今年もよろしく



 肌寒さを感じて目を覚ました。見ると肌掛けが腰の位置までずれている。
 鳥肌がたつほど寒いというのに隣で眠る恋人、ジョルノが目を覚ます気配はない。は布団を引っ張り上げて、彼の背中にぴったりと寄り添った。

 この時期の夜明けは遅い。
 時刻は午前6時を少し過ぎたところ。6時にタイマーをセットしたオイルヒーターはもう稼働しているが、暖まるまでに一定時間がかかるのでもう少しの辛抱だ。エアコンのリモコンはなぜか窓辺のソファに転がっていて、とても取りに行く気にはなれない。

 はジョルノの剥き出しの肩に唇を寄せて、星形の痣にキスをする。それからお気に入りの襟足に鼻をうずめた。
 腕枕をされるよりも後ろからくっつく方が好き。いつもはキッチリ結われている襟足に鼻をうずめてすんすんと匂いを嗅ぐのが好き。がそう言うと犬みたいですね、と茶化して笑うジョルノが本当は照れていることを彼女は知っている。
 触れた部分の肌と肌に熱がこもって、じわじわと温かくなっていくのを感じながら、言葉では言い表せないほどの幸福感があふれてくる。
 あと一時間もすればこの静寂は朝の喧噪に取って変わられる。だからこそ、残りわずかなこの瞬間をしっかりと味わっておきたかった。

「ジョルノ、愛してる」

 返事の代わりに届くのは静かな寝息。愛してる、ともう一度ささやいてからは再び目を閉じた。

 次に目を覚ますと薄暗かった室内が白い光で満ちていた。カーテンを透過する朝の光がベッドの先まで伸びている。腕の中にあったはずの体温が消えていて、顔を上げるとクローゼットの前でネクタイを締めているジョルノと目が合った。

「おはようございます、

 ジョルノはすでに髪も整えて爽やかに微笑んでいる。一方彼女は寝起きでおまけに下着姿だ。目でガウンを探すとベッドの脇に落ちている。布団から腕だけ出して手繰り寄せ、そそくさと羽織って腰紐を固く結んだ。

「おはよう、ジョルノ」
「起きなくていいですよ。まだ眠っていてください」
「いいの。それよりどうしたの?出かけるの?」
「ええ、少し事務所に」
「え?大晦日まで働くつもりなの?信じられない」

 は呆れかえった声を出した。ルームシューズにつま先をつっ込んで立ち上がる。
 昨日まではずっと出張で、ようやく会えたと思ったらまた仕事だ。ジョルノと付き合ってからというもの、は自分の寛容さを試されているような気分だった。

「すみません。なるべく早く帰ります」
「早くって何時なの?日暮れまでには帰ってくるの?」
「努力します」
「そんな風に言われたら私がワガママ言ってるみたいじゃない」

 カーテンを捲ると朝霧につつまれたネアポリスの街並みが窓一杯に広がった。陽だまりのように暖かい室内とは違い外は氷点下だ。

「あなたのことをワガママだなんて思ったことは一度もありませんよ、。いつだってぼくを気遣ってくれている」

 窓辺まで歩み寄って来たジョルノが背後からを抱きしめる。
 脇の下からまわった腕が彼女の下腹の前で遠慮がちに組まれた。

「そうよ、私ほどジョルノを大切に思う彼女はいないんだから」
「知っています。ですがぼくだって、誰よりもあなたを想っています」

 だったらもっと傍にいて、と言いそうになっては口を噤んだ。
 彼を困らせることは彼女にしても本意ではない。結局のところ、はいつだってバカみたいにジョルノのことが好きで、イースターやヴァカンスシーズンに放っておかれても大晦日を一緒に過ごせなくても彼以外には考えられない。

「ジョルノの好きな料理を沢山作って待ってるから、なるべく早く帰って来てね」
「タコと手長エビのスパゲッティはメニューに入ってます?あのアボカドソースのヤツ」
「もちろん。タコのサラダもね」
「楽しみです。の手料理は本当に美味しいですから」

 ジョルノは言って、心から嬉しそうに微笑んだ。
 はジョルノの腕に包まれたまま、くるりと反転して彼と向かい合う。顔を寄せて短いキスをした。

「明日は休みを取りましたので一日一緒にいられます」
「えっ?そうなの?」
「ええ、ドライブでも行きますか?それともゆっくり過ごしますか」
「……どうしよう、考えとく」
「今夜もなるべく早く戻ります。ニューイヤーを一緒に祝いましょう」
「ええ。楽しみに待ってるわ」

 きっと今年も年越しの瞬間には方々で爆竹が鳴り、陽気な歌声が響くのだろう。
 は思い出していた。
 彼女とジョルノが初めて会ってからちょうど二年経つ。高校時代の友人達が集まったニューイヤーパーティになぜかジョルノも来ていて、やけに落ち着いた男の子だなというのが第一印象だった。
 ギャングになったらしいと噂のミスタと連れ立って来ていて、その時はまさか年下の綺麗な少年がギャングのボスだとは思いもしなかった。実を言うと今でもたまに忘れそうになるのだ。

 が身支度を整えている間、ジョルノが簡単な朝食を用意した。
 一緒にカッフェを飲んで、慌しく出て行くジョルノを車まで見送るとは真っ直ぐにキッチンに戻る。

 大量の食材は昨日買っておいた。はエプロンをつけて、腕まくりで今夜のチェノーネの準備に取り掛かる。
 メニューはジョルノの好きなタコのサラダと同じくタコのスパゲッティアボカドソース、牛ヒレ肉のローストとアサリのソテーと野菜とビアンケッティのフリット。ドルチェはチョコレートソースのプディングとリコッタチーズケーキ。この国の大晦日は食べきれないほど並んだ料理をつまみながら恋人や友人たちと過ごすことが多い。

 高台に建つこの屋敷は一緒に住もうとジョルノがプレゼントした家だ。度肝を抜かれた贈り物ではあったけれど嬉しかった。だけど一人で過ごすにはこの住まいは広すぎる。早く帰って来てね、とつぶやいてからは料理の下ごしらえをはじめた。





 ジョルノがと出会ったのはちょうど二年前の今日、ミスタに誘われたあまり気乗りしないニューイヤーパーティだった。
 彼はそういった場があまり得意ではなく、何より山積する問題や直面した理想と現実の狭間で頭を悩ませていた時期だった。

 根を詰めるジョルノに気分転換をさせようとミスタが誘ってくれたのはわかっていたし、その気遣いはとてもありがたく感じたので、ジョルノはあの夜彼を立てるつもりで参加した。

 そのパーティはミスタの高校時代の友人が集まったもので、彼の人柄からもわかるように陽気で気の良い連中ばかりだった。の第一印象はよく笑う可愛らしい女性で、好印象ではあったものの数時間で特別な感情が生まれるわけでもなくその場は終わった。再会したのは初夏だった。

 会ったのは書店の文学コーナーで、ジョルノは声をかけられるまで彼女の存在をすっかり忘れていた。
 話すうちに二人には19世紀のフランス文学が好きだという共通点があることがわかり、彼女が近くのバルでアルバイトをしていることも知った。

 後日、ジョルノはその店にふらりと寄ってみた。どこにでもあるようなごく普通のパニーノとエスプレッソが美味しい店で、人懐っこく笑顔の可愛いは常連客たちから愛されていた。

 当時のジョルノは、ギャングが「正義」ではないことをすでに理解していたし、ある程度の落とし所や必要悪の存在を認め、以前よりはずいぶんと生き易くなっていた。
 けれど裏切りや欲望がひしめく世界で足を取られないよう身につけた生きる術は、ふとした瞬間にとても虚しさを募らせる。そんなとき、思い出すのはの笑顔だった。
 交わす言葉は多くなく、バルの店員と客の当たり障りのないものだったが、不思議と帰る頃には濁った水がクリアになるように爽やかな気分になった。

 漠然と、あの笑顔が毎日見られたらいいだろうなと思い始めたのが秋の終わりで、ある時、彼はそれが恋愛感情なのだと自覚する。

 カタギじゃありません、ギャングのボスなんです。なんて言われて私がオッケーすると思ったの?

 後になって、はよくそう言ってジョルノをからかった。
 あの日の彼女に想いを馳せながら、彼は乗り慣れない高級車を車庫に入れ、ブレーキを踏み込み、サイドブレーキを引いてエンジンを止めた。

 部屋に戻るとテレビからジャン・ギャバン主演のレ・ミゼラブルが流れていた。が、唯一の視聴者であるはソファで眠りこけている。ずれたブランケットを掛けなおし、ジョルノはソファの前に腰を下した。

 オイルヒーターの優しい暖かさが眠るには最適な空間を作り、は静かな寝息をたてながら気持ち良さそうに眠っている。
 リモコンで映画を消すと、テレビ画面は何の飾り気もない黒一色になった。すでに民放は終わっている時間帯だ。
 腕時計に目を落とすも、文字盤が割れて時計の機能は果たしておらず、いつまでも11時57分51秒を指している。正確な時間を掛け時計で確認すると、何の感慨もなく新年が訪れていた。しかもすでに一時間と26分が過ぎている。

 起こすつもりはなかったが、ジョルノがの手をそっと握るとまつ毛がぴくりと動いた。彼女は目を開きかけ、眩しかったのかすぐにつぶる。眉間にしわが刻まれている。

「……今、何時?」
「1時27分になりました」

 ジョルノが答えるとわずかな間があった。ぱっと目が開いたかと思うと、が上半身を起こす。

「やだ、私寝ちゃったんだ」
「かわいい寝顔でしたよ」
「それはどうも。で?いったい何時に帰って来たの?私11時くらいまでは起きてたのよ」
「すみません、つい今しがたです」

 ジョルノは起き上がろうとしたを押し戻して抱きしめる。どうしたの?と笑う彼女の細い腕が彼の背中にまわった。もしいつかが自分の前から去る日が来たら、きちんと感情を隠して彼女を見送ることができるだろうか、ジョルノは自問する。幸せであればあるほど終わりを考えてしまう。こんな夜は特に。
 これほど密着すればスーツに残った硝煙やまだ新しい血臭がハッキリと伝わるだろう。には自分よりももっと相応しい男がいるだろう。それがわかった上で、それでも彼はを手放せないでいた。それがただのエゴだとしても。

 今夜は予てより内偵を進めていた麻薬の密売グループに関する対策会議だったが、新たな事実が浮かび上がり急遽ヤツらのねじろを襲撃した。新生パッショーネ設立以来の腹心の部下が内通者だったことにジョルノもミスタも動揺を隠しきれなかった。

 がジョルノの尖った顎先にキスをする。彼も身を屈めての白い首筋に口づけた。軽く食むとくすぐったそうに身を捩る。の肌理細かな肌からはいつもほんのり甘い匂いがする。フェロモンと呼ぶにはあまりに無防備な、彼女らしい可愛らしい香りだ。

「ねえジョルノ、まさか食事はして来てないわよね」
「もちろんですよ、朝からあなたの手料理を楽しみにしていましたから」
「そ、良かったわ。じゃあ一緒に食べましょう」
「もしかして、食べないで待っていてくれたんですか」
「そのつもりはなかったんだけど、寝ちゃったから」

 とぼけるの鼻先にキスをする。そのまま唇を重ねた。顔を離したは、何かを思い出したように「あ」と声を上げた。

「どうしたんです?」
「言うの忘れてた。新年おめでとう、ジョルノ」

 今年もよろしく、と付け加えてにっこりと笑う。その何気ない言葉にジョルノは胸が詰まった。
 今年一年も共に過ごすことができる。ありふれた明日がどれほど尊く愛おしいものなのか彼はよく知っていた。
 年越しの瞬間は銃撃戦のさなかだった。常に気を張り続ける毎日の中で、と過ごす時間はジョルノを年相応の自分に戻してくれる。彼は目を細め、を見つめて同じ言葉を口にした。

「新年おめでとう、。こちらこそよろしく」
「ええ」
「愛しています。あなたが好きでたまらないんです」
「えっ、なに、いきなり」
「いつもそう思っています、いつだって」
「……ありがとう」
「まいったな」
「え?」
「食事よりも先にあなたが欲しくなってしまった」

 彼が言うと、の頬がまるで十代の少女のように染まる。そのなんとも言えず愛らしい様子にジョルノは無意識に腰を抱いた。そのまま抱き寄せると、がジョルノの腕を軽くはたく。つんと上がった眉ですら愛おしかった。

「へんなこと言ってないで、ジョルノはピッツァをオーブンに入れてワインを注いでちょうだい。私は料理を温めなおすわ。腕を振るったんだからしっかり食べてよね!」

 口元がほころんでしまわないよう気をつけつつ、ジョルノはキッチンに向かう背中を追った。
 食べきれないほどのご馳走がテーブルに並ぶ。二人は真夜中だというのにドルチェまでしっかりと平らげてワインを水のように飲んだ。ご機嫌になったが、さっきも観ていただろうレ・ミゼラブルを一緒に観ようとジョルノを誘う。彼はその誘いをすみやかに断った。

「ジョルノはただの食わず嫌いなのよ。ジャン・ギャバンの演技は本当に素晴らしいのよ」
「同じことを何度も言わせないでください。ぼくはユーゴーの原作だけで充分です。映画もミュージカルも興味ありません」
「わかったわ。じゃあジャン=ポール・ベルモンドが主演の方を観てみる?待って、今持って来るから」
「わからない人ですね、原作以外は邪道だって言っているんですよ。これだけは譲れません」
「なによッ、わたしだって譲れないわ!こうなったら何がなんでも一緒に観るんだから」

 彼らの主張はまったくの平行線で、どちらも折れないのでいい加減飽きて別の話題に移り、くだらないことで笑ったり新しいワインを空けたり、抱き合ってキスをしたりたまには真面目に語り合ったりしながら朝を迎えた。




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