太陽に触れてしまった
うだるように暑い午後だった。
寮の部屋にはクーラーがなく、運が悪いことに私の部屋は角部屋で直射日光があたる。窓を開けても扇風機をつけても何の改善にもならない。このままでは死体が一つ出来上がりそうだったので部屋を出た。
食堂?談話室?図書室、は閉まってるはずだ。どこに行こうかと迷いながら廊下を歩く。窓から差し込む焼けつくような日差しが床板にくっきりとした陰影を落とし、吸い込む空気までもが熱を含んでいた。
特に目的もなく階段を下りて屋外に出ると、グラウンドを横切って校舎がある方に向かった。
イタリアはとっくにヴァカンスシーズンで、当然学校もお休み、私みたいに寮に残っている生徒は少ない。
この国の夏は湿度が低く、日なたは灼熱でも日陰は案外過ごしやすい。涼しい風が吹き抜ける木陰の通路を歩き、アーチの庇をくぐって校舎棟へと移った。
教室の扉はどれもぴしゃりと閉じられている。特にやることもないのでぶらぶらと歩いて、一階の突き当りまで来ると二階へ移動した。
微妙にずれて並ぶ机、消し忘れのある黒板、ひび割れたコンクリの壁。本来いるはずの生徒が消えた校舎はまるで時間が止まったように静かだった。
自分の教室までたどり着いた頃には汗だくで、持っていたガーゼハンカチで汗を拭った。
引き戸に手を伸ばして、半分開けたところで思わず手が止まる。
無人だと思った教室には先客がいた。
喋り声や笑い声、時には教師の怒声など、そういった喧噪が消えた教室で彼は一人、存在していた。
「入らないんですか、さん」
「えっ!?」
彼は振り返らずに私の名を呼んだ。続いて、ゆっくりとこちらを向く。
黒い瞳が私を捉えた。
「な、なんで私だって分ったの?」
ドキドキしながら訊ねると、彼、汐華初流乃は「簡単なことだ」と言った。
「ここから見ていたんだ、あんたが寮から歩いてくるところを」
言って、指で窓外を指す。大きな窓からは確かにグラウンドや渡り廊下が見渡せた。
「ああ、なるほど」
「それと、廊下はもう少し静かに歩いた方がいい」
「なにそれ先生みたい」
机と机の間をすり抜けて汐華初流乃が座る窓側まで歩み寄った。
彼の隣の椅子に手をかけて、少し考えてから更にもう一つ手前の席に腰かける。
汐華初流乃は勉強も運動も人並み以上に出来てさらに女子にも人気がある。
嘘みたいに完璧な男の子だけど、唯一愛想がない。
「なんで窓開けないの?暑くない?」
彼の額から汗が一筋流れるのを見つけた。私の方も実はもう汗だくで、背中や胸の谷間に汗が伝い落ちる。不快感が酷い。
「開けたかったらどうぞ」
と汐華初流乃が言ったので、私は立ち上がって窓という窓を全て全開にした。ついでに廊下側の扉も開けると風が通り抜ける。
吹き抜ける風は思ったよりも強く、汗で濡れた肌が冷えていく。カーテンが豪快に捲れ上がり、汐華初流乃の真っ直ぐな前髪も風にそよいだ。
私は元いた席まで戻り、ふと思う。
「ここ誰の席だっけ」
「さあ」
「えーと、ああ、フェルディナンドくんだ」
いつも鼻がトマトみたいに赤い男の子だ。
ちなみに初流乃くんが座るのはポニーテールがトレードマークのアメリアちゃんの席だ。彼女も汐華初流乃の取り巻きの一人だ。
机に頬杖をついて顔だけ初流乃くんに向けた。
「私と初流乃くんってさ、別に仲が良いわけじゃあないよね」
「なんですか突然」
「なんかさ、同じ日系ってだけで仲良いと思われてるみたいだよ」
「へえ、そうなのか」
「うん。そうみたい」
足をぶらぶらと動かす。そうするとふくらはぎのあたりも少し涼しくなる。
できればスカートを捲り上げたい所だけどさすがにそれは憚られる。
じりじりじり、そんな音が聴こえてきそうなグラウンド。
今は誰もいない。サッカーをする男子もそれを応援する女子も、先生も用務員のおじいさんもいない。
レールを滑るカーテンの音。
誰かが飛ばしたインクや絵の具で汚れたカーテンが気持ち良さそうにたなびいていた。
「学校のカーテンってなんで全部白なんだろう」
「赤や黒だと気が散るからじゃあないですか」
独り言のつもりでつぶやいた声に返事があった。しかも妙に納得させられる。
「確かにそうかも」
「もしさんが学長で、何色にしても良いと言われたらどうしますか」
「え?どうだろ、どうかなあ」
改めて問われるとわからなくて首をひねった。
汐華初流乃は助言をくれるでも自分の意見を言うでもなく、ただじっとこちらを見ている。
さらさらと風に揺れる黒髪が綺麗で、彼と同じ日系であることを少し誇らしく思った。
彼は生粋の日本人ではないらしく、そのせいなのか鼻筋が通ったとても端正な顔立ちをしている。モテモテなのもうなずける。
私は悩んだ末に言った。
「水色とかどう?オレンジとかピンクもいいよね、水玉とかストライプもいいかも」
「それ色って言うより柄じゃあないか」
「あ、そっか」
「でも、夢があっていいと思うよ」
「バカにしてる?」
若干むっとして言い返すと汐華初流乃は口角を僅かに上げて笑った。
微笑む、の方が近いかもしれない。どことなく気品を感じさせる笑い方だった。
それから沈黙が続いた。先に口を開いたのは意外にも初流乃くんの方だった。
「さんは家には帰らないんですか」
せっかくの休みなのに、と彼は続ける。今の今までその話題が出なかったのが逆に不自然なくらい、この時期に顔を合わせた生徒たちはみんなその話題を口にする。
「うん。帰ってもいいけど、寮にいる方が気楽だから。初流乃くんは?」
「ぼくもそんな感じだ」
予想通りの返事だった。
実は、彼の境遇についてはちょっぴり耳にしたことがあった。家族とあまりうまくいっていないらしい。ヴァカンスシーズンだけじゃなく、イースターも冬休みも彼は寮にいたようで、それは私にしても同じだった。
「私たち、似てるかもね」
水玉やストライプのカーテンが揺れる校舎で授業を受ける自分と彼の姿を一瞬だけ想像してみた。
汐華初流乃が立ち上がる。彼の顔からはもう笑みは消えていて、いつもの飄々とした無表情だった。
「さん」
「でいいよ、私も初流乃くんって呼んでるし」
「じゃあ、」
呼び捨てだったことに少し驚いて顔を上げる。大きな瞳と密度の濃いまつ毛。一瞬見惚れそうになって、慌てて顔を逸らした。
彼は「実は」と前置きしてから口を開いた。
「ぼくはこれから、ちょっとしたアルバイトを始めようかと思っているんだ。あんたも暇だったら一緒にどう?」
「アルバイト?ハンバーガーショップででも働くの?」
「まさか」
彼は意味ありげに言った。さっきの微笑とは違う、含みのある笑みを浮かべている。
なにか予感というか、予兆というか、そんなものに後押しされて私は「やる」と一言だけ返した。胸が高鳴っていた。
この夏は、一味違う夏になるかもしれない。なんて。
タイトル:しのぐ式さま
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