっても申し訳ないので素直に従うことにした。
*ジョルノ目線*
『だからよォー、オメー休息は大事だぜ?心の洗濯っつうの?南国マジに良いぜッ周りビキニばっかでよーー』
「楽しそうで何よりです。ゆっくりして来てください」
『ま、そうさせてもらうぜッ!普段は働き詰めだからよォー、たまにゃあな』
「話は変わりますがミスタ、なぜぼくの警護にを推薦したんですか」
後ろでミスター、ミスター、と彼の名を呼ぶピストルズの声がする。それに混じって聞き慣れない声も。
今回の旅行の同行者はどうやら女性らしい。
『適任だろ?スットロそうな顔はしてるがアイツの腕は確かだ、何があってもオマエをキッチリ護るぜ』
「他意はないんですね?」
『そりゃあ、ねえことはねえな。気ィ使ってやったんだからよーシッカリやれよボス』
やはりそうか、と心底呆れる。
まだ高い位置にある冬の太陽が地上を照らしていて、その眩しさに目を細めた。
「そういうのを、余計なお世話って言うんです」
『あのなジョルノ、あんまり言いたかねーがオメーはまあまあ良い男だ、だってきっとOKすると思うぜ?』
「彼女には好きな男がいるんです。もう二度と、こういった気遣いはやめてください」
『マジかッ!?そりゃあ初耳だぜジョルノ、どんな野郎』
腹が立って通話を切った。
ミスタはなぜああも鈍いんだろうか。他人の恋愛沙汰には異様に敏感なくせに。
携帯電話をポケットに押し込んでから階段を下りるとが執務室の前で右往左往していた。
ぼくの姿を見ると青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「ボス、どこに行かれていたんですか!?」
「どこって、屋上ですよ。外の空気を吸いたくなったんです」
「そうですか、それなら良いのですが、狙撃の可能性もゼロではありませんので」
「心配せずとも、それくらいぼくも想定しています」
「……出過ぎたことを、申し訳ありません」
「いえ、それよりぼくはこれから外出しますので、車の手配をお願いします」
外出となると控えている彼女の部下があと4人加わる。
こんな日がもう五日も続いている。そしてまだ残り二日もある。正直うんざりだが、どれだけ警護はいらないと主張しても聞き入れてもらえないのでもう諦めた。
無駄だとわかって言うのは無駄だ。無駄は嫌いだ。
「ちょっと着替えてきます、まさか着替え中まで傍にいるなんて言いませんよね」
「も、もちろんです!廊下で、お待ちします」
はミスタの旅行相手が女だと知ったらどんな顔をするだろうか。残酷な考えが浮かび、それをすぐに振り払う。
つくづく無駄な感情だ。
こんなみっともない思考が容易く浮かぶのが恋ならば、ぼくにはいらない。不要だ。
執務室の奥にはシャワールームと小さな寝室がある。
チェストから新しいシャツを出し、スーツの色と合わせてネクタイを選んだ。
カフスをつけながら執務室に戻るとパードレが読みかけの本から視線を上げる。
「ぼくはこれから同盟組織のボスと会食がありますので、夜まで戻りません」
「そうか、ならばこのDIOも出掛けるとしよう。ネアポリスの街を見下ろせる高台の家を最近見つけたのだ」
「許可は、得ているというわけですね」
パードレはそうだ、と微笑んでから窓枠に手をかける。
彼はいつもその窓から出入りをしているのだ。
「息子よ、最近のおまえは楽しそうな顔をしているな」
窓枠に身を乗り上げたところで肩越しに振り返り、そう言った。
「ぼくが楽しそう、ですか?」
「気づいておらんのだな。あの娘と話すときのおまえはいつも楽しそうな顔をしておるぞ」
「あなたは母を愛していましたか?ぼくの母を」
唐突にそんな問いが出た。
なぜそんな言葉がでたのか、自分でもわからない。
「すみません、記憶がないんでしたね」
「ハルノよ、おまえが知りたいのはもっと別のことではないのか?」
意味深な言葉を残し、パードレは窓からふわふわと雲の上を歩くような速度で下りた。
彼は太陽の光を浴びても砕けることなく、もう血液を摂取する必要もない。
これから先、彼は永遠に生き続けるのだろう。
生前の記憶も血への渇望も、何も覚えていない。
百年にも渡るジョースター家との凄絶な戦いの終幕を、彼は覚えていないのだ。
それをぼくの口から言うつもりはない。
彼がこれからどうなるのか知らないけれど、ここにいたければぼくがここに在る限りいればいいと思っている。
「だけど、息子なんてどの口が言うんだ」
その点にだけは反論したい。
あの男は父親としての義務や責任をまるで背負う気がないくせに、自分の血をわけた息子にただちょっとだけちょっかいを出したいだけなのだ。
「ボス、そろそろお時間が」
扉の向こうからの声。
「すぐに行きます」声を返し、上着に袖を通すとクローゼットからコートとマフラーを取り出した。
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